35.昭和プロレス

2019年2月15日 (金)

【プロレス】アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニー 2/19開催/日本でのブッチャー人気の理由と足跡

2019年2月19日に東京の両国国技館で「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が開催されます。
https://eplus.jp/sf/word/0000127237

昭和の大プロレスラージャイアント馬場が没して20年とは、昭和も遠くなるわけです。

この興行の中で「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」として、
ブッチャーの引退セレモニーがドリー・ファンクJr.、スタン・ハンセンらをゲストに行われるとのこと。
ブッチャーは長く日本で高い人気を誇った外国人レスラーで
馬場とは1970年の日本プロレスへの来日以来深い因縁がありますから、最高の舞台が用意されたと言っていいでしょう。


At
速報 アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニー(2019.02.19)より
https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20190219-OYT1T50215/


ブッチャーは2012年1月に試合に出場する予定で来日しますが、
体調不良で試合はできず、引退宣言しました。
この時に引退セレモニーの話もありましたが、実現しませんでした。

このブログではその際、日本で最も高い人気を誇った外国人レスラーとして、
ブッチャーの主に日本での足跡、人気の理由等をまとめました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019-64a5.html

このページには今まで25,000件を超えるアクセスがありました。

今回、引退宣言から7年越しでのセレモニー実現にあたり、
改めて増補改訂版として公開します。


At
アブドーラ・ザ・ブッチャー
(Abdullah the Butcher)
1941年1月11日生まれ。現在78歳。


初来日は1970年ですから、もう49年前。
実は以前は1936年生まれといわれていたこともあったのですが、
近年、本人がIDカードを公開して、41年生まれを実証したようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは日本マット史上最も知名度の高い外国人レスラーだったと思います。
とはいっても、日本で本格的にプロレスが行われるようになってから65年ほど経っています。
誰が一番有名か、人気があったか、比較するのも難しいですが、しかし…。

ザ・デストロイヤー、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
もっと古い時代から知っている方ならフレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
名前が挙げればキリがありませんが、一般的な知名度・認知度ではブッチャーが一番かと思います。

そんな、“スーダンの黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの超入門編。
ブッチャーがいかにして屈指の人気レスラーとなったか、その道程に関わる基礎知識です。


日本プロレスから全日本プロレスへ
ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”が二大エースとして並び立っていた時代です。
当時のブッチャーは無名とはいわないまでも、アメリカでトップレスラーとは言い難く、
さほど期待はされていなかったようですが、いきなりの大暴れを繰り広げ、
馬場の持つ日本プロレスの至宝インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦する活躍をしました。

私は当時の試合は観ていませんが、この扱いは来日前から決まっていたのか、
来日後の試合ぶりにより抜擢されたのか、興味深いところです。

その後、ブッチャーは日本プロレスに二度参加、
1972年12月より馬場が日本プロレスから独立して設立した全日本プロレスの常連となります。
全日本プロレスにはアメリカから時のNWAやWWWFのチャンピオンはじめ一流レスラーが多く来日しましたが、
ブッチャーは彼らに負けることなく、看板レスラー、ドル箱外人の地位を確立していきます。


ブッチャー人気の秘密
ブッチャーは反則三昧の凶悪ヒール、流血の悪役ファイターです。
その意味では人気といってもいわゆるヒール人気、嫌われてなんぼのように思えますが、
実は凶悪レスラーとしての全盛期から、会場にブッチャーコールが巻き起こるベビーフェイス的な人気もありました。

なぜか?
ひとつは、よく見るとどことなく愛嬌のある憎めない風貌。表情と体形。
そしてもうひとつ、ブッチャーは相手を凶器攻撃で血まみれにしますが、
それ以上に自分も血だるまになる、やられ上手なところがありました。
ここがもう1人の昭和を代表する外国人ヒールであるタイガー・ジェット・シンとの違い。
だから、馬場やジャンボ鶴田のような大型日本勢との戦いでは、コールを受けることも多かったのです。

1976年春、ブッチャーはリーグ戦形式で行われるチャンピオンカーニバルの決勝で、
馬場を反則勝ちながら下し、優勝を手にします。
日本プロレスのワールドリーグ戦以来、日本マットでは春にリーグ戦あるいはトーナメントが、
年間屈指のビッグイベントとして開催されるのが伝統でした。

その歴史の中で、早くに日本プロレスから分かれた国際プロレスでは外人が優勝したことがありましたが、
主流ともいうべき日本プロレス、新日本プロレス、そして全日本プロレスでは、外人レスラーの優勝は初めて。
もちろん、これは全日本においてそういうマッチメークがされたということなので、
いかに当時のブッチャーの評価が高かったがかわかります。

その後、1979年のカーニバルでは鶴田をフォールして完全優勝。
他にもPWFヘビー級、UNヘビー級、USヘビー級、インターナショナルタッグと、
全日本プロレスの主要タイトルを片端から獲得していきました。
まさに全日本を支える看板外人してのポジションを確立していきます。


ザ・ファンクスとの死闘
しかし、ブッチャーの真骨頂は馬場や鶴田ら日本勢との対決だけではなく、
他の外国人レスラーとの死闘にありました。
その中でも最も伝説的なのが、やはり凶悪ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークとタッグを組んで闘った、
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのファンク兄弟、ザ・ファンクスとの血の抗争でした。


世界王者兄弟 ザ・ファンクス
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク、共に米マットの頂点であるNWA世界ヘビー級王座に君臨した
超大物兄弟コンビ、テキサスの荒馬チーム。
そのファンクスと、ブッチャー&シークの史上最凶悪コンビが激突したのは、
1977年暮れのオープン・タッグリーグ戦でした。

それから2年後、1979年の第2回世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でのファンクスと試合、
ブッチャーとシークの同士討ちからの壮絶な仲間割れまで、長く語り継がれるこの闘いは続きました。

といっても、この2年間で4人が日本に顔を揃えて争ったのはほんの数週間に過ぎません。
ひとつには、ブッチャー以外の3人はアメリカでプロモーターやブッカーなども行っており、
そうそう長期間、日本滞在できないという事情もありました。
にも関わらず強烈な印象を残した、濃密な抗争でした。

このファンクスとの抗争が代表的ですが、ブッチャーはそれ以外にも、
日本陣営入りしたザ・デストロイヤーをはじめ、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラス、
ワフー・マクダニエル、仲間割れしたザ・シーク、そして外人側として全日本に参加していた大木金太郎と、
次々と抗争を展開して、人気を高めてきたのです。

1979年8月26日に開催された伝説のプロレスオールスター戦では、
新日本プロレスのトップヒール、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと史上最狂悪タッグを結成、
一夜限りの復活を果たした馬場&猪木のBI砲と闘いました。


高まるブッチャー人気
血まみれのリングの一方で人気は高まり、一般メディアに取り上げられることも増えていきます。
1979年、講談社『週刊少年マガジン』にブッチャーを模したキャラクター「ボッチャー」が活躍する
ギャグ漫画『愛しのボッチャー』(河口仁氏作)が連載開始、ブッチャー人気に拍車をかけます。

翌1980年にはサントリーの清涼飲料水「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演。
このCMにはかなり力が入っていたようで、結構な話題になりました。

*CMの映像です。春編と夏編。後はもう少し後にやった別のCMです



ただ、このCMiにはちょっと笑えないオチがついてしまいました。
このCMは続き物で、春編、夏編、秋(冬?)編が放映予定だった筈なのですが、
夏編のオンエア中に共演したモデルが大麻所持で逮捕され打ち切り、秋(冬?)編はお蔵入りとなってしまいました。
スチールで見た秋(冬?)編のブッチャーは白のタキシード姿だったかと思います。残念でした。



新日本プロレスへ

1981年春、日本マットに衝撃が走ります。
ブッチャーが電撃的に新日本プロレスへ移籍するのです。
これを契機に新日本と全日本はレスラーの引き抜き合戦を開始、プロレス界は混乱に陥ります。

さて、ブッチャーにとってこの移籍は失敗だったとの見方が一般的です。
もちろん私もそう思います。全日本であれほど輝いていたブッチャーは新日本で急激に色褪せていきます。

この件の評価は難しいところです。
ブッチャーは移籍時40歳、年々肥大化して動きは鈍くなっていました。
スピードに上回る新日本への、あの時点での移籍は無謀だった面もあります。

しかし、新日本の使い方もおかしかった。
上に散々書いたように、全日本でのブッチャーはシングル・タッグのリーグ戦にはほぼフル参加で、
次々と新しい抗争相手と出会い、人気を高めてきました。
しかし、新日本に登場していた4年間、遂に一度もリーグ戦に参加することはありませんでした。
そもそも、新日本が提唱したIWGPへの参戦が移籍理由だったのに、これにまったく絡ませなかったのです。
この件については色々な事情も語られていますが、これではブッチャーが生きません。
他にもおかしな扱い、マッチメークはありましたが。


再び全日本へ
1987年暮れ、ブッチャーは因縁深い世界最強タッグに参加、全日本プロレスへの復帰を果たします。
新日本への移籍から6年半、そしてその新日本への最後の登場から2年近くが経ち、
ブッチャーも既に46歳、さてどこまでやるかと思ったのですが、見事に復活を果たします。

翌1988年に行われたブルーザー・ブロディの追悼興行ではスタン・ハンセンとメインを闘いました。
オールスター戦以来のタイガー・ジェット・シンとのタッグも実現。
1990年に行われた馬場の30周年記念試合では遂に馬場とタッグを結成、
アンドレ・ザジャイアント&スタン・ハンセン組と闘います。仲間割れしてしまいますが。
その後は馬場と共にメインからは退き、ややコミカルな試合で中盤を沸かせました。

1996年には再び全日本を離れますが、馬場没後の2001年に復帰、
21世紀になっても時々日本に顔を見せていました。

そして2012年1月、ブッチャーは全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに出場すべく来日しましたが、
コンディションの不良により欠場を決定、
1月2日の後楽園ホール大会ではセコンドのような形で試合に参加し、
その後に近々の引退を宣言しました。

前述のようにこの際に引退セレモニーが行われるとの話もありましたが、実現しませんでした。
そして今回、7年越しのセレモニー開催となったのです。

ただ、7年前の時点でも歩行にだいぶ苦労しているようだったし、
本当に来れるのかという心配も多少はしています。
無事に行われますように。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月14日 (木)

【プロレス】ペドロ・モラレス死去/MSGの帝王として君臨したラテンの魔豹 20世紀後半の名レスラー

訃報  プロレスラーのペドロ・モラレスが2月12日に亡くなりました。76歳没。

プエルトリコ出身、少年期にアメリカに渡り、1960年代から70年代、80年代半ばまで
ベビーフェイス(善役)のトップスターとして長く活躍した名レスラー。



Pedro_morales
ペドロ・モラレス
(Pedro Morales、1942年10月22日 - 2019年2月12日)
通称 ラテンの魔豹


70年代前半には2年10ヵ月にわたりWWWF世界ヘビー級チャンピオンに君臨しました。
WWWFとは後のWWF、現在のWWEのこと。
(モラレスが王者の時代にNWAに加盟して、一旦「世界」を外しています)

WWFのチャンピオンといえばニューヨーク、マディソンスクエアガーデン(MSG)の帝王。
昭和の時代、WWF王者として長期政権を築いたのはブルーノ・サンマルチノとこのモラレス、
ボブ・バックランドとあのハルク・ホーガンの4人です。
米マットを象徴する大スターだった人です。

そのファイトスタイルはスピーディーで軽やかでありながら、パワフルでダイナミック。
躍動感溢れるファイターで、私も大変好きなレスラーでした。
そして褐色の二枚目といった美貌で女性人気も高かった。

日本でも実績を残しましたが、日本で思われている以上にアメリカでは大物かと思います。
ドロップキックの名手で、ジャイアント馬場に32文ロケットを伝授したとして知られます。
ネットニュースでもそのことが書かれていますね。
諸説あるようですが。

後年はウェイトも増してパワフルなイメージを強め、
ハイアングルから叩きつけるビル・ロビンソンと同スタイルの(ワンハンド)バックブリーカー、
またブレーンバスターなどの大技も迫力満点でした。


若くしてMSGの帝王に
元々WWWFの前身団体で1958年というから16歳の年にデビュー。
若くして頭角を現して後、60年代半ばに西海岸のロサンゼルスのWWAに転戦。
ここでまずWWA世界ヘビー級王者となります。
この地区は日本とも縁が深く、1967年に日本プロレスに初来日。

そして東海岸に戻ると、1971年2月にMSGでイワン・コロフを倒しWWWF王者となりました。
この時28歳。コロフは短命の繋ぎ役で、実質的にはサンマルチノとの王座交代でした。

王者時代の1972年9月には元王者のサンマルチノを挑戦者に迎え、
ニューヨークのシェイスタジアムで珍しいヘビーフェイス同士のタイトルマッチが実現
75分の熱闘の末引き分け。この試合は70年代最高の名勝負ともいわれます。

1973年12月にスタン・スタージャックに敗れ王座転落。
このスタージャックも繋ぎ役で、WWWFは再びサンマルチノの時代となります。

モラレスはNYを離れ西海岸のサンフランシスコや、フロリダなどの南部など各地を転戦し、
どこにいってもベビーフェイスのトップスターとして活躍します。
ただ、とにかく若くして頂点に立ってしまったので、そこから落ちてちょっと寂しい境遇・・・
というような印象で日本のプロレスマスコミやファンの間では語られる面もありました。


全日本プロレスから新日本プロレスへ
WWWF王者転落からまもない1974年には僚友である馬場の全日本プロレスに初登場。
圧倒的な戦績を残しますが、馬場のPWFヘビー級王座挑戦では3本勝負で2フォール取られての完敗でした。
2本とも一瞬の返し技ではなく、完璧なピンフォール負け。
ここまで完全な馬場の勝ちだと次に繋がり難くなり、モラレスへのマッチメイクとしては勿体無く感じますが、
この翌々年の76年にはWWWFとの関係を強めていた新日本プロレスに登場します。
ちょっとひねくれた見方ですが、新日移籍を見越してのマッチメイクであったような気すらします。

新日本ではまず第3回ワールドリーグ戦に参加。
ここでもトップで優勝戦に進みますが、アリ戦を控えたアントニオ猪木が出場を辞退したため、
同点2位から勝ち上がった坂口征二と決勝戦を戦い、リングアウト負けしてしまいます。
これもなんとなく不遇なマッチメイクといえなくもない。

その後は78年と79年に新日本に2年連続で参加して猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
78年の猪木との試合は唯一テレビ放送のなかったNWF戦なのですが、
猪木が一方的かつ徹底的に追い詰められた試合としてファンの間では伝説的です。
放送がなかったからこそ伝説になったともいえますが、やはり強さを発揮した試合の放送がなかったとは不遇。

そして、78年も79年もシリーズ終盤に現役WWF王者のボブ・バックランドが特別参加し、
東京の大会場でのメインは猪木対ボブ戦に奪われており、ここもちょっと不遇感があります。


1980年にWWF復帰
猪木や藤波も出場した8月のシェイスタジアムではバックランドとの新旧王者コンビを結成し、
ザ・サモアンズにストレート勝ちしてWWEタッグ王を獲得すると
12月にはインターコンチネンタルヘビー級王座を獲得。
途中に一時転落もありましたが、83年1月まで保持し、再びWWFのトッブスターに君臨しました。
この時期が最後の全盛期と言えるのでしょうが、新日とWWFの蜜月時代だったにも関わらず
なぜか来日がありませんでした。

その後は故郷のプエルトリコでも戦い、1985年には新日への最後の登場が実現しますが、
当時の新日はモラレスを売る気はなく、寂しい内容でした。

アメリカでは1985年からのビンス・マクマホン・ジュニアによる新体制WWFの全米サーキットにも参加し
最後の一花を咲かすと、87年に引退。95年には早いタイミングWWF殿堂入りしています。


こうして振り返るとアメリカでのキャリアは本当に輝かしい限りで、30年近くトップスターとして活躍しました。
特にWWFにとっては、最初期に初代王者のバディ・ロジャースに20歳で挑戦し、全盛期には王者に君臨
80年代にもIC王座を長く保持し、晩年にも現役でビンス・ジュニアの全米侵攻にも参加するなど、象徴的な存在でした。

日本でも明石家さんまさんが昔からモラレスファンを広言するなど、よく知られたレスラーでしたが、
米国での実績からすれば、今いちの扱いだったと改めて感じます。

昭和の伝説の大レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年12月 7日 (金)

【昭和プロレス】ダイナマイト・キッド死去/39年前、国際プロレスへの初来日の鮮烈

39年前の1979年(昭和54年)7月。
国際プロレスのビッグサマーシリーズ終盤戦。
20世紀・・・いや、プロレス史上屈指の巨漢の二大レスラー
アンドレ・ザ・ジャイアントとヘイスタック・カルホーンが同時に特別参加を果たした。

時を同じくして、無名の、若くて小さくて細くて、
しかしとびきり俊敏でカミソリのように切れがよく、
パワフルでアグレッシブなファイターがやってきた。
その若者、当時まだ弱冠二十歳。


Photo
ダイナマイト・キッド
(The Dynamite Kid、本名:Thomas Billington、
1958年12月5日 - 2018年12月5日 60歳の誕生日に逝く


初来日は国際プロレスが売り出し中であった
阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座への挑戦者として。
自身も英連邦ジュニアヘビー級王座(当時の報道)を保持していた。

イギリス出身の若手と聞いていたので、
前王者のミレ・ツルノと同様に欧州を主戦場とするレスラーかと思っていたら、
既に国際プロレスと繋がりのあるカナダのカルガリー地区に転戦しており、
そのルートでの初来日でした。

僅か6戦のみの特別参加ではあったが、
ラガーマンから転進して日も浅くアスリートの面影が強かった原や、
技巧派で中堅からベテランに差し掛かっていた寺西勇と激闘は鮮烈で、
将来も必ず活躍するだろうと思った。

実際、翌年から日本での闘いの場は新日本プロレスに移し、
藤波辰巳、そして1981年からは初代タイガーマスク(佐山サトル)と
WWFジュニアヘビー級王座を争って激闘を繰り広げた。

素晴らしい活躍・・・だが、ここまでは予想できた。
むしろ予想に違わぬ活躍と言っていいかも知れない。


しかし、とにかく細くて小さい。
その印象は初来日から3年ほど経ってもほとんど変わらなかった。
藤波だと体格的にやや見劣りする、
タイガーマスクこそ最も適したライバル!
そんなふうに感じていた。

だから、まさか大型レスラーがひしめくWWFで
キッドがヘビー級レスラーとしてトップを取ろうとは、
想像できなかった。

英国からカナダを経て、世界一の大都市ニューヨークで掴んだ
まさにアメリカンドリームだった。

しかし、薬物にも頼って身体を大きくし過ぎたのは無理があったのか。
やがて心身の調子を崩していった。
元々かなり破天荒な性格だったとも聞くが。


後年は全日本プロレスに日本での闘いの場を移しており、
1991年、33歳の若さで引退。
その後復帰をするのは体力の衰え・・・というよりも不調は隠しようもなかった。

近年もプロレス誌『Gスピリッツ』等で様子は伝えられていたが、
痛々しい限りではあった。


そして今回の訃報。
どうしても痛切な思いに駆られてしまうが、
若き日のマット上での輝きは永遠。
その雄姿を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年7月18日 (水)

【昭和プロレス】マサ斎藤死去/アメリカで最も活躍した日本レスラー

訃報 元プロレスラーのマサ斎藤さんが7月14日に亡くなりました。75歳。


Masa_saito
マサ斎藤
(本名:斎藤 昌典  1942年8月7日 - 2018年7月14日)



アメリカで最も活躍した日本人レスラーの1人。
いや、この点について本当のNO.1かもしれません。

グレート東郷に代表される日系人ヒールと呼ばれる悪役レスラー達は戦後の米国マットで多く活躍しました。
実は日系ではない、つまり日本人の血の入っていない、ギミックとしての日系ヒールもいます。

その人達は別にして、日本出身で、日本のプロレス団体に入門して、
それからアメリカに渡って戦ったレスラーも無数にいます。

昭和の時代、日本のプロレス団体に入門したレスラー達は前座での修業を経ると、
海外武者修業に出て、箔をつけて凱旋帰国するのが一般的でした。
日本プロレス界の始祖力道山も、日本にプロレス団体がなかったから前座修業はしていませんが、
ハワイやサンフランシスコでプロレス修業し、実戦のキャリアを積んで日本デビューしました。
その弟子であるジャイアント馬場やアントニオ猪木らも皆そうです。

行き先はアメリカ、カナダの北米地域が主ですが、欧州、メキシコルートもありました。
だから多くの日本人レスラーは海外マットを経験しています。
中には日本に戻らず長期間海外に定着するレスラーもいました。

米国で「ミスター・サイトー」、「マサ・サイトー」等を名乗り、一匹狼の悪役として戦ってきた斎藤は、
その期間の長さ、活躍した地域の広さ、それも大変レベルの高い地域を回り、どこに行ってもトップを張り、
各地のチャンピオンベルトを巻いてきた、その実績は比類ありません。

今回はそのあたりを中心に少し紹介します。


元アマレス日本一
マサ斎藤は明治大学のアマチュアレスリング部出身。
全日本選手権優勝、東京オリンピック日本代表の経歴を持ち、
1965年に力道山没後の日本プロレスに入門します。
後にプロレス入りする柔道日本一の坂口征二とは明治の同期です。

ただ、それほどエリート扱いされてはいなかったようです。
身長の低さも一因かも知れません。

1966年、日プロを離脱して豊登が作りアントニオ猪木らも参加した東京プロレスに参加。
しかし翌1967年、東プロはあえなく潰れ、猪木ら一部のレスラーは日プロに復帰し、
豊登ら大半は新興の国際プロレスに合流しますが、斎藤は日本を離れアメリカに活路を見出すのです。


米国西海岸都市でトップに
斎藤は日本マットとも縁の深いアメリカ西海岸に定着、
日系のキンジ渋谷とタッグを組み、サンフランシスコ、ロサンゼルス等でトップヒールとなり、
更に北のオレゴンやワシントン、国境を越えてカナダのバンクーバーまで活躍の場を広げます。

当時のロスやシスコは米マットの中心とまではいえませんが、
共に大都市の繁栄マーケットで、斎藤はここでゆるぎない地位を築き数々のタイトルを獲得、
1970年代半ば過ぎまで約10年、トップとして活躍ました。

この間に古巣の日プロ、そして因縁深い猪木と坂口が興した新日本プロレスにも時折参加しています。
主に日本陣営の助っ人格でのスポット参戦で、ヒールではありませんでした。


南部の繁栄地フロリダへ
ところが1970年代後半になると、西海岸マットは斜陽期を迎えます。
斎藤は1977年に西海岸を離れ、米国南部のフロリダに転戦します。
(実は最近知ったのですが、1970年頃にも一時期フロリダをサーキットしたことがあるようです
今はネットでこういう情報も得やすくなりました。)

70年代末のフロリダは繁栄マーケットで、日本のプロレスメディアにもよく情報が載っていました。
斎藤はここでもイワン・コロフ、そして後にグレート・カブキとなる高千穂明久とのタッグでトップを張ります。


ヒールとして新日本再登場
そしてフロリダにはフリーで成功した日本人レスラーの先輩であるヒロ・マツダがいました。
マツダはベビーフェイスなので、フロリダではタッグを組まなかったようですが、
マツダをリーダーに上田馬之助らを巻き込みフリーの日本レスラーのチーム「狼軍団」を結成、
1978年暮れに開催された新日プロのブレ日本リーグ戦に殴り込み、ヒールとして旋風を巻き起こしました。

そこから斎藤はヒールとして1980年初頭まで新日に連続参戦します。
1979年春にはマツダとのコンビで坂口・ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。
続いてすぐに上田と共に国際プロレスにも参戦。

北米タッグは坂口・長州力の新コンビに古巣のロスで奪回されますが、
その後も外国人サイドの参謀格として、北米タッグにもパートナーを変えて何度も挑戦。
個性の強い外国人レスラーを上手くコントロールし、あのタイガー・ジェット・シンとも息の合ったチームを組みました。
猪木、坂口、藤波辰巳らともですが、特に同じアマレス出身でタイプの似ている長州とは
北米タッグ王座をめぐって好勝負を展開しました。


斎藤の実力
1980年春、外国人側の参謀格のバッドニュース・アレンに譲った斎藤はフロリダに戻ります。
フロリダでは早々にTVタイトルを取ると、その後はジョージア、アラバマ等南部を転戦して
アラバマヘビー級王座を獲得と、帰米後も行く先々でトップを張りました。
当時熱心なプロレスファンだった私はプロレス誌でこの活躍ぶりを知り、
やはり斎藤は凄い、どこに行っても必ずトップを取る、格違いだと実感しました。

斎藤はなぜこんなに凄いのか?
斎藤の試合スタイルは伝統的な日系スタイルの卑怯な試合運びをベースにしていますが、
アマレス仕込みのテクニックと鍛え上げられた身体から繰り出すファイトはスピードと切れ、
パワーに溢れたもので、バックフリップやスープレックスなど大技の迫力も文句なく、
比類ないものでした。


WWF AWA参戦
そして1981年、ついにWWF(現WWE)に参戦。
西海岸でも組んでいたことのある日系のミスター・フジとのコンビでWWFタッグ王座を獲得。
ニューヨークMSGの檜舞台でもトップを取りました。

1983年には長州力の革命軍(→維新軍)の大御所格として久々に新日本参戦。

同年後半にはAWAに転戦し、ここではいきなりハルク・ホーガンと抗争を展開します。
ホーガンはWWFでヒールとして活躍した後、他地区を経てAWAでベビーフェイスとして人気を得ており、
WWFに復帰して王者となる直前の時期でした。
斎藤はその後もAWAでニック・ボックウインクルらと組み、ヒールのトップクラスに君臨します。


ざっと斎藤のキャリア概略を紹介しました。
この他に書き洩らしている地域もあります。
まさに全米各地、どこに行ってもトップを張ってきたことがわかります。

その後、AWA参戦中の1984年にケン・パテラが起こした器物破損事件に巻き込まれ服役し、
刑期終了後は新日本プロレスを主戦場とし、猪木との巌流島決戦でも話題を呼びました。
後にはテレビ朝日の中継での解説も務めました。これはまぁ“迷解説”だったかも知れませんが。
1999年に引退。近年は闘病を続ける様子が伝えられていました。


昭和の名レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年4月20日 (金)

【昭和プロレス】 元祖WWEの帝王 ブルーノ・サンマルチノ死去/G馬場の好敵手・盟友

訃報 元プロレスラーのブルーノ・サンマルチノが4月18日に亡くなりました。82歳。
20世紀の偉大なプロレスラーがまた1人逝きました。


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ブルーノ・サンマルチノ
(Bruno Sammartino 1935年10月6日 - 2018年4月18日)
イタリア生まれでアメリカで活躍したプロレスラー。
パワフルな怪力殺法から、日本では“人間発電所”の異名で知られた。


元祖WWEの帝王
今やアメリカンプロレスといえばWWE(World Wrestling Entertainment)。

この団体は1963年にWWWF(World Wide Wrestling Federation)として、
大都市ニューヨークを本拠地、マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)を興行拠点として設立されました。
1979年3月にWWF(英: World Wrestling Federation)に改称、1980年代には全米に勢力を拡大。
2002年5月にWWEとなりましたが、名称が変わっただけで、基本的には同じ団体です。

1963年の設立時、初代WWWF世界ヘビー級チャンピオンには東部マットを中心に高い人気を誇った
伝説的なショーマン派レスラーであるバディ・ロジャースが認定されましたが、
同年5月にこのロジャースをMSGで僅か48秒で下し、28歳の若き王者となったのがサンマルチノでした。
同地に多いイタリア系アメリカ人からの支持を得て、名実共にWWWFのトップレスラーとなりました。

以後、1971年1月に一度王座から落ち、プエルトリコ出身のペドロ・モラレスの時代もありましたが、
1973年12月に王座に返り咲き、再びサンマルチノ時代が到来。
1977年4月に王座を明け渡し、ボブ・パックランドの時代になった後も
1981年に1度引退するまで20年近く、圧倒的な人気を誇ってMSGの帝王、NYの英雄として君臨しました。


20世紀を代表する怪力ファイター
身長はプロレスラーとしては決して高くないサンマルチノですが、
鍛え上げられた分厚い肉体から繰り出す圧倒的なパワーとラッシングファイト、
ベアハッグ、カナディアン・バックブリーカー、フルネルソンといった腕力を利した絞め技、
そして猛烈なマシンガンキックを武器に活躍しました。

パワーファイター、怪力レスラーの代名詞的存在。
この点では20世紀を代表する存在と言っていいと思います。

そして、アメリカ最大都市の最大マーケットでこれだけ長期に渡りエースに君臨したのも稀有な例でしょう。


一方、WWF(→WWE)のオーナーであるビンス・マクマホン父子との関係は微妙で、
1981年の引退後にWWFを離脱して新団体IWFを設立、WWFと興行戦争となった事もありました。
1984年にはWWFに復帰し、1985年にはリング復帰も果たしますが、
1988年に再度離脱し、以降はWWFとは距離を置きました。

その為か、これだけの大功労者でありながらWWE殿堂入りが2013年と、だいぶ遅かったです。
ともかく元気な内に殿堂入りが実現したのはよかったです。
いかなる理由があろうとも、WWE殿堂にサンマルチノの名がないとは、昭和プロレスファンには考えられません。



ジャイアント馬場との関係

日本ではジャイアント馬場の長年の好敵手、そして盟友、ビジネスパートナーとしても知られます。
2人の関係は1960年代前半、馬場の渡米修行時の対戦まで遡ります


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1964年2月17日、MSGで馬場の挑戦を受ける。
馬場の初渡米時はまだWWWFの設立前で、
これは2回めの米国遠征からの帰国直前。



ただ、後年の取材によるとサンマルチノ自身は米国での馬場との交流については記憶しておらず、
その友情関係は1967年の日本プロレスへの初来日からとしています。

当時のサンマルチノはWWWF王者でしたが、
日本では主に馬場の保持していたインターナショナルヘビー級王座への挑戦者として名勝負を重ねました。


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怪力技フルネルソンで馬場を締め上げる


この馬場の日本プロレスのエース時代、ライバルとされたボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
ジン・キニスキー、デッィク・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー、キラー・コワルスキーら
パワー&ラフファイタータイプの大レスラー達は、実は1938年生まれの馬場より一回り上、
むしろ力道山に世代の近い、1920年代生まれのベテランが多かったのですが、
1935年生まれのサンマルチノとは3歳差、同世代のライバルでした。


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馬場の16文キックが炸裂


そして1972年、馬場が日本プロレスから独立して全日本プロレスを設立すると真っ先に協力者となり、
自らが全日マットに上がるだけではなく、他のレスラーのブッキングも行いました。
その後、WWWFは馬場のライバル・アントニオ猪木の新日本プロレスとの提携を強めますが、
サンナマルチノは新日本に上がる事なく、馬場との義理を貫きました。

現役としての最後の来日は1981年10月、米国での引退宣言の後で、
全日本創立10周年シリーズに参加して蔵前国技館で馬場と初タッグを組み、
タイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と対戦しました。


1999年1月、ジャイアント馬場死去。
同年5月、馬場の「引退試合」と銘打った東京ドームでの追悼興行に
ジン・キニスキー、ザ・デストロイヤーら馬場の盟友達と共に来日。
風格ある佇まい、馬場に心のこもった追悼の言葉を送り、ファンに感銘を与えました。

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馬場“引退試合”に出場した
左からデストロイヤー、サンマルチノ、キニスキー


20世紀の偉大なレスラー・サンマルチノに謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

以下、日刊スポーツのサイトより引用
https://www.nikkansports.com/battle/news/201804190000047.html
☆☆☆
人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ氏死す 82歳
[2018年4月19日3時15分]   
プロレスの元WWWF(現WWE)世界ヘビー級王者で、WWE殿堂入りのブルーノ・サンマルチノ氏が亡くなった。WWEが18日(日本時間19日)、公式サイトで発表した。82歳だった。

圧倒的なパワーと持久力を誇り「人間発電所」と呼ばれた。1963年5月、米ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでバディ・ロジャースをわずか48秒で下し、第2代WWWF王座を獲得。同王者としてマディソン・スクエア・ガーデンで防衛戦を重ねたことから「MSGの帝王」とのニックネームもついた。

ジャイアント馬場とは若手時代から交流があり、64年2月、馬場の王座挑戦を受けた。67年3月、日本プロレス参戦のために初来日。馬場の保持するインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。

73年からは全日本プロレスにも参戦し、馬場と名勝負を繰り広げた。
81年に現役を引退したものの、85年からWWF(現WWE)で現役復帰し、86年のレッスルマニア2大会のバトルロイヤルなどに出場。99年5月には全日本プロレスの東京ドーム大会のために来日し、同年1月に死去したジャイアント馬場「引退試合」に出席した。また2013年2月にはWWE殿堂入りを果たし、MSGで開催された殿堂入り式典に出席していた。
★★★

2017年4月30日 (日)

【昭和プロレス】『キラー・カーン自伝』発売記念トーク&サイン会 in 新大久保キラーカンの店/「カーン」か「カン」か?

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4月19日に元プロレスラー、キラーカンさんの著書
『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 』が、G SPIRITS BOOKから発売されました。

それを記念したトーク&サイン会が今日4月30日にカンさんが経営する
新大久保の「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」で開催されました。
この自伝の編集にも協力された元ゴング編集長の清水勉氏が司会を務めましたが、
約30人の満員のお客さんを前に、ほぼカンさんの独演会で、大いに盛り上がりました。


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ノリノリのカンさん。後方が清水氏


カーンかカンか?
ところで、自伝のタイトルには「キラー・カーン」とありますが、
本人は今「キラーカン」を名乗っており、店の名前も「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」です。
これはどういうことか?

この件は今日のイベントではふれられませんでしたが、自伝に書かれています。
現役時代、メディアも私達ファンも「キラー・カーン」と呼んでいました。
しかし、このリングネームは元々アメリカで名付けられたもので、かのジンギス・カンに由来します。
つまり、本人の認識としては本来「カン」で、日本では誤って「カーン」と定着してしまったのです。

ファンとしては「カーン」に馴染み・愛着がありますし、
そこを考慮して自伝のタイトルも「カーン」採用したとのことですが、
本項では本人の意向を優先して「カン」で記します。


“キラー・カン”誕生の経緯
それにしても、なぜ新潟生まれの日本人・小沢正志がモンゴル人・キラー・カンとなったのか?
命名までの経緯を簡単に記します。

小沢正志は大相撲出身。1971年に馬場・猪木が並び立っていた時代の日本プロレスに入門し、
その後、日プロの分裂に伴い、新日本プロレスに移籍します。
1978年にメキシコに渡り、プロモーターの要請によりモンゴル人「テムヒン・エル・モンゴル」としてデビューしました。
翌1979年、アメリカのフロリダに入り、モンゴル人キャラはそのまま「キラー・カン」となったのです。

この当時、日本のファンの海外、特にアメリカマットへの関心は高く、
専門誌は米国からの情報掲載に大きなスペースを割いていました。
特にフロリダは繁栄マーケットとして注目度が高く、
そこで小沢の、蒙古人ヒール「キラー・カーン」としての活躍は何度も大きく紹介されました。
自伝では1981年2月の凱旋帰国の段階で「カーン」と名付けられたかように書かれていますが、
実際には1979年~80年のアメリカでの活躍中にマスコミを通して「カーン」が定着していたのです。


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さて、ここまで書いてきた事からもわかるように、
カンさんはプロレスの“本場”アメリカで大きな成功を果たした日本人レスラーです。
昭和の時代の米国マットでの出来事はもちろん伝聞ですし、特にプロレスの情報は虚実が混在します。
まして、時代や地域が違えば比較は難しいですが、得られる情報から極力客観的に判断して、
カンさんは間違いなくアメリカで最も成功した日本出身の日本人レスラーの一人です。
もしかしたらNo.1と言っていいかも知れません。

アメリカで成功したから偉いともいいませんが、
それだけの実績を残した人の書いた本ですので、特に米マットに関わる証言は重みがあります。

また、自伝には日本人レスラーや、プロレス関係者の批評・批判もかなりはっきりと書かれています。
特に辛辣に書かれているのは坂口征二さんですね。イベントでもかなり口撃されていました。
坂口さんについては最近、カンさんはよく発言しているのでそれほどの驚きはないですが、
それにしてもかなり激しい論調でした。

トークでは猪木さんや新間寿さんについてもきつい発言が並びましたが、それでもこの二人には敬称付き。
坂口さんには無しでした・・・。
その他、人物評価は明解で、「へー、そうなんだ!」と意外に感じる点も多かったです。


飲食店主として
1987年のアメリカでの試合を最後に引退したカンさんは帰国して飲食店を始めました。
もう30年になります。
最初は西武新宿線の中井のスナックで、故尾崎豊さんが常連だった事はよく知られています。
この日は参加者からの質問で尾崎さんの話まなり、興味深いエピソードも聞けました。
最近も、尾崎さんの命日にファンが店を埋め尽くし、尾崎さんが好んだというカレーが多く注文されてそうです。

この中井のスナックの後は主に居酒屋タイプの手掛け、新宿の歌舞伎町や西新宿を転々としてきました。
この日の会場となった新大久保駅近くの路面店である「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」は、
昨年9月オープンした店で、たしか9件目と言っていたかと思います。


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突然の引退、そして次々と店を新しくしてきたことについて、
とにかく、思い込んだらすぐに行動に移してしまう性格だからと説明していました。
しかし、この店は死ぬまで続けるつもりとのことです。

私はカンさんの話を聞くのは初めてでした。
実は、随分前のネットでの情報から、ファンに対してはもう少し寡黙なのかと思っていたのですが、
大変饒舌で話術も巧み、かつ物腰は柔らかい人で、楽しいひと時を過ごしました。

自伝や今日のトークの内容についてはまとめて書き切れませんので、
機会を改めてテーマを絞ってやりたいと思います。


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Old Fashioned Club  月野景史

2017年1月16日 (月)

【昭和プロレス】“スーパーフライ” ジミー・スヌーカ死去

訃報 元プロレスラーのジミー・スヌーカが1月15日に亡くなりました。73歳。


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ジミー・スヌーカ
(Jimmy Snuka、本名:James Reiher、1943年5月18日 - 2017年1月15日)



私がプロレスに熱中していた1980年頃、不思議に感じている事がありました。
当時はプロレス専門誌が月刊誌として二つの出版社から計4誌発行されていました。
その時代の読者は海外、特にアメリカマット界への関心が高く、
毎回アメリカからのレポートが多く掲載されていました。

中でも米国で活躍しているのに未来日のレスラー、または来日経験はあるけど間隔が空いているレスラーは、
プロレスファンなら当然来日を心待ちにしますし、マスコミも更に詳しい情報を掲載します。

その中で、レポートに名前だけはよく出てきて、かなり活躍しているようなのに、
なぜか来日待望論がさっぱり盛り上がらない選手がいました。
ジミー・スヌーカです。

スヌーカはそれよりかなり前に2度来日しており、つまりその時に良い印象を残していなかったのでしょう。
1971年の初来日時はアメリカインディアンスタイルのグレート・スヌーカとしてでした。
その後、南海の野生派スタイルのヒールにギミックをチェンジしたのです。
といっても、スヌーカはフィジー出身なので、本来の姿になったといえるのですが。


リッキーの相手役として
その1980年当時、アメリカでの活躍が頻繁に紹介され、日本に呼びたい“未知の強豪”として、
来日待望レスラーNo.1だったのがリッキー・スティムボートでした。
リッキーは80年暮れの全日本プロレス・世界最強タッグリーグ戦に初来日しました。
この時はそこそこの人気を呼びましたが、他の外国人レスラーも豪華過ぎて、
単独で主役の座を勝ち取るまではいきませんでした。

当時の全日本はファンクスやミル・マスカラスなどベビーフェイスの人気レスラーは
日本陣営に入れて外国人ヒールと戦わせるスタイルを取っていました。
リッキーも1981年5月に2度目の来日が決定し、日本側に付くことになりました。
そうなると、リッキーに相応しい相手役が必要です。
そこで白羽の矢を立てられたのが、リッキーの本拠地であるアメリカのミッドアトランティック地区で、
当時リッキーのライバルだったスヌーカでした。

リッキーとスヌーカのアメリカから直輸入された対決は話題を呼びましたが、
特に悪役であるスヌーカの人気がリッキー以上に高まりました。
鍛え上げられ肉体、スタイリッシュでかっこいい悪役、
「スーパーフライ(Superfly)」と呼ばれた思い切った空中殺法は
新しい時代、ニューウェイブのプロレスとしてもてはやされました。
当時のスヌーカは既に38歳で、それほど若くはなかったのですが。


ブルーザー・ブロディと
次の81年秋の来日ではブルーザー・プロディとの出会いがありました。
同年暮れの最強タッグはプロディと組んで初出場、そしていきなりの優勝。
翌1982年春にはそのプロディとも仲間割れ、ブロディとスタン・ハンセンとチームの抗争開始、
そして超大物ハーリー・レイスとタッグ結成と、スヌーカの周囲は目まぐるしく展開するのですが、
スヌーカのWWF(現WWE)本格進出で、全日本への登場は82年を最後に一旦途切れます。

この1981年~82年がスヌーカの日本での全盛期といえるでしょう。


WWFのスーパースターに
日本を離れている間、スヌーカは昇り調子だったWWFでも絶大な人気を得ました。
最初はヒールでしたが、ヘビーフェイスに転向してブームを巻き起こしたようです。

その後、1985年には新日本プロレスに登場。
こちらも新日に移籍したプロディとのタッグも再結成しましたが、
これはプロディと新日とのトラブルに巻き込まれ、尻すぼみになりました。
1987年にはプロディと共に全日本に復帰。

この頃になると年齢も40代半ばで、さすがに往時のようにはいきませんでしたが、
その後も米日で活躍を続け、1996年には早くWWE殿堂入りを果たしました。
プロレスラーとしては、大きな成功を成し得たレジェンドと呼んでいいでしょう。


しかし、晩年には過去のは忌わしい事件による逮捕などもあったようです。
詳しい事情はわかりませんが、残念なことでした。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、日刊スポーツのサイトより引用
http://www.nikkansports.com/battle/news/1766325.html
☆☆☆
ジミー・スヌーカ氏が死去 ブロディ氏と最強タッグ
全日本、新日本に参戦したWWE殿堂入りの元プロレスラー、ジミー・スヌーカ氏が15日(日本時間16日)に米フロリダ州の親族宅で73歳で亡くなった。WWEに参戦する娘のタミーナが公表した。胃がんを患っていたという。

フィジー出身で69年にハワイでデビュー。「スーパーフライ」の異名を持つ空中殺法で一世を風靡(ふうび)した。71年に初来日して日本プロレスに参戦。81年より全日本の主力外国人となり、故ブロディ氏とのタッグで最強タッグ戦優勝も果たした。82年からWWF(現WWE)に定着し、王者バックランドとの抗争で爆発的な人気を得てスーパースターに君臨。85年には新日本にも参戦した。

83年に当時交際していた女性が死亡した件を巡って殺人罪などで15年に訴追されたが、裁判に耐えられない状態として今月3日に裁判が打ち切られていた。(デーブ・レイブル通信員)
★★★

2016年8月 9日 (火)

【国際プロレス】北海道羅臼での最終興行(1981年8月9日)から今日で35年

このブログでも時々、昭和期に存在したプロレス団体「国際プロレス」の事を書いています。
その国際プロレスは今からから35年前の今日、1981年(昭和56年)8月9日、
北海道目梨郡羅臼町での興行を最後に幕を閉じました。

Photo『国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語』ベースボール・マガジン社刊より 


国際プロレス
正式社名「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ」
(International Wrestling Enterprise、略称IWE)

1967年(昭和42年)1月18日 東京台東区体育館で東京プロレスとの合同興行にて旗揚げ。
1981年(昭和56年)8月9日の北海道羅臼町大会を最後に活動停止。
活動期間 約14年半。


力道山が作り育てた日本プロレス協会。
力道山の死後、ジャイアント馬場とアントニオ猪木をエースとして引き継がれていく過程で、
そこから分かれて設立されたのが国際プロレス。
しかし、老舗日本プロレスを追い抜くことは出来ず、二番手の団体でした。

やがて猪木は日プロを離れて新日本プロレスを設立。
馬場は全日本プロレスを作り、栄華を誇った日プロはあえなく消滅。
国際、新日本、全日本の三団体が並び立つ時代を迎えましたが、
その時も、馬場も猪木もいない国際プロレスは三番手に甘んじました。

常にマイナーな位置にあって、様々な新機軸を打ち出した国際プロレス。
日本人レスラーのヒーローが悪役外人を倒すスタイルが当たり前だった時代、
外国人レスラーをエースとし、外人レスラー同士の対決を打ち出したのが国際プロレスでした。

しかし、他の団体が約10年遅れて外人対決を売りにして話題を巻き起こした時、
国際プロレスは、対決させて売りになるような外人招聘ルートを失っていた・・・。
いつも、なんでも、だいたいそんな感じでした。

そして1980年代を迎え、約10年ぶりともいえるプロレスブームに世が浮かれ出し、
新日本と全日本との間で引き抜き合戦や興行戦争が激化する中、
国際プロレスはテレビ中継も失い、最果ての地で幕を閉じたのです。


私は、最もプロレスを熱心に観ていた三年間、1979年~81年頃ですが、
ちょうど国際プロレスの最末期にあたります。
三団体の中で国際プロレスが一番好きであったというわけではないですが、
元々判官贔屓の傾向がある上、自分がプロレスに熱中していた時代に失われたこともあり、
この団体に対する強い思い入れがあります。

なんといっても常にマイナーであった団体。
1981年の活動停止後、20世紀の間はメディアに取り上げられる事は極めて少なかったです。
団体終焉後も出身レスラーは各団体に分かれて、それなりに活躍していました。
名前が知られているところではラッシャー木村、アニマル浜口、阿修羅原、そして冬木弘道など。
しかし団体としては、文字通り「幻のプロレス団体」だったと思います。


それが今世紀に入り、いわゆる“昭和プロレスファン”にはおなじみの同人誌、
ミック博士(昭和プロレス研究室主宰)の『昭和プロレス・マガジン』の、
2002年発行の第1号は国際プロレス特集でした。

その後、現存しないとされてきた試合映像が発掘され、
DVDボックスもいくつかリリースされました。

主にレトロなプロレスを扱う『Gスピリッツ』誌の中でも、
国際プロレスがテーマの連載がなされています。

そして2014年には、現在は『週刊プロレス』、
国際プロレスのあった時代は『月刊プロレス』を発行していた、
プロレスメディアの王道「ベースボール・マガジン社」から
丸々一冊国際プロレスを扱ったムックまで発行されました。

「脚光が当たる」とまでは言い過ぎでしょうが、専門メディアとはいえ、
これほど国際プロレスが扱われるとは、不思議にすら感じています。
もちろん、夢のような嬉しい事です。


この団体の会社としての設立は1966年だと思いますが、
旗揚げ興行は1967年1月でしたので、実は来年2017年は旗揚げ50周年ということになります。
もう一盛り上がり、あると嬉しいいのですが。


Old Fashioned Club  月野景史

2016年6月18日 (土)

◆訃報【昭和プロレス】ジプシー・ジョー死去/国際プロレスを支えた凶暴ヒールはプロに徹した好人物

アメリカ、カナダ、そして日本で活躍したプエルトリコ出身のプロレスラー、
“放浪の殺し屋”ジプシー・ジョーが6月15日に亡くなりました。 82歳。

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ジプシー・ジョー(Gypsy Joe、本名:Gilberto "Pepe" Melendez)
1933年12月2日 - 2016年6月15日


無類のタフネスを誇った凶暴悪役ラフファイター。
小柄ながら、スチール製パイプ椅子で背中や頭部を殴打されても椅子が壊れてしまうほどの頑健さと、
金網デスマッチでの金網最上段からの二―ドロップなど無法・無頼ファイトがトレードマーク。
徹底したプロ根性を持ったレスラーとして知られています。

実は最近では2010年にも来日して試合を行っているのですが、全盛期は当然ながら昭和の時代です。
1967年から1981年まで存在したプロレス団体「国際プロレス」。
その後期、東京12チャンネル(現テレビ東京)が放送した時代(1974年~81年)の看板外人スターでした。


国際プロレスの看板ヒール
1975年以降、国際プロレスは大剛鉄之助を支部長とする北米支部をカルガリーに置き、
このカナダルートで来日する無法派のラフファイターが外国人レスラーの中心になっていきました。
ジョーはモントリオールでプロモーターも務めていた大物悪役マッドドッグ・バションの紹介で1975年9月に初来日。
凶暴ファイトで日本勢を蹂躙し、エースのラッシャー木村と死闘を展開、看板外人となります。
「金網の鬼」と呼ばれ、デスマッチでの流血戦を得意した木村とはピタリと手が合ったのです。

以来、1981年8月に国際プロレスが活動を停止する最終シリーズまで11回来日し、まさに国際を支えました。
当時は新日本プロレスではタイガー・ジェット・シン、全日本プロレスではアブドーラ・ザ・ブッチャーが悪の看板スターでした。
国際でそのポジションにいたのがジョー。北米では必ずしも全国区のスターではないところが共通していました。
木村のIWA世界ヘビー級王座、またグレート草津、マイティ井上、アニマル浜口、阿修羅原らが保持していたIWAタッグ王座にもパートナーを変えつつ再三挑戦しました。

当初はスペインの放浪の民、ジプシーのリーダーで、自分らを迫害する白人を殺害して国外逃亡し、
北米でプロレスラーになったとの物騒で政治的でもある経歴が紹介されていました。
まさに“放浪の殺し屋”です。
それはギミックだとしても、プエルトリコ出身でニューヨークに移住してプロレス入りしたとのキャリアが
通説として定着したのは随分後になったからだった思います。謎めいた男でもありました。

一方で、リング界の外では好人物、真面目なプロフェッショナルであることも比較的古くから知られていました。
他の大物レスラーと来日が重なった時はエース木村への挑戦は譲り、
売り出し中のホープだった阿修羅原のWWUジュニア王座に挑むといったマッチメイクもしっかりこなしました。
その後、他に有力レスラーがいない時は木村や、一時期在籍した大木金太郎のインターナショナルヘビー級王座に
挑戦するという、あまりよくないマッチメイクをされても、きちっと仕事をするような面もありました。
常連として外人勢のまとめ役を務め、情けない試合をした若いレスラーを厳しく指導した事もあったようです。


ブッカ―役も務める
初来日はカナダ・モントリオールのマッドドッグ・バションの斡旋でしたが、
その後ジョーはアメリカのテネシーに定着、末期は国際へのレスラーの仲介もやっていたようです。
ジョーの斡旋で来日したと思われるテネシー地区周辺のレスラーが複数います。
こんな面でも国際を支えました。
逆に国際で一緒になった後、ジョーの仲介でテネシーに転戦したと思しきレスラーもいます。

ただ、テネシールートのレスラーはドタキャンも多かったですが。


全日本プロレスへ
ジョーの頑張りにも関わらず、国際プロレスは1981年8月9日、北海道羅臼の地で最後の興行を終えました。
最後を看取ったジョーはほどなく、全日本プロレスに活躍の場を移します。

全日でもジョーを叩いた椅子が壊れるパフォーマンスは大いに受け、
初登場時はジャンボ鶴田やミル・マスカラスの保持する王座に挑戦するという扱いを受けましたが、
当時の全日の豪華外人の中で、82年以降は主に中堅どころで闘いました。

それでも、4年間で10回という国際時代以上の密度で来日し、あの大仁田厚のジュニア王座に挑戦したり、
やはり国際から全日入りしていた原・井上のアジアタッグ王座に、
これも国際で縁のある鶴見五郎やジェリー・モロー(稲妻二郎)と組んで挑戦したりもありました。
しかし、既に50歳を迎え、戦績は来る度に悪くなっていき、1985年が最後の全日登場となりました。

日本との縁は昭和の時代はこれで終わりなのですが、アメリカでは現役を続け、
日本が団体乱立時代を迎えた1990年代以降、リビングレジェンドとして復活し、それが2010年まで続いたのです。

私は特に後期国際プロレスに思い入れが強いこともあり、ジョーは忘れ得ぬレスラーです。
謹んで哀悼の意を表し、追悼の辞を記させていただきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、東スポWebより引用
http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/554411/
☆☆☆
“流浪の殺し屋”ジプシー・ジョーさん死去 ラッシャー木村、大仁田らと死闘

国際プロレスや全日本プロレスで活躍した元プロレスラーのジプシー・ジョー(本名ジルベルト・メレンデス)さんが16日(現地時間15日)に死去した。82歳だった。米国の複数のメディアが報じたもので、死因は分かっていない。2013年には痛風で右足を切断するなど、ここ数年は健康に問題を抱えていた。

プエルトリコ出身のジョーさんは1963年に米国でプロレスデビュー。身長176センチと小柄ながらも、無類のタフネスさで頭角を現した。相手がイスで頭や背中を打ちつけても、逆にイスが壊れてしまうほど頑丈な肉体が武器だった。70年代前半からは、全米各地を転戦。大流血戦で人気を集めて、数多くの王座を獲得した。

75年9月には国際プロレスに初来日。ラッシャー木村らと金網デスマッチで死闘を展開して“流浪の殺し屋”の異名を取った。金網マッチがもっともよく似合う外国人選手だった。81年からは全日本プロレスで活躍。大仁田厚が保持していたNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座にも挑戦した。ミスタープロレス・天龍源一郎も83年7月、長女の紋奈氏(天龍プロジェクト代表)が誕生した日、ジョーさんとシングル戦で戦っている。

90年代に入っても現役を続け、91年1月にはW☆INGに参戦。その後も何度かインディ団体に来日し、2010年12月のSMASH新宿大会が最後の日本マットとなった。翌年1月には米国で引退試合を行っている。

国内最高齢レスラーのグレート小鹿・大日本プロレス会長は「知らなかった。しかし82歳かあ。俺はその年まで現役できんのかな。とにかく体の頑丈な方でした。心よりご冥福をお祈りいたします」と神妙な表情で哀悼の意をささげていた。
★★★

2016年1月25日 (月)

【昭和プロレス】訃報◆モンゴリアン・ストンパー死去/馬場、猪木、木村と因縁深いラフファイター

元プロレスラーのモンゴリアン・ストンパーが1月23日に亡くなりました。
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml

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生年は1936年説と1944年説がありましたが、海外サイトでは1936年説が優勢のようです。
だとすれば、79歳ということになります。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ラッシャー木村ら、昭和期の日本のエースレスラーと因縁深い男です。


ザ・モンゴリアン・ストンパー(The Mongolian Stomper)
アーチー・ゴルディー(Archie Gouldie、本名:Archibald Edward Gouldie) 1936年11月22日 - 2016年1月23日
カナダ・アルバータ州出身。
モンゴリアンはギミックで、「ザ・ストンパー」と名乗る事も多かったと思いますが、日本では「モンゴリアン」で知られます。
名前の通り、強い足から繰り出すストンビング・キックが主武器でガンガン攻め立てるタイプの直線的なラフファイター。
日本では「踏みつぶし野郎」などと呼ばれました。私は「踏み殺し屋」の方がいいと思いましたが。
評価としてはB級悪役というところですが、北米での実績もそれなりで、日本とも縁の深いレスラーでした。

本項では、日本での足跡、日本人レスラーとの関わりを中心に記します。


1964年 猪木の渡米修行時代のパートナー
ストンパーはアントニオ猪木の米国修行時代のパートナーとして知られており、wikipediaでも強調されています。
ただ、ごく短期間ではありましたが。

1960年代初頭にカナダでデビューしたストンパーはアメリカに移り、1963年にカンサスに入ってモンコリアンを名乗ります。
翌1964年4月、日本から武者修行に来た21歳のトーキョー・トムことアントニオ猪木とアジア人悪役コンビを組むのです。

猪木はその後の米国転戦では、最終地のテネシー以外ではベビーフェイス(善役)だったようですが、
カンサスではヒールで、ストンパーとのチームではパット・オコーナー&サニ―・マイヤースの超一流チームとの
対戦記録も残っており、いきなりヒールのトップクラスのポジションに就いています。
猪木は二ヶ月余りでロサンゼルスに転戦してしまうのですが、ストンパーとは公私共に良い関係だったようです。


1971年 日本プロレスに初来日
その後もアメリカ・カナダで実績を積んできたストンパーは
1971年、ジャイアント馬場と猪木のBI砲がエースとして君臨する日本プロレスの新春シリーズに初来日します。
ここでは外人側エースとして馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦するという抜擢を受け、しかも引き分けます。
他にもノンタイトルで猪木と大木に勝ち、ザ・ケンタッキアンと組んでBI砲に挑んだインタータッグ戦では敗退しますが、
ビル・ドロモと組んでのノンタイトルでのBI砲戦では引き分けと、実に立派な戦績を残しました。

翌1972年秋、猪木に続いて馬場も抜けた混乱期の日プロに再来日しますが、この時はあまり良い戦績を残していません。


1979年 国際プロレスに登場
次の来日は7年後、1979年11月国際プロレスでした。
この時はアレックス・スミルノフ、ジプシー・ジョー、上田馬之助ら当時の国際のエース級外人を揃えたシリーズでしたが、
ストンパーは彼らを差し置いてトップとして迎えられます。日プロでの実績がものを言いました。
テレビ登場初戦では、グレート草津を猛烈な踏みつけ攻撃から変形スリーパーで失神KO、久々の再来日を飾りました。

ただ、超大物のパーン・ガニアが中盤に特別参加した為、ラッシャー木村のIWA王座の挑戦枠が残りひとつとなり、
外人勢はストンパー軍団とスミルノフ軍団に別れて抗争を展開、6人タッグ戦に勝利したストンパーが挑戦権を獲得します。
タイトルマッチは最終戦で行われ、一度は木村をフォールしてベルトを巻くも、ミスジャッジという事で試合再開、
そこに挑戦権争いで敗れたスミルノフが手出しをして痛手を負い、フォール負けしてしまいました。

それならば怒り狂ってスミルノフに食ってかかるかと思えば、意外にもすごすご引き下がってしまったのです。
ダメージが大きかったという事なのでしょうが、あまり良い印象ではなく、今後どういう使い方をするのか、
疑問に感じていたのですが、1シリーズだけ間に入れて、翌1980年2月に再来日します。


1980年 国際プロレスに再登場
この時は単独エース。
しかし、終盤にこれまた超大物ディック・ザ・ブルーザーの来日が急遽決定したので、
ストンパーの木村への挑戦は中盤で1回だけ実現しますが、3本勝負で2本フォールを取られて敗退します。
ただ、3本目が一瞬の抑え込みで、まだ余力充分という感じで消化不良の内容でした。

どうも国際プロレスはストンパーを本気で売る気があるのか、よくわからないマッチメイクですが
その答えを出すべく、この年の秋、自ら編成したというストンパー軍団を率いての来日が決定します。
日プロの来日で一緒だったピル・ドロモも含まれていたのですが、肝心のストンパーが気管支炎を発症して、
来日が中止になってしまいました。 国際とはここまで。

ストンパーは12チャンルネル時代の国際プロレスの常連との言われ方をしますが、実は2回だけの来日なのです。
しかし、タイプの似た木村とは手も合い、国際のエース外人との印象は強いです。


1982年 全日本プロレスに参戦 最後の来日
次の来日は国際プロレスの活動停止後、1982年春の全日本プロレスのチャンピオンカーニバル。
因縁のスミルノフも一緒でした。
この来日ではノーTVのブルーザー・プロディ戦で2分ちょっとでKOされるなど、優勝戦線には加われませんでしたが、
テレビ放送された馬場戦ではプロディらの乱入に助けられて引き分け、
同じく放送されたビル・ロビンソン戦では暴走として痛めつけての反則負けと、そこそこの存在感は示しました。
TVマッチで馬場に完敗したスミルノフよりは良い扱いだったようにも思えます。

ところが、このシリーズ終了後インターバルなしに開催されたグランド・チャンピオンシリーズにも残留参加したのですが、
カーニバル中は勝っていた日本勢の中堅どころに連戦連敗してしまいます。
テレビではまったく放送されず、記録が残るのみですが、不可解なマッチメイクでした。
尚、スミルノフとの公式戦は最終戦で予定されていましたが、スミルノフの棄権・帰国により行われませんでした。
これもまた、不可解な事情があるのですが・・・。

こうして見ると、どうも参加した三団体でいずれも不可解なマッチメイクをされているようにも思えます。


1983年 カナダで猪木と邂逅
全日本参戦が最後の来日になるのですが、実はもう一度日本のファンの前に姿を現しているのです。
1983年12月、猪木をはじめとする新日本プロレス勢のカナダ・バンクーバーへの遠征が行われ、テレビ放送もされました、
猪木はケリー・ブラウンと戦うのですが、ベビーフェイスに転向していたストンパーが、旧友猪木の救援に現れたのです。
そして、翌1984年には新日本への来日も発表されましたが、残念ながらキャンセルとなりました。

その後も、90年代初頭までは現役を続けたようです。


気弱な男?
ストンパーは気が弱いとする説があります。
その根拠となったのが某書に書かれたエピソード。
前述のチャンピオン・カーニバルの際、一緒になったプロディに気兼ねして、
トレードマークの毛皮付シューズの使用を自発的にやめてしまったという話です。

しかし、ストンパーはその少し前の国際への来日では毛皮シューズを履いてはいません。
アメリカやカナダではわかりませんが、ストンパーの試合は時々日本の専門誌にも紹介されましたが、
少なくともこの頃は、毛皮シューズは使っていなかったと思います。
だとすれば、この件は事実誤認にということになります。


単調との評価もされますが、直線的に攻め込むスタイルはブルファイターの典型ともいえ、
また末期国際プロレスを彩ったヒールでもあり、忘れ難いレスラーです。

謹んで哀悼の意を表し、追悼文を記させてもらいました。

Old Fashioned Club  月野景史

以下、デイリースポーツのサイトより、訃報記事を引用
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml
☆☆☆
名悪役レスラー、ストンパーさん死去
2016年1月24日
プロレスラーのモンゴリアン・ストンパー(本名アーチー・ゴルディー)さんが現地時間の23日、米国テネシー州の病院で死去したと現地メディアが報じた。71歳だった。報道によると、人工股関節置換手術を受けたが回復せず、睡眠中に亡くなったという。

カナダ出身のストンパーさんはモンゴリアンスタイルの名悪役として知られ、60年代から90年代にストンピング(踏みつけ)を得意とした荒々しいファイトで活躍。米国修業時代のアントニオ猪木とタッグを組んだ経験もあり、日本でも日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体に参戦した。
★★★

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