35.昭和プロレス

2022年8月 4日 (木)

「昭和プロレス掲示板」が終了

長らく昭和プロレスファンのネットでの交流の場となってきた「昭和プロレス掲示板」が
2022年8月1日をもって終了しました。

この掲示板は「ミック博士の昭和プロレス研究室」に付随するものですが、
本家のサイトはもちろん健在です。
http://www.showapuroresu.com/


ただ、掲示板は本家サイトとは別のシステムで運営されており、
それを提供していた、「teacup. byGMO」のサービス終了に伴うもの、ということになると思います。

つまり、「昭和プロレス掲示板」に限らず、
同サービスを利用して運営されてきたすべての掲示板が、8月1日13時でいっせい閉鎖状態になったということです。

更新が終了したのではなく、サービスそのものの終了なので、
過去レスもすべてネット上から削除された、消えてしまったという状況。


今、従来のアドレスでアクセスを試みても、以下のような画面になります。
Teacup-bygmo


こうなった理由は、ネット事情が日々変化し、SNS隆盛の中(SNSにも栄枯盛衰があるけれど)
「掲示板」という形が古くなった、役割を終えつつある、という面がもちろんあります。
というか、「teacup.byGMO」のサービス終了については、それ以外の理由はないでしょう。

一方、「昭和プロレス」という分野はどうか。
「昭和プロレス掲示板」がいつスタートしたのかはわかりませんが、
本家サイトは1999年からということなので、それと同時期とすれば、
平成11年、まだ昭和もそんなに遠くない時期でした。
それから23年、昭和が終わってからは34年が経ちます。

その後の2000年代。
昭和プロレス“ブーム”とまではいえないにしても、
昭和プロレス探求はひとつのジャンルにはなり、
出版物やDVDソフトもそれなりの数がリリースされてきました。

特に、平成以降も継続した新日本プロレスや全日本プロレスはともかく、
昭和の時代に15年ほど、ほぼ一貫してマイナー団体として存在し、
昭和56年(1981年)に消滅した国際プロレスにまで、
僅かながらでも脚光が当たるとは、思いがけないことでした。

本家サイトはもちろん、掲示板の存在も、この“ブーム”を牽引したひとつではあることは
間違いないと思います。

その点では掲示板の消滅は寂しい限りですが、
昭和終了から34年、国際プロレスの消滅から41年、さすがに昭和も遠くなりました。
昭和のプロレスを語る掲示板も、その役目を終えたというところでしょうか。

「昭和プロレス掲示板」終了について、
現在までのところ、管理者氏は本家サイトにおいて特に何もコメントしていないようですが、
この終焉も時代の必然なのかも知れません。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年5月 4日 (水)

【昭和プロレス】マッハ隼人追悼イベント 闘道館20220504

昨年、2021年11月に亡くなった元プロレスラーマッハ隼人さんの追悼イベントが
東京巣鴨の格闘技・プロレスショップ「闘道館」で開催されたので、参加してきました。
マッハ隼人についてはこのブログでも追悼記事を書いています↓
【昭和プロレス】マッハ隼人死去/海外でデビューし日本でも活躍した異色の覆面レスラー


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20220504


VIVA LA LUCHA vol.44
マッハ隼人 復活祭
【日時】2022年5月4日(水・祝)13:15開場/13:30開始
【会場】闘道館
【出演】実行委員
・ドクトル・ルチャ:清水勉
・マッハ隼人アルバム:国枝一之
・マッハ隼人ファン:冨倉太
【内容】
マッハ隼人(肥後繁久)さんの秘蔵写真、マスク・コスチューム等公開。
メキシコ、グアテマラ、パナマ、ロス、カルガリー等の記録・画像・動画公開。

マッハ隼人さんの追悼イベントは本来は1月に予定されていましたが、
コロナ禍で延期となり、ようやくの開催でした。

 


晩年は日本で
マッハ隼人さんはプロレス引退後はカリフォルニアで造園業を営んでおり、
仕事からリタイヤされた後も米国に住んでいたのですが、
実は最晩年は日本に帰国しており、故郷の鹿児島で亡くなりました。

実行委員として名前のある国枝一之さんという方は現役時代から晩年まで隼人さんと親交のあった方で、
今日は貴重な資料や証言を聞くことが出来ました。
(本音を言えば、この方の話をもう少しゆっくり聞きたかったですが)

国枝さんはマッハが国際プロレスに入団して初めてシリーズとなる1979年11月のデビリシッシュファイトシリーズの
テレビ放送初戦(開幕戦ではない)の後楽園ホール大会の放送の冒頭にダイジェストで流れた
隼人と鶴見五郎の試合を見て興味を持ち、最終戦の後楽園大会を観戦、交流を持つようになったとのこと。

このシリーズは開幕当初に、後の独立愚連隊に繋がる鶴見の造反劇があり、
その顛末を視聴者に伝える中で、たまたまこの日に行われた鶴見対隼人が放送され、
それが隼人のお目見えになったという、ややこしい事情があるのですが、
私も最も熱心にプロレスを見ていた時期で、よく憶えています。
今日はこの日の映像も再見できて、良い機会になりました。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年4月28日 (木)

【国際プロレスの謎①】大木金太郎入団の経緯 独自推論

昭和の時代に存在した国際プロレス(1967-1981)については思い入れもあり、色々書いてきました。
この団体についてはいくつもの謎、不明点がありました。

2000年以降、雑誌の「Gスピリッツ」が多くの関係者を取材して証言を得たり、
またネットの普及で様々な情報が集まり、幾多の不明点が解明されました。

しかし、まだ残っている謎もあります。
また、一応解明されたかのように思われているが、まだ疑問のある面、
あるいは、事実とは違う形で伝説が通説になってしまったのではないか、そんな風に感じることもあります。
それらからピックアップし、軽めの検証をしていきたいと思います。


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大木金太郎の入団
1980年2月、ベテランレスラーだった大木金太郎の入団が突如発表されました。
国際プロレスは1981年9月に解散となりますので、だいぶ末期の話です。

この入団については当時から、国際プロレスの吉原社長の頭越しに
放送していた東京12チャンネルが話を勧めて実現した、という見方が大勢だったと思います。

実際、近年も12chのスタッフ氏が大木からの依頼で話を進めたと証言しています。
一方で、プロレス記者の故菊池孝氏は12chの依頼で自分が斡旋したと、晩年語っています。
この二人の証言には食い違いもありますが、いずれにしろ、吉原社長を通さずに話が進んだという点は同じです。
大木のギャラも12chが支出していたといいます。

しかし、本当にそうなのだろうか?
なんで吉原社長を通さずに話を進めたのか、不自然ではないか。
ここが今回のテーマです。
当時の状況から考えてみます。


大木は1975年以降、フリーの立場で全日本プロレスに参戦してきました。
それなりの存在感を発揮していましたが、79年頃はちょっと微妙なポジションになってました。
大木が国際入団を望んだ、もしくは話があって乗ったとしても、おかしくはありません。

国際と大木は設立当時に少し因縁があるのですが、その後は疎遠でした。
ただ、77年頃に国際と全日の協調路線の中で、大木率いる韓国勢も含めた三軍対抗の図式が出来上がりました。
78年には全日は絡まず、国際の大半のレスラーが渡韓して、大木主催の興行に出場しています。

大木はこれ以前も以後も度々日本からレスラーを呼び、韓国で興行を打っていますが、
日本側の参加人数からすれば、この時が最大規模ではないかと思います。

そして79年春には大木の実弟の金光植(キラーキム)と弟子の梁承揮(後の力抜山)が
留学生として国際プロレスに来日、7月まで3シリーズほど試合にも出場しています。

二人はテレビマッチにも少し登場しましたが、大きく扱われてはおらず、この留学が12ch主導とは思えません。
吉原社長は経営についてはワンマンだったとも言われますし、
この留学は吉原社長と大木にそれなりの強い関係があったから実現したと考えるのが自然です。

二人にそれなりの関係があったとなると、大木入団の話が吉原社長抜きで進むのはかなり不自然です。
しかし、関係者の証言はだいたい一致しているし、不自然だろうと疑う余地はないのではないか。
それとも、何か考えられるのか?


以下、ひとつの推論です。
大木の国際入団の話は、吉原社長と大木の間で出た(どちらが言い出したかは別として)。
しかし、国際には大木にギャラを支払う余裕はない。

実は、当時の12chのスタッフ氏は通常の放映権料の他に、
局と折衝して国際の為に様々な特別予算を組んでくれていました。
大木の件も吉原社長から依頼され、12ch主導の企画として、局から予算取りをしてくれのたではないか。
そう考えるのが、一番自然に思えます。

あくまで、周辺事情からの傍証による推測です。
あまり深掘りしても微妙な面もあるので、この話はここまで。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年1月15日 (土)

【昭和プロレス】ストロング小林死去 昭和の名レスラー/タレント ストロング金剛としても活躍

元プロレスラーのストロング小林氏が死去しました。
昨年の大晦日に亡くなっていたとのこと。81歳没。

「怒涛の怪力」で売った昭和期を代表するプロレスラーの一人。
引退後は「ストロング金剛」名義で俳優・タレントとしてもそこそこの活躍をしました。


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ストロング小林
本名 小林省三(こばやし しょうぞう)
1940年12月25日 - 2021年12月31日)

プロレスラーとしてのハイライトは
・国際プロレスのエース
・国際を離脱してアントニオ猪木とプロレス史に残る名勝負
・新日本プロレスでも主力として活躍


小林についてはネット上でも意外なほどよく語られています。
いくつかポイントを挙げつつ、足跡を振り返ります。
どちらかといえばよく語られている点はさらっと流し、あまり語られてないことを書いていきます。



長い社会人経験
高校卒業後、1966年に旗揚げ興行前の国際プロレスに入門するまで、
おそらく7年半くらい国鉄職員として過ごしています。
特にスポーツ競技をしていたわけでもなく、ホディビルダーともいわれますが、
ジム通いでトレーニングはしていたが、ボディビル大会に出たことはないと本人が後年語っています。
この長い社会人経験は当時のプロレスラー、特に後にエースを張るようなレスラーには極めて珍しいキャリアです。
そして観戦に行ったボディビル大会でスカウトされ、1966年11月に入門。


覆面レスラーとしてデビュー
翌1967年に覆面レスラー「覆面太郎」としてデビュー。
これは1シリーズだけで、1968年1月に素顔で再デビュー。
格闘技経験のないグリーンボーイながら大物外国人レスラーと戦い引き分けるなど、破格の待遇でした。


エリート街道
その後ヨーロッパに遠征。
1969年5月にパリで行われたタッグトーナメントに豊登と組んで優勝し、
初代IWAタッグ王者として凱旋し、日本で防衛戦を重ねます。
当時の戦績は素晴らしく、おそらくこのままエースに据える予定だったと思います。

しかし想定外のことが起こります。
国際にとっては嬉しい誤算だったのですが、国際はアメリカのAWAと提携関係を結び、
アメリカから大物外国人レスラーの招聘が可能になったのです。
良いことなのですが、そうなると北米での試合経験のない小林がエースでは心もとない。
そこで、小林は1970年にAWAに出発、なかなか立派な成績を残します。

ここらは本格エース擁立に向けてきっちり手順を踏んでいると思います。
ただ、後になってみると、エース不在の期間が長すぎたという批判もあったりはします。


IWA世界王者としてエースに
1971年7月、小林は海外に流出していた国際プロレスの看板タイトル「IWA世界ヘビー級王座」をアメリカで奪還、
チャンピオンとして凱旋帰国を果たします。
国際のエースとして君臨したのはここから1974年2月までの約2年半なので、あまり長くはないのですが、
この時期はAWAとの提携で大物外国人レスラーが多く来日しました。
小林はそれら強豪を撃破してタイトルを守ったので、王者時代の実績は立派という評価がされます。


猪木との“昭和巌流島”決戦 表と裏
しかし1974年2月、小林は王者としての最後の防衛戦に勝った後、国際プロレスを離脱
翌3月には新日本プロレスのエース アントニオ猪木と戦い、ジャーマンスープレックスホールドで敗れます。
この試合はプロレス史上屈指の名勝負と言われ、蔵前国技館に空前の観客を集めたことでも知られます。

しかし、エースのまま離脱した小林が敗れたので「新日本>国際」を証明する形になってしまいました。
小林の離脱理由は、もちろん国際での扱いの不満があったとも言われますが、よそで書かれているし今回は言及しません。
ただ、昭和の時代、プロレスは基本的には真剣勝負とされていました。
勝負師として敢えてアウェイでの戦いに挑んだ小林、勝敗は時の運との見方も成り立ちました。

しかし、今はプロレスは(昔から)シナリオがあるものとの見方が定着しています。
となると、小林はいわゆる“負けブック”を飲んだということになる。
ここはちょっと微妙なところです。


新日本プロレス三強として
小林は猪木戦後にWWWF(後にWWF→WWEと改称)に遠征してそこそこ活躍。
74年末にもう一度猪木と戦い、こちらも好勝負でした。

75年は年初からフリーとして新日にレギュラー参戦し、やがて正式に入団します。
猪木、坂口征二、小林で、新日本は三大エース体制を形成します。
しかし、シングルのチャンピオンは猪木なので、やはり引き立て役に回ることも多くなります。
1976年には坂口とのパワーコンビで北米タッグ王者になりますが、
絶対エースは猪木、その下に坂口と小林がいるという形になりました。


凋落
この体制は一応3年間続きますが、やがて若手の藤波辰巳や長州力が台頭、
79年に小林は無冠の五番手に転落してしまいました。
たまにテレビに出ればジョバー(やられ役)みたいなこともありました。

新日本の世代交代戦略のためにランクを下げられたともいえますが、
当時の小林は見た目にも腰が悪そうで身体も落ちており、仕方ないようにも思えました。
かつてエース格だったレスラーがこのようにズルズルとランクを下げていくのは、それまであまりなかったと思います。

1981年には再度海外遠征をし、メキシコ、米国と回って帰国しますが、
それから間もない同年秋には腰の具合が悪化して欠場、結果的にそのまま引退します。
引退式は1984年でしたが、実際に試合をしていたのは81年秋までです。

復帰を匂わせる流れもなくはなかったのですが、実現しませんでした。


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俳優・タレント ストロング金剛
欠場中の1982年に映画『伊賀忍法帳』に髪を剃りスキンヘッドにして悪役で出演します。
これを機にスキンヘッドのまま、俳優・タレントとして歩むことになります。
名前もこの映画の役名からとって「ストロング金剛」と改名しました。

私はこの改名は不要だったと思いますが、俳優・タレントとしてはそこそこに成功しました。
演技はハッキリ言って上手くはなく、用心棒的な役柄が多かったですが、それなりの存在感はありましたし、
タレントとしては『風雲たけし城」などビートたけしさんの番組等で活躍しました。

1992年は新日本の記念興行にて坂口とのタッグで一日だけプロレス復帰を果たしました。
これはまぁよかったかと思いますが、後年のインタビューによると、扱いには不満があったようです。
90年代半ばにバラエティ番組の収録中の負傷により、タレントも休業状態になります。


2000年代には昭和プロレスもブームとはいえなくも振り替えられる機会もあり、
小林も雑誌や書籍のインタビュー、DVDのコメンタリーなどで登場し、
昭和プロレスファンならば、しばしば目にすることも多かったです。
特にAWAやWWFでの海外の実績には自信と誇りを持っていること、
それだけに国際や新日本での扱いには不満を感じていることは感じられました。
最近では国際のグレート草津との確執が語られることが多いですが、
どちらかといえば、インタビュー等では新日本での扱いに対する不満が多かったように感じています。

81歳は昭和のプロレスラーとしては長命でした。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史












 

2021年11月11日 (木)

【昭和プロレス】マッハ隼人死去/海外でデビューし日本でも活躍した異色の覆面レスラー

訃報 元覆面プロレスラーのマッハ隼人さんが亡くなりました。70歳
https://miruhon.net/191220

Hayato
マッハ隼人
(マッハはやと、本名:肥後 繁久(ひご しげひさ)
1951年3月5日 - 2021年11月8日

昭和の日本人プロレスラーの中でも特異な位置を占める人です。


日本の団体を経ず海外マットでデビュー
マッハ隼人のレアな点はここです。
日本生まれ、日本育ちでありながら、日本の団体所属を経ず、
プロレスラーになる為に海外へ渡り、目的を果たしました。
その海外での実績をもって日本の国際プロレスに入団、
いわば“逆輸入レスラー”でした。


改めてマッハ隼人のキャリアを簡単に振り返ります。

プロレスラーになりたくてメキシコへ
元々プロレスラーになりたくて、新日本プロレスの入団試験を受けますが、身体が小さく不合格。
そこでメキシコに渡りプロレスラーを目指します。1975年、24歳の年。

メキシコのプロレス=ルチャリブレ
ミル・マスカラスにより、日本でもよく知られています。
マスカラスはメキシカンレスラーとしては大型でアメリカでも活躍しましたが、
ルチャの選手は全般に日本人レスラーより小型なので、隼人がそこを目指したのは必然でした。

メキシコのレスリングスクールに学び、1976年にカラテ・ハヤトとしてデビュー。
この時はまだ覆面レスラーではありません。
メキシコマットでは外国人は覆面を被れないのです。

ルチャリブレでそこそこ活躍した後は覆面レスラーとなり、グアテマラ、ブエルトリコ、パナマ等、中南米各国転戦します。
パナマでは現地の英雄であるサンドカンと大会場に2万人の観客を集めタイトルを奪取したとのこと。
1978年に日本のファンにも古くから馴染みのある、アメリカのロサンゼルスに入ります。
小さい身体でよく米国でと思いますが、当時のロスマットはレスラーも観客もメキシコ系が増えており、
ルチャ風ファイトは受けたのです。


国際プロレスへ
そして1979年秋にに国際プロレス入団、マッハ隼人となります。
長年、隼人と国際を繋いだのはメキシコでも活躍した鶴見五郎と言われてきましたが、
鶴見と隼人のメキシコ滞在は時期がずれており、接点はありません。
実はロスで一緒だった剛竜馬だったことが、後年のインタビューで判明しました。
剛竜馬は元国際プロレス所属でしたが、退団に当たってはトラブルになっており、
その剛の斡旋でとは、ちょっと意外でした。

国際プロレスは活動末期で経営の苦しい時期でしたが、
隼人のメキシコ直輸入のルチャ殺法がそこそこの人気を呼びました。
実はメキシコでの隼人は悪役(ルード)で、その後の各国でも同じ、
善玉(リンビオ、テクニコ)的な空中殺法は日本で練習したようです。

やがて隼人はメキシコからレスラーを呼ぶ窓口も務め、
ルチャ勢が来日するようになった80年11月からは、彼らとの試合でテレビマッチへの登場も増えました。
しかし残念ながら、それからまもない81年3月でテレビのレギュラー放送が終了、
国際プロレス自体も1891年8月に終焉を迎えました。

その後、新日本プロレスへの登場が発表されましたが、これは実現せず、
再びのメキシコ、ロスから、国際プロレスと縁のあったカナダのカルガリーを経て全日本プロレスにも上がり、
最後はプロレスファには伝説的な第一次UWF(旧UWF)の旗揚げに参加。
1985年4月26日、その旧UWFの後楽園ホール大会で引退試合が行われました。


後年のインタビュー
その後は渡米して造園業を営み、日本マットとは疎遠でしたが、
2013年3月27日発売『GスピリッツVol.27』のインタビューに登場。
その経歴の概要が披露され、不明点の多かったメキシコ時代、またその後の各国でのキャリアが明らかになりました。
更にユニークな視点・人物感が昭和プロレスファンの話題を呼びました。
様々な発掘をしてきた同誌の国際プロレス回顧記事の中でも、貴重な回となりました。

国際プロレスの関係者の批評も人によってはかなり辛辣で、
特に吉原社長らのテレビ局スタッフへの不遜な態度への批判は、
国際プロレスが二度もテレビ局から見捨てられた結果への傍証でした。
一方で何かと評判の悪いグレート草津については「よくしていただいた記憶しかありません」との評。
これもなかなか独特。

エースのラッシャー木村や当時国際に入団していた大ベテランの大木金太郎に
ルチャのテクニックを応用した新技を伝授していたことも明らかになりました。


異国でデビューし、日本のプロレスマスコミやファンにとって全く未知の国でも戦い、
日本に逆上陸して、祖国でも確かな足跡を残した昭和の異色レスラー。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史

 

2021年2月 2日 (火)

【昭和プロレス奇譚】1979年 謎のチェーンデスマッチブーム

昭和プロレスの語られることのない謎めいた一コマ。
1979年に二団体をまたいで起こったチェーンデスマッチブームについて記します。


まずは国際プロレス、春のビッグチャレンジシリーズ
東京12チャンネルの開局15周年として特別予算がつき、
この時代の国際プロスにしては豪レ華な外国人側のメンバーが揃い、
視聴率も好調だったシリーズ。

エースのラッシャー木村は保持するIWA世界ヘビー級王座の4連続防衛戦を行ったのですが、
その最後の挑戦者であるキラー・ブルックスが執拗にチェーンデスマッチでの対戦を要求したのです。
これには一応の伏線がありました。


ラッシャー木村はチェーンが苦手
木村は前年秋に来日した大型悪役のオックス・ベーカーと、
金網、チェーン、テキサスのデスマッチ三連戦を行い、チェーンのみ敗れたのです。

木村は「金網の鬼」と呼ばれ、金網デスマッチには強いのですが、
チェーンは苦手というアングルが、一応出来ていたわけです。
その情報を得ていたブルックスが執拗にチェーンでのタイトル戦をせまったという流れ。

国際側はそれには応じず、通常ルールで試合は始まりますが、
試合中もブルックスはチェーンを持ち込んでデスマッチを要求。

木村も遂に応じて、途中からチェーンデスマッチに変更という展開。
しかし、本格的に血戦となる前に、もう一人の外国人側エースのジプシー・ジョーの乱入で木村の反則勝ちという、
今ひとつ盛り上がらない、締まらない結末でした。


続くビッグサマーシリーズ
大型ヒールのアレックス・スミルノフオックス・ベーカーが来襲。
終盤にはアンドレ・ザ・ジャイアントヘイスタック・カルホーンの超大型が参加した豪華なシリーズ。
あのダイナマイト・キッドも終盤に初来日しています。


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ベーカーは前年、チェーンデスマッチで木村を倒した張本人。
そして「ロシアンチェーンデスマッチ」という試合スタイルがあり、
ロシア人ヒールを名乗るスミルノフもチェーン戦は得意(スミルノフは本当はフレンチカナディアン)。
二人ともチェーンデスマッチでのIWA王座挑戦を木村に迫ります。

しかし、木村はシリーズ終盤戦に特別参加のアンドレの挑戦を受けるので、
スミルノフorベーカーの挑戦は更にその後で、枠はひとつだけ。
そこでスミルノフとベーカーがチェーン戦で挑戦権を競うことになり、
凄惨な流血戦の末にスミルノフが勝利しました。上の写真の試合です。

と、ここまで苦労して挑戦権を勝ち得たにも関わらず
シリーズ終盤で実現した木村とのタイトル戦は通常の三本勝負で行われ、
しかもスミルノフが勝ってタイトルを奪取してしまいます。
王座はこのシリーズの最終戦(ノーTV)で木村が奪い返すのですが、
これもチェーンデスマッチではなく、なんとも不思議な展開でした。

この後、国際プロレスからチェーンデスマッチに関わる発信はピタっとなくなりました。
国際プロレスはこの二年後に終焉を迎えますが、
それまで、チェーンデスマッチが話題になることはまったくなかったと思います。

実はブルックス続いて、スミルノフとベーカーが嫌がる木村に
執拗にチェーン戦をせまる展開は少々くどく感じました。
そして、そこまでやりながら、結局木村はまともにチェーンデスマッチはやらず仕舞。
あのフィーバーはなんだったのか? と思いました。

これで国際でのチェーンデスマッチブームは終焉。
ところがこの年の暮れ、思わぬところにブームが飛び火します。
この手のデスマッチには縁遠そうな新日本プロレス。


6週間のロングランで行なわれた闘魂シリーズ
後半に特別参加したタイガー・ジェット・シン
アントニオ猪木にチェーンデスマッチを迫ったのです。

この年のシンは大活躍で、国内外で猪木や坂口征二と闘いました。
ひとつ前の秋のシリーズもエースとしてフル参加、最終戦の蔵前国技館で猪木とNWF戦を戦いました。
ただ、それまでチェーンデスマッチを迫ったことはなかったと思います。
それがこのシリーズでは何故かトレードマークのサーベルをチェーンに持ち替え、猪木に執拗に迫ったのです。

そもそも、この闘魂シリーズは、この時点での新日史上屈指の豪華外国人メンバーが揃ったシリーズで、
途中参加のシンのタイトル挑戦の予定はありませんでした。

シンは同じく初期新日本の看板外国人だったとジョニー・パワーズと共に後半戦からの参加で、
来日初戦の生放送で猪木とノンタイトルシングル戦が告知されていましたが、シンの来日が遅れ、キャンセルとなりました。
この試合が実現していたら、どういう展開になったのか?
とにかくこの後、シンはチェーン戦を猪木にせまるも、
猪木はボブ・バックランドペドロ・モラレスとのタイトル戦で手一杯で、シンとのシングル戦を組む余裕はありません。


この状況で坂口征二が最終戦の蔵前国技館でチェーンデスマッチを受けることになり、
前週の放送でもシンと坂口がチェーンを武器にやり合うなど、テレビでの前フリもされました。

ところが、蔵前の録画中継で坂口対シンはまったく放送されず、言及すらなかったと思います。
後で専門誌で確認すると、チェーン戦は主催者側の判断とかで中止、ただのデスマッチとして行われたとのこと。
そしてその後、こちらもチェーンデスマッチが話題になることはなかったと思います。

放送何回分もチェーンで大騒ぎしながら、結局チェーンデスマッチは実現せずという、
なにやら国際プロレスと同じような、消化不良の謎の展開。
いったい何だったのか?

この後、昭和のプロレス界でチェーンデスマッチが行われることはなかったと思います。
平成以降は団体乱立、試合形式も多様化し、チェーン戦も行われるようになりましたが。

以上、幻の昭和プロレスチェーンデスマッチ譚でした。

Old Fashioned Club 月野景史

2020年12月 4日 (金)

【昭和プロレス】パット・パターソン死去/ “インサイドワークの精密機械”

訃報 カナダ出身でアメリカで活躍したプロレスラー
パット・パターソンが亡くなりました。79歳没


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パット・パターソン
(Pat Patterson、本名:Pierre Clemont、1941年1月19日 - 2020年12月2日)

1981年に発行されたプロレス本の名品「プロレスアルバム14 メモリアルレスラー」で、

「インサイドワークの精密機械」

と称されていました。

「インサイドワーク」はプロレスでよく使う言葉でしたが、
インサイドワークに長けてる、と言った場合、
いわゆる正統派の技のテクニックが優れていると言うのとはちょっと違い、
試合運びや駆け引き、といった部分が巧妙であることを指します。

どちらかといえばヒールレスラーに使われることが多いかも知れません。
ずる賢い、奸智に長けているといったイメージです。
パット・パターソンや、彼の先輩でタッグパートナーであった
レイ・スティーブンスなどは、その典型的なタイプということになるのでしょう。

そのプロレスラーとしての総合的実力に加え、人格も評価は高く、
現役引退後はWWF→WWEの重鎮としても活躍しました。
日本のファンには、アントニオ猪木の米国修業時代に親切に接したこともよく知られています。

WWF=東海岸のNYのイメージが強いですが、
現役生活の大半はサンフランシスコを中心とするアメリカ・カナダの西海岸で過ごしました。
猪木との出会いもカリフォルニアの北、オレゴン州・ワシントン州でした。

西海岸を離れて、本格的に各地を転戦して実績を残すのは、
実は現役生活の晩年に近づいてから。

そして、1979年に乗り込んだWWFでは、
最初ヒールとして王者のボブ・バックランドと抗争しましたが、
やがてベビーフェイスに転向、そのままフロント入りした形です。

レスラー生活全般としてはヒールが多く、スティーブンスとのブロンドボンバーズも
まさに奸智に長けた悪役コンビでしょうが、
実は西海岸でもヘビーフェイスとしてファイトしていた時期もあり、
正反対の典型的なベビーフェイスであるペドロ・モラレス
ロッキー・ジョンソンとのチームでもタッグ王者になっています。



日本には1968年に日本プロレスに来日していますが、
新日本プロレス設立、坂口征二合流後の1973年8月、
ジョニー・パワーズとの北米タッグ王者としてロサンゼルスのオリンピックオーデトリアムに登場、
猪木・坂口組の挑戦を受けたのが、日本のファンへの最初の晴れ舞台でしょう。

後から見れば、
この王者チームはそれまで実績のない、この試合のために作られたチームだったようですが、
結果的には全盛期といえる猪木・坂口の “黄金コンビ” の挑戦をアメリカと日本、
二度にわたり退けるという実績を残しました。

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パターソン(左)とパワーズのハンサムコンビ
即席どころか、この時が初対面ともいわれますが、チームワークは上々でした


パターソンはその後も新日本に度々来日、
猪木のNWFヘビー級王座に一度、
因縁の北米タッグには坂口・ストロング小林組に二度挑戦。
1979年にはWWF北米ヘビー級王者として来日し、坂口に王座を奪われました。
この年はそれ以前にパワーズもNWF版の北米ヘビーを坂口に取られています。
奇縁というか・・・、ちょっとおかしな話でしたが。

現役最後の来日は1981年暮れの第2回MSGタッグリーグ戦。
この時はほとんど目立つことなく、負傷で途中帰国となりました。
これはおそらく当初の予定通りだったのでしょう。
既にWWFのフロントにも関わっており、
その仕事の部分も含め、猪木・坂口との懇親という意味もあったのかも知れません。
だとしても、もう少しリング上の見せ場も作ってほしかったですが。

謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史

2020年1月18日 (土)

【昭和プロレス】ロッキー・ジョンソン死去 20世紀の偉大な黒人レスラー/残念だった日本でのキャリア

訃報 元プロレスラーのロッキー・ジョンソンが1月15日に亡くなりました。
20世紀を代表する黒人レスラーの一人でした。
https://www.daily.co.jp/ring/2020/01/16/0013037489.shtml


Johnson-rocky
ロッキー・ジョンソン
(Rocky Johnson 1944年8月24日 - 2020年1月15日)
カナダ・ノバスコシア州出身
(ニューヨーク州またはワシントンDCと紹介されることもあった)


20世紀を代表する黒人プロレスラーといえば・・・。
日本でも知名度の高いボボ・ブラジルがまず第一で、
次いでアーニー・ラッド、ベアキャット・ライトらが思い浮かびます。
彼らはいずれも2メートル級の大型レスラー。

もう一人挙げねばならないのがアブドーラ・ザ・ブッチャー。
彼の場合は北米ではさほど広範な地域で活躍したわけではありませんが、
日本での知名度ではブラジルをも凌駕します。
ブッチャーは長身ではありませんが、重量級タイプ。

対してロッキー・ジョンソンは小柄とまでは言いませんが、中型くらい。
俊敏で筋肉質、バネのある身体から繰り出す空中殺法・ドロップキックを得意とするタイプ。
このタイプの黒人レスラーの代表でしょう。
1960年代前半から30年近く、全米各地でトップを張って活躍しました。

そして、20世紀末にプロレスラー・俳優として大スターとなった
ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンの実父としても知られます。


とにかく長く輝かしいキャリアを持つジョンソンですが、
実は日本には2回しか来ておらず、しかも芳しい実績を残していません。
Wikipediaには来日回数が少なかったのは多忙だったからというように書かれていますが、
そうとばかりも言えません。

アメリカでの実績に比べて日本で活躍できなかったレスラーの典型例
初期のWiki にはこう書かれていました。
書いたの私です。
今はこの記述はありません。こういう文章はだいたい削除されてしまいます。


◆最初の来日
日本に2回だけ来たロッキー・ジョンソン。
最初の来日は1970年、日本プロレスのNWAタッグリーグ戦。
アーニー・ラッドとのチームで優勝候補の筆頭としてやってきました。

ラッドはヒールのイメージが強く、全米各地で嫌われまくったような印象ありますが、
元々アメリカンフットボールのスタープレーヤーで、この頃はまだ主にベビーフェイスだったと思います。

当時の日本プロレスはジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲の全盛期で、
この黒人コンビは長身のラッドが馬場、若くて俊敏なジョンソンが猪木のイメージとダブり、
大いに期待されたと言われます。

この時はまったく見ていないので伝聞でしか知りませんが、
二人共に今イチの評価で、優勝戦進出も逃すなど、ちょっと残念な結果を残しました。
それでも、まだこの時はよかったのかなとも思います。
次は散々でしたから。


◆二度目の来日
帰国後、全米各地で活躍を続けたジョンソンの再来日はちょうど10年後、
1980年の新日本プロレス 新春黄金シリーズでした。
80年代の幕開け、スタン・ハンセンが大ブレイクしたシリーズでした。
ハンセン以外ではスティーブ・カーン、そしてあのダイナマイト・キッドらジュニア勢が活躍したシリーズでもありました。
そして、バッドニュース・アレンが新日の常連ヒールとしての礎を築いたのもこのシリーズでした。

そしてジョンソンですが、一応ハンセンに次ぐ準エース的な立場でシリーズ開幕を迎え、
最初の1週間ほどは坂口征二、藤波辰巳ら新日のトップクラスとも引き分けの結果が残っています。
しかし、その後はボロボロで連戦連敗。
猪木とのシングルでのテレビマッチも予告されていたのですが、実現しませんでした。
(ノーTVでは序盤に一度戦って10分弱でフォール負けの結果が残っています)

それでも終盤にバッドニュース・アレンと組んで坂口・長州力に挑戦する
北米タッグ戦の予定があったのですが、
その直前のテレビマッチ(録画)のタッグ戦で場外でハンセンのウェスタン・ラリアットの誤爆を受け、
鉄柱に後頭部を痛打し、失神してしまいます。

その後の詳しい経緯はテレビでは説明されませんでしたが、
ジョンソンはそのまま帰国してしまったようで、
北米タッグは外国人側で参加していたマサ斎藤が代打で出場しました。

当時としては、基本的にはアクシデントということになりますが、
それにしても、どうもしっくりこなかったし、
今となれば、当然意図的なマッチメイクでタイトル戦から外されたと考えざるを得ません。

ジョンソンのスケジュールが多忙で帰国せざるを得なかったのではとの見方もありますが、
その前の戦績がとても北米タッグを奪取できるものではなく、
新日側があえて外したように感じられます。

そもそも、その戦績だってすべて新日本によるマッチメイクです。
序盤はまずまずの成績なのに、その後ガクンと落ちたということは、
最初は実績に応じて期待し、それなりの待遇をしたが、
動きが悪いので、評価を下げたということでしょう。
実際、負傷した試合で解説の山本小鉄が、
「10年前に比べて見劣りする」という旨の発言をしていたと思います。


外国人レスラーについて
「日本には合わないタイプ」
「アメリカでは一流扱いでも日本では通用しない」
こういう言い方される場合があります。

アメリカでのジョンソンはどこへ行ってもヘビーフェイスのスター。
ルー・テーズのような正統派テクニシャンタイプを除き、
善玉日本人対悪役外国人という図式が標準スタイルだった時代の日本の昭和プロレスでは、
典型的なベビーフェイスのレスラーは真価を発揮し難い面はありました。

でも、ジョンソンは本当に日本には合わなかったのか?
今はネットで昔のアメリカンプロレスも容易に観ることができます。
ジョンソンの試合もいくつも視聴できますが、躍動感溢れる試合ぶりはなかなか素晴らしい。
特にドロップキックの連打からフィニッシュへの流れは魅力的です。

同様に典型的ベビーフェイスで空中殺法を得意としたミル・マスカラスが
日本でも大人気だったことを思えば、ジョンソンがダメだということもないと思います。
マスカラスはブッチャーのようなヒールとの戦いで人気を伸ばした面もありますが、
ジャンボ鶴田とのヘビーフェイスマッチも名勝負として知られています。

ジョンソンにしても要はマッチメイク、日本側の売り方しだいだったのではないかと思うのです。

本人からすれば、日本での評価が低かったことなど気にもしていないかも知れませんが、
日本のファンとしては、ちょっと残念に感じています。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年8月 3日 (土)

【昭和プロレス】ハーリー・レイス死去/NWA世界ヘビー級王者として君臨

訃報 アメリカの元プロレスラー ハーリー・レイスが亡くなりました。76歳。


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ハーリー・レイス
(Harley Race、1943年4月11日 - 2019年8月1日)

かつてアメリカで、そして世界で最も権威があるとされたプロレス界のタイトル、
NWA(National Wrestling Alliance、全米レスリング同盟)が認定する世界ヘビー級王座に、
1970年後半から80年代初頭まで長く君臨し、その象徴であった大レスラー。

日本では全日本プロレスにおいてジャイアント馬場とNWA王座をめぐっての戦いを繰り広げ、
“ミスタープロレス”などと称されました。

もっとも、NWA世界チャンピオンが本当に権威があるとされたのはもっと昔、
鉄人ルー・テーズがチャンピオンだった時代です。

レイスの時代はその権威も薄れてきて、
またレイスは、汚い手を使ってなんとか王座を守る“ダーティチャンプ”などとも呼ばれました。

当時、日本では馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木率いる新日本プロレスが凌ぎを削っていました。
新日本もNWAに加盟していたのですが、王座への挑戦はかなわず、全日本が独占していました。
馬場は短期間ながらレイスから日本で二度王座を奪取しています。
ただ、いずれもすぐに取り返され、王者として米マットが上がることはありませんでした。

そういう事情なので、全日本としては世界最高峰の王座に挑戦して奪取した
馬場全日本こそ日本最高の団体と宣伝するし、
新日本としては挑戦を受けないNWAにかつての権威はないという言い方をしていました。
(挑戦をまったく諦めたわけではないので、決定的に貶めはしませんでしだが)

ともかくレイスは王者として再三来日し、馬場やジャンボ鶴田、タイガー戸口ら日本陣営のみならず、
アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどの人気外国人レスラーの挑戦も受けました。

馬場よりは5歳年下で、王者になる前はあまり戦ったことはないと思いますが、
王者となってからは“手の合う”関係だったと思います。
そして王座がレイスからリック・フレアーに移ると、馬場の挑戦はなくなりました。


NWA王者としては受身のレスリング中心だったレイスですが、
喧嘩が強く、なかなかの強面だったと思います。
むしろ王座から落ちてからの方がその片鱗がうかがえて、
私は好きだったりもします。


20世紀の大レスラーの一人に、
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年6月11日 (火)

【訃報】 空手家ウィリー・ウィリアムス死去/アントニオ猪木と異種格闘技戦を闘う

空手家のウィリー・ウィリアムス氏が亡くなりました。67歳。
https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190610/spn1906100002-n1.html


ウィリー・ウィリアムス
(Willie Williams、1951年7月14日 - 2019年6月7日)

空手については詳しくないのでウィリーさんのキャリアもよくは知りませんが、
1980年2月 蔵前国技館でアントニオ猪木さんと“プロレス対空手”の異種格闘技戦を行なったことは有名です。

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この試合はなかなかの話題を呼び、テレビ朝日で生放送されました。


新日本プロレスの異種格闘技戦
アントニオ猪木は1976年にボクシングのモハメッド・アリ、
柔道のウィリエム・ルスカというビッグネームと異種格闘技戦を行い、
大きな話題を巻き起こしました。

ところが、アリ戦はビジネスとして失敗して新日本プロレスは莫大な借金を背負い、
そのために猪木や坂口征二は経営から一時外れ、新日本は事実上テレビ朝日の子会社になります。

しかしその後も新日本は格闘技戦を続け興行的にも成功し、経営を立て直しました。
やがてあのWWE(当時はWWWF→WWF)が猪木を格闘技世界ヘビー級王者として認定し、
その防衛戦として行われるようになります。

猪木対ウィリー戦は新日本側からすると、この異種格闘技路線の集大成的位置づけの試合でした。
しかし、だから話題を集めたというわけでもありません。

ウィリー・ウィリアムスは元々極真会館の所属。
当時の極真は梶原一騎氏の筆による力も大きく、
“最強空手”として大いに注目されていました。

その中でも巨体を誇るウィリーは“熊殺し”の異名で知られ、
とてつもなく強い格闘家との認識が広まっていました。
アリと引き分け、ルスカに勝った猪木と熊殺しのウィリー、
いったいどちらか強いのか? さすがの猪木も今回は勝てないのではも、との見方も多く、
高い注目を集めたのです。


この試合にあたり、ウィリーは極真空手を離脱していましたが、
“プロレス対空手”である以上に、“新日本対極真”がクローズアップされ、
殺伐とした、そして過剰にヒートアップした試合となりました。

世間の、特に中高大学生中心でしょうが、注目度もかなり高い試合、一大イベントでした。
私もかなり熱くなってテレビ観戦していた記憶があり、
忘れがたい格闘家の一人です。

謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

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