35.昭和プロレス

2021年11月11日 (木)

【昭和プロレス】マッハ隼人死去/海外でデビューし日本でも活躍した異色の覆面レスラー

訃報 元覆面プロレスラーのマッハ隼人さんが亡くなりました。70歳
https://miruhon.net/191220


マッハ隼人
(マッハはやと、本名:肥後 繁久(ひご しげひさ)
1951年3月5日 - 2021年11月8日

昭和の日本人プロレスラーの中でも特異な位置を占める人です。


日本の団体を経ず海外マットでデビュー
マッハ隼人のレアな点はここです。
日本生まれ、日本育ちでありながら、日本の団体所属を経ず、
プロレスラーになる為に海外へ渡り、目的を果たしました。
その海外での実績をもって日本の国際プロレスに入団、
いわば“逆輸入レスラー”でした。


改めてマッハ隼人のキャリアを簡単に振り返ります。

プロレスラーになりたくてメキシコへ
元々プロレスラーになりたくて、新日本プロレスの入団試験を受けますが、身体が小さく不合格。
そこでメキシコに渡りプロレスラーを目指します。1975年、24歳の年。

メキシコのプロレス=ルチャリブレ
ミル・マスカラスにより、日本でもよく知られています。
マスカラスはメキシカンレスラーとしては大型でアメリカでも活躍しましたが、
ルチャの選手は全般に日本人レスラーより小型なので、隼人がそこを目指したのは必然でした。

メキシコのレスリングスクールに学び、1976年にカラテ・ハヤトとしてデビュー。
この時はまだ覆面レスラーではありません。
メキシコマットでは外国人は覆面を被れないのです。

ルチャリブレでそこそこ活躍した後は中南米各国を転戦し、
1978年にアメリカのロサンゼルスに入ります。
小さい身体でよく米国でと思いますが、当時のロスマットはレスラーも観客もメキシコ系が増えており、
ルチャ風ファイトは受けたのです。

国際プロレスへ
そして1979年秋にに国際プロレス入団、マッハ隼人となります。
長年隼人と国際を繋いだのはメキシコでも活躍した鶴見五郎と言われてきましたが、
鶴見と隼人のメキシコ滞在は時期をずれており、
実はロスで一緒だった剛竜馬だったことが、後年のインタビューで判明しました。

国際での隼人は直輸入のルチャ殺法がそこそこの人気を呼びました。
実はメキシコでの隼人は悪役(ルード)で、
善玉(リンビオ、テクニコ)的なルチャ殺法は日本で練習したようです。

やがて隼人はメキシコからレスラーを呼ぶ窓口も務め、
彼らとの試合でテレビマッチへの登場も増えましたが、
残念ながらテレビ放送が終了、国際プロレス自体も1891年8月に終焉を迎えました。

その後、国際プロレスと縁のあったカナダのカルガリーを経て全日本プロレスにも上がり、
1985年4月26日、旧UWFの後楽園ホール大会で引退試合が行われました。


後年のインタビュー
その後は渡米して造園業を営み、日本マットとは疎遠でしたが、
2013年3月27日発売『GスピリッツVol.27』のインタビューに登場。
その経歴の概要が披露され、ユニークな視点・人物感が昭和プロレスファンの話題を呼びました。
様々な発掘をしてきた同誌の国際プロレス回顧記事の中でも、貴重な回となりました。

国際プロレスの関係者の批評も人によってはかなり辛辣で、
特に吉原社長らのテレビ局スタッフへの不遜な態度への批判は、
国際プロレスが二度もテレビ局から見捨てられた結果への傍証でした。
一方で何かと評判の悪いグレート草津については「よくしていただいた記憶しかありません」との評。
これもなかなか独特。

エースのラッシャー木村や当時国際に入団していた大ベテランの大木金太郎に
ルチャのテクニックを応用した新技を伝授していたことも明らかになりました。


異国でデビューし、日本でも確かな足跡を残した昭和の異色レスラー。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史

 

2021年2月 2日 (火)

【昭和プロレス奇譚】1979年 謎のチェーンデスマッチブーム

昭和プロレスの語られることのない謎めいた一コマ。
1979年に二団体をまたいで起こったチェーンデスマッチブームについて記します。


まずは国際プロレス、春のビッグチャレンジシリーズ
東京12チャンネルの開局15周年として特別予算がつき、
この時代の国際プロスにしては豪レ華な外国人側のメンバーが揃い、
視聴率も好調だったシリーズ。

エースのラッシャー木村は保持するIWA世界ヘビー級王座の4連続防衛戦を行ったのですが、
その最後の挑戦者であるキラー・ブルックスが執拗にチェーンデスマッチでの対戦を要求したのです。
これには一応の伏線がありました。

木村は前年秋に来日した大型悪役のオックス・ベーカーと、
金網、チェーン、テキサスのデスマッチ三連戦を行い、チェーンのみ敗れたのです。

木村は「金網の鬼」と呼ばれ、金網デスマッチには強いのですが、
チェーンは苦手というアングルが、一応出来ていたわけです。
その情報を得ていたブルックスが執拗にチェーンでのタイトル戦をせまったという流れ。

国際側はそれには応じず、通常ルールで試合は始まりますが、
試合中もブルックスはチェーンを持ち込んでデスマッチを要求。

木村もそれに応じて途中からチェーンデスマッチに変更という展開。
結果はもう一人の外国人側エースだったジプシー・ジョーの乱入で木村の反則勝ちという、
今ひとつ締まらない結末でした。


続くビッグサマーシリーズ
大型ヒールのアレックス・スミルノフとオックス・ベーカーが来襲。
終盤にはアンドレ・ザ・ジャイアントが参加した豪華なシリーズ。
あのダイナマイト・キッドも終盤に初来日。

ベーカーは前年、チェーンデスマッチで木村を倒した張本人。
スミルノフもチェーンデスマッチは得意。
木村はアンドレの挑戦を受けるので、残る挑戦枠はひとつ。
そこでスミルノフとベーカーがチェーン戦で挑戦権を競うことになり、
凄惨な流血戦の末にスミルノフが勝利しました。

と、ここまで苦労して挑戦権を勝ち得たにも関わらず
木村とのタイトル戦は通常の三本勝負で行われ、
しかもスミルノフが勝ってタイトルを奪取してしまいます。
王座はすぐに木村が奪い返すのですが、なんとも不思議な展開。

国際プロレスはこの三年後に終焉を迎えますが、
それまで、チェーンデスマッチが話題になることはまったくなかったと思います。
あのチェーンフィーバーはなんだったのか?

これで国際でのチェーンデスマッチブームは終焉。
ところがこの年の暮れ、思わぬところにブームが飛び火します。
この手のデスマッチには縁遠そうな新日本プロレス。


6週間のロングランで行なわれた闘魂シリーズ
後半に特別参加したタイガー・ジェット・シンが
アントニオ猪木にチェーンデスマッチを迫ったのです。

この年のシンは大活躍で、国内外で猪木や坂口征二と闘いました。
ひとつ前の秋のシリーズもエースとしてフル参加しています。
ただ、それまでチェーンデスマッチを迫ったことはなかったと思います。

そして、この闘魂シリーズはこの時点での新日史上屈指の豪華メンバーが揃ったシリーズで、
シンのタイトル挑戦の予定はありませんでしたが。
(本当は来日初戦でノンタイトルでの生放送テレビマッチが予定されていましたが、
シンの来日が遅れ、キャンセルとなりました)

とにかく猪木は手一杯なので、坂口が最終戦の蔵前国技館でチェーンデスマッチを受けることになり、
テレビでも前フリがされました。

ところが、チェーンデスマッチは主催者側の判断とかで中止になり、
ただのデスマッチとして行われましたが、放送はまったく無し。
その後、チェーンデスマッチが話題になることはなかったと思います。

国際プロレスと同じような謎の展開。
いったい何だったのか?

以上、幻の昭和プロレスチェーンデスマッチ譚でした。

Old Fashioned Club 月野景史

2020年12月 4日 (金)

【昭和プロレス】パット・パターソン死去/ “インサイドワークの精密機械”

訃報 カナダ出身でアメリカで活躍したプロレスラー
パット・パターソンが亡くなりました。79歳没


Pp
パット・パターソン
(Pat Patterson、本名:Pierre Clemont、1941年1月19日 - 2020年12月2日)

1981年に発行されたプロレス本の名品「プロレスアルバム14 メモリアルレスラー」で、

「インサイドワークの精密機械」

と称されていました。

「インサイドワーク」はプロレスでよく使う言葉でしたが、
インサイドワークに長けてる、と言った場合、
いわゆる正統派の技のテクニックが優れていると言うのとはちょっと違い、
試合運びや駆け引き、といった部分が巧妙であることを指します。

どちらかといえばヒールレスラーに使われることが多いかも知れません。
ずる賢い、奸智に長けているといったイメージです。
パット・パターソンや、彼の先輩でタッグパートナーであった
レイ・スティーブンスなどは、その典型的なタイプということになるのでしょう。

そのプロレスラーとしての総合的実力に加え、人格も評価は高く、
現役引退後はWWF→WWEの重鎮としても活躍しました。
日本のファンには、アントニオ猪木の米国修業時代に親切に接したこともよく知られています。

WWF=東海岸のNYのイメージが強いですが、
現役生活の大半はサンフランシスコを中心とするアメリカ・カナダの西海岸で過ごしました。
猪木との出会いもカリフォルニアの北、オレゴン州・ワシントン州でした。

西海岸を離れて、本格的に各地を転戦して実績を残すのは、
実は現役生活の晩年に近づいてから。

そして、1979年に乗り込んだWWFでは、
最初ヒールとして王者のボブ・バックランドと抗争しましたが、
やがてベビーフェイスに転向、そのままフロント入りした形です。

レスラー生活全般としてはヒールが多く、スティーブンスとのブロンドボンバーズも
まさに奸智に長けた悪役コンビでしょうが、
実は西海岸でもヘビーフェイスとしてファイトしていた時期もあり、
正反対の典型的なベビーフェイスであるペドロ・モラレス
ロッキー・ジョンソンとのチームでもタッグ王者になっています。



日本には1968年に日本プロレスに来日していますが、
新日本プロレス設立、坂口征二合流後の1973年8月、
ジョニー・パワーズとの北米タッグ王者としてロサンゼルスのオリンピックオーデトリアムに登場、
猪木・坂口組の挑戦を受けたのが、日本のファンへの最初の晴れ舞台でしょう。

後から見れば、
この王者チームはそれまで実績のない、この試合のために作られたチームだったようですが、
結果的には全盛期といえる猪木・坂口の “黄金コンビ” の挑戦をアメリカと日本、
二度にわたり退けるという実績を残しました。

Jppp
パターソン(左)とパワーズのハンサムコンビ
即席どころか、この時が初対面ともいわれますが、チームワークは上々でした


パターソンはその後も新日本に度々来日、
猪木のNWFヘビー級王座に一度、
因縁の北米タッグには坂口・ストロング小林組に二度挑戦。
1979年にはWWF北米ヘビー級王者として来日し、坂口に王座を奪われました。
この年はそれ以前にパワーズもNWF版の北米ヘビーを坂口に取られています。
奇縁というか・・・、ちょっとおかしな話でしたが。

現役最後の来日は1981年暮れの第2回MSGタッグリーグ戦。
この時はほとんど目立つことなく、負傷で途中帰国となりました。
これはおそらく当初の予定通りだったのでしょう。
既にWWFのフロントにも関わっており、
その仕事の部分も含め、猪木・坂口との懇親という意味もあったのかも知れません。
だとしても、もう少しリング上の見せ場も作ってほしかったですが。

謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史

2020年1月18日 (土)

【昭和プロレス】ロッキー・ジョンソン死去 20世紀の偉大な黒人レスラー/残念だった日本でのキャリア

訃報 元プロレスラーのロッキー・ジョンソンが1月15日に亡くなりました。
20世紀を代表する黒人レスラーの一人でした。
https://www.daily.co.jp/ring/2020/01/16/0013037489.shtml


Johnson-rocky
ロッキー・ジョンソン
(Rocky Johnson 1944年8月24日 - 2020年1月15日)
カナダ・ノバスコシア州出身
(ニューヨーク州またはワシントンDCと紹介されることもあった)


20世紀を代表する黒人プロレスラーといえば・・・。
日本でも知名度の高いボボ・ブラジルがまず第一で、
次いでアーニー・ラッド、ベアキャット・ライトらが思い浮かびます。
彼らはいずれも2メートル級の大型レスラー。

もう一人挙げねばならないのがアブドーラ・ザ・ブッチャー。
彼の場合は北米ではさほど広範な地域で活躍したわけではありませんが、
日本での知名度ではブラジルをも凌駕します。
ブッチャーは長身ではありませんが、重量級タイプ。

対してロッキー・ジョンソンは小柄とまでは言いませんが、中型くらい。
俊敏で筋肉質、バネのある身体から繰り出す空中殺法・ドロップキックを得意とするタイプ。
このタイプの黒人レスラーの代表でしょう。
1960年代前半から30年近く、全米各地でトップを張って活躍しました。

そして、20世紀末にプロレスラー・俳優として大スターとなった
ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンの実父としても知られます。


とにかく長く輝かしいキャリアを持つジョンソンですが、
実は日本には2回しか来ておらず、しかも芳しい実績を残していません。
Wikipediaには来日回数が少なかったのは多忙だったからというように書かれていますが、
そうとばかりも言えません。

アメリカでの実績に比べて日本で活躍できなかったレスラーの典型例
初期のWiki にはこう書かれていました。
書いたの私です。
今はこの記述はありません。こういう文章はだいたい削除されてしまいます。


◆最初の来日
日本に2回だけ来たロッキー・ジョンソン。
最初の来日は1970年、日本プロレスのNWAタッグリーグ戦。
アーニー・ラッドとのチームで優勝候補の筆頭としてやってきました。

ラッドはヒールのイメージが強く、全米各地で嫌われまくったような印象ありますが、
元々アメリカンフットボールのスタープレーヤーで、この頃はまだ主にベビーフェイスだったと思います。

当時の日本プロレスはジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲の全盛期で、
この黒人コンビは長身のラッドが馬場、若くて俊敏なジョンソンが猪木のイメージとダブり、
大いに期待されたと言われます。

この時はまったく見ていないので伝聞でしか知りませんが、
二人共に今イチの評価で、優勝戦進出も逃すなど、ちょっと残念な結果を残しました。
それでも、まだこの時はよかったのかなとも思います。
次は散々でしたから。


◆二度目の来日
帰国後、全米各地で活躍を続けたジョンソンの再来日はちょうど10年後、
1980年の新日本プロレス 新春黄金シリーズでした。
80年代の幕開け、スタン・ハンセンが大ブレイクしたシリーズでした。
ハンセン以外ではスティーブ・カーン、そしてあのダイナマイト・キッドらジュニア勢が活躍したシリーズでもありました。
そして、バッドニュース・アレンが新日の常連ヒールとしての礎を築いたのもこのシリーズでした。

そしてジョンソンですが、一応ハンセンに次ぐ準エース的な立場でシリーズ開幕を迎え、
最初の1週間ほどは坂口征二、藤波辰巳ら新日のトップクラスとも引き分けの結果が残っています。
しかし、その後はボロボロで連戦連敗。
猪木とのシングルでのテレビマッチも予告されていたのですが、実現しませんでした。
(ノーTVでは序盤に一度戦って10分弱でフォール負けの結果が残っています)

それでも終盤にバッドニュース・アレンと組んで坂口・長州力に挑戦する
北米タッグ戦の予定があったのですが、
その直前のテレビマッチ(録画)のタッグ戦で場外でハンセンのウェスタン・ラリアットの誤爆を受け、
鉄柱に後頭部を痛打し、失神してしまいます。

その後の詳しい経緯はテレビでは説明されませんでしたが、
ジョンソンはそのまま帰国してしまったようで、
北米タッグは外国人側で参加していたマサ斎藤が代打で出場しました。

当時としては、基本的にはアクシデントということになりますが、
それにしても、どうもしっくりこなかったし、
今となれば、当然意図的なマッチメイクでタイトル戦から外されたと考えざるを得ません。

ジョンソンのスケジュールが多忙で帰国せざるを得なかったのではとの見方もありますが、
その前の戦績がとても北米タッグを奪取できるものではなく、
新日側があえて外したように感じられます。

そもそも、その戦績だってすべて新日本によるマッチメイクです。
序盤はまずまずの成績なのに、その後ガクンと落ちたということは、
最初は実績に応じて期待し、それなりの待遇をしたが、
動きが悪いので、評価を下げたということでしょう。
実際、負傷した試合で解説の山本小鉄が、
「10年前に比べて見劣りする」という旨の発言をしていたと思います。


外国人レスラーについて
「日本には合わないタイプ」
「アメリカでは一流扱いでも日本では通用しない」
こういう言い方される場合があります。

アメリカでのジョンソンはどこへ行ってもヘビーフェイスのスター。
ルー・テーズのような正統派テクニシャンタイプを除き、
善玉日本人対悪役外国人という図式が標準スタイルだった時代の日本の昭和プロレスでは、
典型的なベビーフェイスのレスラーは真価を発揮し難い面はありました。

でも、ジョンソンは本当に日本には合わなかったのか?
今はネットで昔のアメリカンプロレスも容易に観ることができます。
ジョンソンの試合もいくつも視聴できますが、躍動感溢れる試合ぶりはなかなか素晴らしい。
特にドロップキックの連打からフィニッシュへの流れは魅力的です。

同様に典型的ベビーフェイスで空中殺法を得意としたミル・マスカラスが
日本でも大人気だったことを思えば、ジョンソンがダメだということもないと思います。
マスカラスはブッチャーのようなヒールとの戦いで人気を伸ばした面もありますが、
ジャンボ鶴田とのヘビーフェイスマッチも名勝負として知られています。

ジョンソンにしても要はマッチメイク、日本側の売り方しだいだったのではないかと思うのです。

本人からすれば、日本での評価が低かったことなど気にもしていないかも知れませんが、
日本のファンとしては、ちょっと残念に感じています。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年8月 3日 (土)

【昭和プロレス】ハーリー・レイス死去/NWA世界ヘビー級王者として君臨

訃報 アメリカの元プロレスラー ハーリー・レイスが亡くなりました。76歳。


H-r
ハーリー・レイス
(Harley Race、1943年4月11日 - 2019年8月1日)

かつてアメリカで、そして世界で最も権威があるとされたプロレス界のタイトル、
NWA(National Wrestling Alliance、全米レスリング同盟)が認定する世界ヘビー級王座に、
1970年後半から80年代初頭まで長く君臨し、その象徴であった大レスラー。

日本では全日本プロレスにおいてジャイアント馬場とNWA王座をめぐっての戦いを繰り広げ、
“ミスタープロレス”などと称されました。

もっとも、NWA世界チャンピオンが本当に権威があるとされたのはもっと昔、
鉄人ルー・テーズがチャンピオンだった時代です。

レイスの時代はその権威も薄れてきて、
またレイスは、汚い手を使ってなんとか王座を守る“ダーティチャンプ”などとも呼ばれました。

当時、日本では馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木率いる新日本プロレスが凌ぎを削っていました。
新日本もNWAに加盟していたのですが、王座への挑戦はかなわず、全日本が独占していました。
馬場は短期間ながらレイスから日本で二度王座を奪取しています。
ただ、いずれもすぐに取り返され、王者として米マットが上がることはありませんでした。

そういう事情なので、全日本としては世界最高峰の王座に挑戦して奪取した
馬場全日本こそ日本最高の団体と宣伝するし、
新日本としては挑戦を受けないNWAにかつての権威はないという言い方をしていました。
(挑戦をまったく諦めたわけではないので、決定的に貶めはしませんでしだが)

ともかくレイスは王者として再三来日し、馬場やジャンボ鶴田、タイガー戸口ら日本陣営のみならず、
アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどの人気外国人レスラーの挑戦も受けました。

馬場よりは5歳年下で、王者になる前はあまり戦ったことはないと思いますが、
王者となってからは“手の合う”関係だったと思います。
そして王座がレイスからリック・フレアーに移ると、馬場の挑戦はなくなりました。


NWA王者としては受身のレスリング中心だったレイスですが、
喧嘩が強く、なかなかの強面だったと思います。
むしろ王座から落ちてからの方がその片鱗がうかがえて、
私は好きだったりもします。


20世紀の大レスラーの一人に、
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年6月11日 (火)

【訃報】 空手家ウィリー・ウィリアムス死去/アントニオ猪木と異種格闘技戦を闘う

空手家のウィリー・ウィリアムス氏が亡くなりました。67歳。
https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190610/spn1906100002-n1.html


ウィリー・ウィリアムス
(Willie Williams、1951年7月14日 - 2019年6月7日)

空手については詳しくないのでウィリーさんのキャリアもよくは知りませんが、
1980年2月 蔵前国技館でアントニオ猪木さんと“プロレス対空手”の異種格闘技戦を行なったことは有名です。

Vs

この試合はなかなかの話題を呼び、テレビ朝日で生放送されました。


新日本プロレスの異種格闘技戦
アントニオ猪木は1976年にボクシングのモハメッド・アリ、
柔道のウィリエム・ルスカというビッグネームと異種格闘技戦を行い、
大きな話題を巻き起こしました。

ところが、アリ戦はビジネスとして失敗して新日本プロレスは莫大な借金を背負い、
そのために猪木や坂口征二は経営から一時外れ、新日本は事実上テレビ朝日の子会社になります。

しかしその後も新日本は格闘技戦を続け興行的にも成功し、経営を立て直しました。
やがてあのWWE(当時はWWWF→WWF)が猪木を格闘技世界ヘビー級王者として認定し、
その防衛戦として行われるようになります。

猪木対ウィリー戦は新日本側からすると、この異種格闘技路線の集大成的位置づけの試合でした。
しかし、だから話題を集めたというわけでもありません。

ウィリー・ウィリアムスは元々極真会館の所属。
当時の極真は梶原一騎氏の筆による力も大きく、
“最強空手”として大いに注目されていました。

その中でも巨体を誇るウィリーは“熊殺し”の異名で知られ、
とてつもなく強い格闘家との認識が広まっていました。
アリと引き分け、ルスカに勝った猪木と熊殺しのウィリー、
いったいどちらか強いのか? さすがの猪木も今回は勝てないのではも、との見方も多く、
高い注目を集めたのです。


この試合にあたり、ウィリーは極真空手を離脱していましたが、
“プロレス対空手”である以上に、“新日本対極真”がクローズアップされ、
殺伐とした、そして過剰にヒートアップした試合となりました。

世間の、特に中高大学生中心でしょうが、注目度もかなり高い試合、一大イベントでした。
私もかなり熱くなってテレビ観戦していた記憶があり、
忘れがたい格闘家の一人です。

謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年3月20日 (水)

【プロレス】3/27発売の『Gスピリッツvol.51』でジョニー・パワーズのインタビュー掲載

3月27日に発売される『Gスピリッツvol.51』の第1特集は
「初期の新日本プロレス 1972-1975」で
アントニオ猪木とジョニー・パワーズのインタビューが掲載されるようです。


Gs-jp


アントニオ猪木は時々『Gスピリッツ』に登場しますが、
注目すべきはジョニー・パワーズです。
日本のプロレスマスコミにインタビューが掲載されるのは
おそらく1990年に猪木の30周年記念イベントで来日して以来かと思います。


ジョニー・パワーズ
(1943年3月20日~)

カナダ出身でアメリカ及びカナダ活躍したプロレスラー・プロモーター。
とにかく色々な意味で伝説的な人です。

特に初期新日本プロレスと猪木との関わりは深い。
猪木のライバル・宿敵として数々の熱闘を繰り広げた栄光から、
散々に戦績を落としたレスラーとしての晩年、
その後もメディアで人格やレスリングセンスを酷評されるなど、
波乱に満ちた足跡を残しました。
それは本国である米国マットでも同じ。

私は全盛期のファイトを詳しく知っているわけではないのですが、
なぜか思い入れがあり、気になるレスラーです。
このブログでもパワーズについて書こうと思っていたのですが、
何から手をつけていいか迷うほど語りどころが多い。

今回はインタビューはテーマが決まっているので、
その興味深いキャリアの全貌を掘り下げるわけにもいかないでしょうが、
初期の新日本プロレスと、猪木や坂口征二とパワーズの関係、
そして彼が運営していたプロレス団体NWFと新日本プロレスの関わりについて
どのように語るのか、大変興味深い。
記事を読んで後、改めてパワーズについて取り上げます。


Old Fashioned Club  月野景史

2019年3月10日 (日)

【プロレス】ザ・デストロイヤー死去/力道山、馬場、猪木と因縁深い日本で最も有名な外国人覆面レスラー

訃報 プロレスラーのザ・デストロイヤーが亡くなりました。88歳。


The_destroyer_2

ザ・デストロイヤー
(The Destroyer、1930年7月11日 - 2019年3月7日)

本名リチャード・ジョン・ベイヤー(Richard John Beyer)通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)
ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。

白覆面の魔王と呼ばれました。
日本でも大変知名度の高い外国人レスラー。
特に覆面レスラーの中では一番有名な人でしょう。


初来日は1963年の日本プロレス
覆面の悪役レスラーとして、最晩年の力道山との死闘はテレビ視聴率64%を記録。
これは現在まで残る日本のテレビ史上、歴代4位の数字です。

力道山亡き後、日本プロレスがジャイアント馬場のエース時代になると、
今度は馬場の強敵として立ちふさがります。
トップレスラーとしては身長は低い方でしょうし、
それほど体格がごついわけでもないですが、
それを感じさせない存在感で、あの長身の馬場と互角に戦い、ライバルの一人となりました。


長期滞在でお茶の間の人気者に
そして1972年にその馬場が全日本プロレスを設立すると、
今度は全日本に入団して日本陣営で馬場のパートナーとなり、
初期の全日本を支えました。
覆面10番勝負、ミル・マスカラスやアブドーラ・ザ・ブッチャーとの戦いが印象的。
日本滞在は1973年3月から1979年6月まで6年以上に及びました。

この時期には試合だけではなく、
日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にも出演、
コミカルな活躍ぶりでタレントとしても人気を博しました。
まぁこの点は堅いプロレスファンからは批判も受けましたが。

アメリカに帰国後も全日本には脇役として度々来日しました。
近年も力道山と馬場絡みで日本のマスコミへの登場機会も多かったです。


アントニオ猪木とも
このように力道山、馬場との関係が深いデストロイヤーですが、
日本マットのもう一人のレジェンド、アントニオ猪木とも因縁があります。

日本の試合で思い浮かぶのは1971年ワールドリーグ戦での
優勝戦進出者決定戦での引き分けくらいですが、
実はそれ以前、1964年から65年にかけての猪木の米国修行時代に、
ロサンゼルス、ワシントン、テキサスと猪木の行く先々に現れ、
数多くの試合を行なった記録が残っています。

考えてみれば体格的にも、また覆面のヒールとはいえ、
そのファイトスタイルはアマチュアレスリングをベースとした俊敏な技巧派であり、
猪木と最も手があったのかも知れません。


必殺 足4の字固め
そして必殺技の足4の字固めは彼の代名詞として定着しました。
それどころか、この技自体が、絞め技・関節技系のプロレス技の代名詞になったのです。

実はこの技の最も代表的な使い手は20世紀米マットのレジェンドたるバディ・ロジャースなのですが、
一度も来日がなかったので、日本ではデストロイヤーの必殺技として定着した面もあります。


ともかく日本と、日本人レスラーと縁の深い昭和プロレスの名レスラー。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月15日 (金)

【プロレス】アブドーラ・ザ・ブッチャー引退 /日本でのブッチャー人気の理由と足跡

2019年2月19日に東京の両国国技館で「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が開催されます。
https://eplus.jp/sf/word/0000127237

昭和の大プロレスラージャイアント馬場が没して20年とは、昭和も遠くなるわけです。

この興行の中で「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」として、
ブッチャーの引退セレモニーがドリー・ファンクJr.、スタン・ハンセンらをゲストに行われるとのこと。
ブッチャーは長く日本で高い人気を誇った外国人レスラーで
馬場とは1970年の日本プロレスへの来日以来深い因縁がありますから、最高の舞台が用意されたと言っていいでしょう。


At
速報 アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニー(2019.02.19)より
https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20190219-OYT1T50215/


ブッチャーは2012年1月に試合に出場する予定で来日しますが、
体調不良で試合はできず、引退宣言しました。
この時に引退セレモニーの話もありましたが、実現しませんでした。

このブログではその際、日本で最も高い人気を誇った外国人レスラーとして、
ブッチャーの主に日本での足跡、人気の理由等をまとめました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019-64a5.html

このページには今まで25,000件を超えるアクセスがありました。

 

今回、引退宣言から7年越しでのセレモニー実現にあたり、
改めて増補改訂版として公開します。


At
アブドーラ・ザ・ブッチャー
(Abdullah the Butcher)
1941年1月11日生まれ。現在78歳。


初来日は1970年ですから、もう49年前。
実は以前は1936年生まれといわれていたこともあったのですが、
近年、本人がIDカードを公開して、41年生まれを実証したようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは日本マット史上最も知名度の高い外国人レスラーだったと思います。
とはいっても、日本で本格的にプロレスが行われるようになってから65年ほど経っています。
誰が一番有名か、人気があったか、比較するのも難しいですが、しかし…。

ザ・デストロイヤー、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
もっと古い時代から知っている方ならフレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
名前が挙げればキリがありませんが、一般的な知名度・認知度ではブッチャーが一番かと思います。

そんな、“スーダンの黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの超入門編。
ブッチャーがいかにして屈指の人気レスラーとなったか、その道程に関わる基礎知識です。


日本プロレスから全日本プロレスへ
ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”が二大エースとして並び立っていた時代です。
当時のブッチャーは無名とはいわないまでも、アメリカでトップレスラーとは言い難く、
さほど期待はされていなかったようですが、いきなりの大暴れを繰り広げ、
馬場の持つ日本プロレスの至宝インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦する活躍をしました。

私は当時の試合は観ていませんが、この扱いは来日前から決まっていたのか、
来日後の試合ぶりにより抜擢されたのか、興味深いところです。

その後、ブッチャーは日本プロレスに二度参加、
1972年12月より馬場が日本プロレスから独立して設立した全日本プロレスの常連となります。
全日本プロレスにはアメリカから時のNWAやWWWFのチャンピオンはじめ一流レスラーが多く来日しましたが、
ブッチャーは彼らに負けることなく、看板レスラー、ドル箱外人の地位を確立していきます。


ブッチャー人気の秘密
ブッチャーは反則三昧の凶悪ヒール、流血の悪役ファイターです。
その意味では人気といってもいわゆるヒール人気、嫌われてなんぼのように思えますが、
実は凶悪レスラーとしての全盛期から、会場にブッチャーコールが巻き起こるベビーフェイス的な人気もありました。

なぜか?
ひとつは、よく見るとどことなく愛嬌のある憎めない風貌。表情と体形。
そしてもうひとつ、ブッチャーは相手を凶器攻撃で血まみれにしますが、
それ以上に自分も血だるまになる、やられ上手なところがありました。
ここがもう1人の昭和を代表する外国人ヒールであるタイガー・ジェット・シンとの違い。
だから、馬場やジャンボ鶴田のような大型日本勢との戦いでは、コールを受けることも多かったのです。

1976年春、ブッチャーはリーグ戦形式で行われるチャンピオンカーニバルの決勝で、
馬場を反則勝ちながら下し、優勝を手にします。
日本プロレスのワールドリーグ戦以来、日本マットでは春にリーグ戦あるいはトーナメントが、
年間屈指のビッグイベントとして開催されるのが伝統でした。

その歴史の中で、早くに日本プロレスから分かれた国際プロレスでは外人が優勝したことがありましたが、
主流ともいうべき日本プロレス、新日本プロレス、そして全日本プロレスでは、外人レスラーの優勝は初めて。
もちろん、これは全日本においてそういうマッチメークがされたということなので、
いかに当時のブッチャーの評価が高かったがかわかります。

その後、1979年のカーニバルでは鶴田をフォールして完全優勝。
他にもPWFヘビー級、UNヘビー級、USヘビー級、インターナショナルタッグと、
全日本プロレスの主要タイトルを片端から獲得していきました。
まさに全日本を支える看板外人してのポジションを確立していきます。


ザ・ファンクスとの死闘
しかし、ブッチャーの真骨頂は馬場や鶴田ら日本勢との対決だけではなく、
他の外国人レスラーとの死闘にありました。
その中でも最も伝説的なのが、やはり凶悪ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークとタッグを組んで闘った、
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのファンク兄弟、ザ・ファンクスとの血の抗争でした。


世界王者兄弟 ザ・ファンクス
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク、共に米マットの頂点であるNWA世界ヘビー級王座に君臨した
超大物兄弟コンビ、テキサスの荒馬チーム。
そのファンクスと、ブッチャー&シークの史上最凶悪コンビが激突したのは、
1977年暮れのオープン・タッグリーグ戦でした。

それから2年後、1979年の第2回世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でのファンクスと試合、
ブッチャーとシークの同士討ちからの壮絶な仲間割れまで、長く語り継がれるこの闘いは続きました。

といっても、この2年間で4人が日本に顔を揃えて争ったのはほんの数週間に過ぎません。
ひとつには、ブッチャー以外の3人はアメリカでプロモーターやブッカーなども行っており、
そうそう長期間、日本滞在できないという事情もありました。
にも関わらず強烈な印象を残した、濃密な抗争でした。

このファンクスとの抗争が代表的ですが、ブッチャーはそれ以外にも、
日本陣営入りしたザ・デストロイヤーをはじめ、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラス、
ワフー・マクダニエル、仲間割れしたザ・シーク、そして外人側として全日本に参加していた大木金太郎と、
次々と抗争を展開して、人気を高めてきたのです。

1979年8月26日に開催された伝説のプロレスオールスター戦では、
新日本プロレスのトップヒール、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと史上最狂悪タッグを結成、
一夜限りの復活を果たした馬場&猪木のBI砲と闘いました。


高まるブッチャー人気
血まみれのリングの一方で人気は高まり、一般メディアに取り上げられることも増えていきます。
1979年、講談社『週刊少年マガジン』にブッチャーを模したキャラクター「ボッチャー」が活躍する
ギャグ漫画『愛しのボッチャー』(河口仁氏作)が連載開始、ブッチャー人気に拍車をかけます。

翌1980年にはサントリーの清涼飲料水「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演。
このCMにはかなり力が入っていたようで、結構な話題になりました。

*CMの映像です。春編と夏編。後はもう少し後にやった別のCMです



ただ、このCMiにはちょっと笑えないオチがついてしまいました。
このCMは続き物で、春編、夏編、秋(冬?)編が放映予定だった筈なのですが、
夏編のオンエア中に共演したモデルが大麻所持で逮捕され打ち切り、秋(冬?)編はお蔵入りとなってしまいました。
スチールで見た秋(冬?)編のブッチャーは白のタキシード姿だったかと思います。残念でした。



新日本プロレスへ

1981年春、日本マットに衝撃が走ります。
ブッチャーが電撃的に新日本プロレスへ移籍するのです。
これを契機に新日本と全日本はレスラーの引き抜き合戦を開始、プロレス界は混乱に陥ります。

さて、ブッチャーにとってこの移籍は失敗だったとの見方が一般的です。
もちろん私もそう思います。全日本であれほど輝いていたブッチャーは新日本で急激に色褪せていきます。

この件の評価は難しいところです。
ブッチャーは移籍時40歳、年々肥大化して動きは鈍くなっていました。
スピードに上回る新日本への、あの時点での移籍は無謀だった面もあります。

しかし、新日本の使い方もおかしかった。
上に散々書いたように、全日本でのブッチャーはシングル・タッグのリーグ戦にはほぼフル参加で、
次々と新しい抗争相手と出会い、人気を高めてきました。
しかし、新日本に登場していた4年間、遂に一度もリーグ戦に参加することはありませんでした。
そもそも、新日本が提唱したIWGPへの参戦が移籍理由だったのに、これにまったく絡ませなかったのです。
この件については色々な事情も語られていますが、これではブッチャーが生きません。
他にもおかしな扱い、マッチメークはありましたが。


再び全日本へ
1987年暮れ、ブッチャーは因縁深い世界最強タッグに参加、全日本プロレスへの復帰を果たします。
新日本への移籍から6年半、そしてその新日本への最後の登場から2年近くが経ち、
ブッチャーも既に46歳、さてどこまでやるかと思ったのですが、見事に復活を果たします。

翌1988年に行われたブルーザー・ブロディの追悼興行ではスタン・ハンセンとメインを闘いました。
オールスター戦以来のタイガー・ジェット・シンとのタッグも実現。
1990年に行われた馬場の30周年記念試合では遂に馬場とタッグを結成、
アンドレ・ザジャイアント&スタン・ハンセン組と闘います。仲間割れしてしまいますが。
その後は馬場と共にメインからは退き、ややコミカルな試合で中盤を沸かせました。

1996年には再び全日本を離れますが、馬場没後の2001年に復帰、
21世紀になっても時々日本に顔を見せていました。

そして2012年1月、ブッチャーは全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに出場すべく来日しましたが、
コンディションの不良により欠場を決定、
1月2日の後楽園ホール大会ではセコンドのような形で試合に参加し、
その後に近々の引退を宣言しました。

前述のようにこの際に引退セレモニーが行われるとの話もありましたが、実現しませんでした。
そして今回、7年越しのセレモニー開催となったのです。

ただ、7年前の時点でも歩行にだいぶ苦労しているようだったし、
本当に来れるのかという心配も多少はしています。
無事に行われますように。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月14日 (木)

【プロレス】ペドロ・モラレス死去/MSGの帝王として君臨したラテンの魔豹 20世紀後半の名レスラー

訃報  プロレスラーのペドロ・モラレスが2月12日に亡くなりました。76歳没。

プエルトリコ出身、少年期にアメリカに渡り、1960年代から70年代、80年代半ばまで
ベビーフェイス(善役)のトップスターとして長く活躍した名レスラー。



Pedro_morales
ペドロ・モラレス
(Pedro Morales、1942年10月22日 - 2019年2月12日)
通称 ラテンの魔豹


70年代前半には2年10ヵ月にわたりWWWF世界ヘビー級チャンピオンに君臨しました。
WWWFとは後のWWF、現在のWWEのこと。
(モラレスが王者の時代にNWAに加盟して、一旦「世界」を外しています)

WWFのチャンピオンといえばニューヨーク、マディソンスクエアガーデン(MSG)の帝王。
昭和の時代、WWF王者として長期政権を築いたのはブルーノ・サンマルチノとこのモラレス、
ボブ・バックランドとあのハルク・ホーガンの4人です。
米マットを象徴する大スターだった人です。

そのファイトスタイルはスピーディーで軽やかでありながら、パワフルでダイナミック。
躍動感溢れるファイターで、私も大変好きなレスラーでした。
そして褐色の二枚目といった美貌で女性人気も高かった。

日本でも実績を残しましたが、日本で思われている以上にアメリカでは大物かと思います。
ドロップキックの名手で、ジャイアント馬場に32文ロケットを伝授したとして知られます。
ネットニュースでもそのことが書かれていますね。
諸説あるようですが。

後年はウェイトも増してパワフルなイメージを強め、
ハイアングルから叩きつけるビル・ロビンソンと同スタイルの(ワンハンド)バックブリーカー、
またブレーンバスターなどの大技も迫力満点でした。


若くしてMSGの帝王に
元々WWWFの前身団体で1958年というから16歳の年にデビュー。
若くして頭角を現して後、60年代半ばに西海岸のロサンゼルスのWWAに転戦。
ここでまずWWA世界ヘビー級王者となります。
この地区は日本とも縁が深く、1967年に日本プロレスに初来日。

そして東海岸に戻ると、1971年2月にMSGでイワン・コロフを倒しWWWF王者となりました。
この時28歳。コロフは短命の繋ぎ役で、実質的にはサンマルチノとの王座交代でした。

王者時代の1972年9月には元王者のサンマルチノを挑戦者に迎え、
ニューヨークのシェイスタジアムで珍しいヘビーフェイス同士のタイトルマッチが実現
75分の熱闘の末引き分け。この試合は70年代最高の名勝負ともいわれます。

1973年12月にスタン・スタージャックに敗れ王座転落。
このスタージャックも繋ぎ役で、WWWFは再びサンマルチノの時代となります。

モラレスはNYを離れ西海岸のサンフランシスコや、フロリダなどの南部など各地を転戦し、
どこにいってもベビーフェイスのトップスターとして活躍します。
ただ、とにかく若くして頂点に立ってしまったので、そこから落ちてちょっと寂しい境遇・・・
というような印象で日本のプロレスマスコミやファンの間では語られる面もありました。


全日本プロレスから新日本プロレスへ
WWWF王者転落からまもない1974年には僚友である馬場の全日本プロレスに初登場。
圧倒的な戦績を残しますが、馬場のPWFヘビー級王座挑戦では3本勝負で2フォール取られての完敗でした。
2本とも一瞬の返し技ではなく、完璧なピンフォール負け。
ここまで完全な馬場の勝ちだと次に繋がり難くなり、モラレスへのマッチメイクとしては勿体無く感じますが、
この翌々年の76年にはWWWFとの関係を強めていた新日本プロレスに登場します。
ちょっとひねくれた見方ですが、新日移籍を見越してのマッチメイクであったような気すらします。

新日本ではまず第3回ワールドリーグ戦に参加。
ここでもトップで優勝戦に進みますが、アリ戦を控えたアントニオ猪木が出場を辞退したため、
同点2位から勝ち上がった坂口征二と決勝戦を戦い、リングアウト負けしてしまいます。
これもなんとなく不遇なマッチメイクといえなくもない。

その後は78年と79年に新日本に2年連続で参加して猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
78年の猪木との試合は唯一テレビ放送のなかったNWF戦なのですが、
猪木が一方的かつ徹底的に追い詰められた試合としてファンの間では伝説的です。
放送がなかったからこそ伝説になったともいえますが、やはり強さを発揮した試合の放送がなかったとは不遇。

そして、78年も79年もシリーズ終盤に現役WWF王者のボブ・バックランドが特別参加し、
東京の大会場でのメインは猪木対ボブ戦に奪われており、ここもちょっと不遇感があります。


1980年にWWF復帰
猪木や藤波も出場した8月のシェイスタジアムではバックランドとの新旧王者コンビを結成し、
ザ・サモアンズにストレート勝ちしてWWEタッグ王を獲得すると
12月にはインターコンチネンタルヘビー級王座を獲得。
途中に一時転落もありましたが、83年1月まで保持し、再びWWFのトッブスターに君臨しました。
この時期が最後の全盛期と言えるのでしょうが、新日とWWFの蜜月時代だったにも関わらず
なぜか来日がありませんでした。

その後は故郷のプエルトリコでも戦い、1985年には新日への最後の登場が実現しますが、
当時の新日はモラレスを売る気はなく、寂しい内容でした。

アメリカでは1985年からのビンス・マクマホン・ジュニアによる新体制WWFの全米サーキットにも参加し
最後の一花を咲かすと、87年に引退。95年には早いタイミングWWF殿堂入りしています。


こうして振り返るとアメリカでのキャリアは本当に輝かしい限りで、30年近くトップスターとして活躍しました。
特にWWFにとっては、最初期に初代王者のバディ・ロジャースに20歳で挑戦し、全盛期には王者に君臨
80年代にもIC王座を長く保持し、晩年にも現役でビンス・ジュニアの全米侵攻にも参加するなど、象徴的な存在でした。

日本でも明石家さんまさんが昔からモラレスファンを広言するなど、よく知られたレスラーでしたが、
米国での実績からすれば、今いちの扱いだったと改めて感じます。

昭和の伝説の大レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

より以前の記事一覧

フォト
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ