35.昭和プロレス

2019年8月 3日 (土)

【昭和プロレス】ハーリー・レイス死去/NWA世界ヘビー級王者として君臨

訃報 アメリカの元プロレスラー ハーリー・レイスが亡くなりました。76歳。


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ハーリー・レイス
(Harley Race、1943年4月11日 - 2019年8月1日)

かつてアメリカで、そして世界で最も権威があるとされたプロレス界のタイトル、
NWA(National Wrestling Alliance、全米レスリング同盟)が認定する世界ヘビー級王座に、
1970年後半から80年代初頭まで長く君臨し、その象徴であった大レスラー。

日本では全日本プロレスにおいてジャイアント馬場とNWA王座をめぐっての戦いを繰り広げ、
“ミスタープロレス”などと称されました。

もっとも、NWA世界チャンピオンが本当に権威があるとされたのはもっと昔、
鉄人ルー・テーズがチャンピオンだった時代です。

レイスの時代はその権威も薄れてきて、
またレイスは、汚い手を使ってなんとか王座を守る“ダーティチャンプ”などとも呼ばれました。

当時、日本では馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木率いる新日本プロレスが凌ぎを削っていました。
新日本もNWAに加盟していたのですが、王座への挑戦はかなわず、全日本が独占していました。
馬場は短期間ながらレイスから日本で二度王座を奪取しています。
ただ、いずれもすぐに取り返され、王者として米マットが上がることはありませんでした。

そういう事情なので、全日本としては世界最高峰の王座に挑戦して奪取した
馬場全日本こそ日本最高の団体と宣伝するし、
新日本としては挑戦を受けないNWAにかつての権威はないという言い方をしていました。
(挑戦をまったく諦めたわけではないので、決定的に貶めはしませんでしだが)

ともかくレイスは王者として再三来日し、馬場やジャンボ鶴田、タイガー戸口ら日本陣営のみならず、
アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどの人気外国人レスラーの挑戦も受けました。

馬場よりは5歳年下で、王者になる前はあまり戦ったことはないと思いますが、
王者となってからは“手の合う”関係だったと思います。
そして王座がレイスからリック・フレアーに移ると、馬場の挑戦はなくなりました。


NWA王者としては受身のレスリング中心だったレイスですが、
喧嘩が強く、なかなかの強面だったと思います。
むしろ王座から落ちてからの方がその片鱗がうかがえて、
私は好きだったりもします。


20世紀の大レスラーの一人に、
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年6月11日 (火)

【訃報】 空手家ウィリー・ウィリアムス死去/アントニオ猪木と異種格闘技戦を闘う

空手家のウィリー・ウィリアムス氏が亡くなりました。67歳。
https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190610/spn1906100002-n1.html


ウィリー・ウィリアムス
(Willie Williams、1951年7月14日 - 2019年6月7日)

空手については詳しくないのでウィリーさんのキャリアもよくは知りませんが、
1980年2月 蔵前国技館でアントニオ猪木さんと“プロレス対空手”の異種格闘技戦を行なったことは有名です。

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この試合はなかなかの話題を呼び、テレビ朝日で生放送されました。


新日本プロレスの異種格闘技戦
アントニオ猪木は1976年にボクシングのモハメッド・アリ、
柔道のウィリエム・ルスカというビッグネームと異種格闘技戦を行い、
大きな話題を巻き起こしました。

ところが、アリ戦はビジネスとして失敗して新日本プロレスは莫大な借金を背負い、
そのために猪木や坂口征二は経営から一時外れ、新日本は事実上テレビ朝日の子会社になります。

しかしその後も新日本は格闘技戦を続け興行的にも成功し、経営を立て直しました。
やがてあのWWE(当時はWWWF→WWF)が猪木を格闘技世界ヘビー級王者として認定し、
その防衛戦として行われるようになります。

猪木対ウィリー戦は新日本側からすると、この異種格闘技路線の集大成的位置づけの試合でした。
しかし、だから話題を集めたというわけでもありません。

ウィリー・ウィリアムスは元々極真会館の所属。
当時の極真は梶原一騎氏の筆による力も大きく、
“最強空手”として大いに注目されていました。

その中でも巨体を誇るウィリーは“熊殺し”の異名で知られ、
とてつもなく強い格闘家との認識が広まっていました。
アリと引き分け、ルスカに勝った猪木と熊殺しのウィリー、
いったいどちらか強いのか? さすがの猪木も今回は勝てないのではも、との見方も多く、
高い注目を集めたのです。


この試合にあたり、ウィリーは極真空手を離脱していましたが、
“プロレス対空手”である以上に、“新日本対極真”がクローズアップされ、
殺伐とした、そして過剰にヒートアップした試合となりました。

世間の、特に中高大学生中心でしょうが、注目度もかなり高い試合、一大イベントでした。
私もかなり熱くなってテレビ観戦していた記憶があり、
忘れがたい格闘家の一人です。

謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年3月20日 (水)

【プロレス】3/27発売の『Gスピリッツvol.51』でジョニー・パワーズのインタビュー掲載

3月27日に発売される『Gスピリッツvol.51』の第1特集は
「初期の新日本プロレス 1972-1975」で
アントニオ猪木とジョニー・パワーズのインタビューが掲載されるようです。


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アントニオ猪木は時々『Gスピリッツ』に登場しますが、
注目すべきはジョニー・パワーズです。
日本のプロレスマスコミにインタビューが掲載されるのは
おそらく1990年に猪木の30周年記念イベントで来日して以来かと思います。


ジョニー・パワーズ
(1943年3月20日~)

カナダ出身でアメリカ及びカナダ活躍したプロレスラー・プロモーター。
とにかく色々な意味で伝説的な人です。

特に初期新日本プロレスと猪木との関わりは深い。
猪木のライバル・宿敵として数々の熱闘を繰り広げた栄光から、
散々に戦績を落としたレスラーとしての晩年、
その後もメディアで人格やレスリングセンスを酷評されるなど、
波乱に満ちた足跡を残しました。
それは本国である米国マットでも同じ。

私は全盛期のファイトを詳しく知っているわけではないのですが、
なぜか思い入れがあり、気になるレスラーです。
このブログでもパワーズについて書こうと思っていたのですが、
何から手をつけていいか迷うほど語りどころが多い。

今回はインタビューはテーマが決まっているので、
その興味深いキャリアの全貌を掘り下げるわけにもいかないでしょうが、
初期の新日本プロレスと、猪木や坂口征二とパワーズの関係、
そして彼が運営していたプロレス団体NWFと新日本プロレスの関わりについて
どのように語るのか、大変興味深い。
記事を読んで後、改めてパワーズについて取り上げます。


Old Fashioned Club  月野景史

2019年3月10日 (日)

【プロレス】ザ・デストロイヤー死去/力道山、馬場、猪木と因縁深い日本で最も有名な外国人覆面レスラー

訃報 プロレスラーのザ・デストロイヤーが亡くなりました。88歳。


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ザ・デストロイヤー
(The Destroyer、1930年7月11日 - 2019年3月7日)

本名リチャード・ジョン・ベイヤー(Richard John Beyer)通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)
ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。

白覆面の魔王と呼ばれました。
日本でも大変知名度の高い外国人レスラー。
特に覆面レスラーの中では一番有名な人でしょう。


初来日は1963年の日本プロレス
覆面の悪役レスラーとして、最晩年の力道山との死闘はテレビ視聴率64%を記録。
これは現在まで残る日本のテレビ史上、歴代4位の数字です。

力道山亡き後、日本プロレスがジャイアント馬場のエース時代になると、
今度は馬場の強敵として立ちふさがります。
トップレスラーとしては身長は低い方でしょうし、
それほど体格がごついわけでもないですが、
それを感じさせない存在感で、あの長身の馬場と互角に戦い、ライバルの一人となりました。


長期滞在でお茶の間の人気者に
そして1972年にその馬場が全日本プロレスを設立すると、
今度は全日本に入団して日本陣営で馬場のパートナーとなり、
初期の全日本を支えました。
覆面10番勝負、ミル・マスカラスやアブドーラ・ザ・ブッチャーとの戦いが印象的。
日本滞在は1973年3月から1979年6月まで6年以上に及びました。

この時期には試合だけではなく、
日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にも出演、
コミカルな活躍ぶりでタレントとしても人気を博しました。
まぁこの点は堅いプロレスファンからは批判も受けましたが。

アメリカに帰国後も全日本には脇役として度々来日しました。
近年も力道山と馬場絡みで日本のマスコミへの登場機会も多かったです。


アントニオ猪木とも
このように力道山、馬場との関係が深いデストロイヤーですが、
日本マットのもう一人のレジェンド、アントニオ猪木とも因縁があります。

日本の試合で思い浮かぶのは1971年ワールドリーグ戦での
優勝戦進出者決定戦での引き分けくらいですが、
実はそれ以前、1964年から65年にかけての猪木の米国修行時代に、
ロサンゼルス、ワシントン、テキサスと猪木の行く先々に現れ、
数多くの試合を行なった記録が残っています。

考えてみれば体格的にも、また覆面のヒールとはいえ、
そのファイトスタイルはアマチュアレスリングをベースとした俊敏な技巧派であり、
猪木と最も手があったのかも知れません。


必殺 足4の字固め
そして必殺技の足4の字固めは彼の代名詞として定着しました。
それどころか、この技自体が、絞め技・関節技系のプロレス技の代名詞になったのです。

実はこの技の最も代表的な使い手は20世紀米マットのレジェンドたるバディ・ロジャースなのですが、
一度も来日がなかったので、日本ではデストロイヤーの必殺技として定着した面もあります。


ともかく日本と、日本人レスラーと縁の深い昭和プロレスの名レスラー。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月15日 (金)

【プロレス】アブドーラ・ザ・ブッチャー引退 /日本でのブッチャー人気の理由と足跡

2019年2月19日に東京の両国国技館で「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が開催されます。
https://eplus.jp/sf/word/0000127237

昭和の大プロレスラージャイアント馬場が没して20年とは、昭和も遠くなるわけです。

この興行の中で「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」として、
ブッチャーの引退セレモニーがドリー・ファンクJr.、スタン・ハンセンらをゲストに行われるとのこと。
ブッチャーは長く日本で高い人気を誇った外国人レスラーで
馬場とは1970年の日本プロレスへの来日以来深い因縁がありますから、最高の舞台が用意されたと言っていいでしょう。


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速報 アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニー(2019.02.19)より
https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20190219-OYT1T50215/


ブッチャーは2012年1月に試合に出場する予定で来日しますが、
体調不良で試合はできず、引退宣言しました。
この時に引退セレモニーの話もありましたが、実現しませんでした。

このブログではその際、日本で最も高い人気を誇った外国人レスラーとして、
ブッチャーの主に日本での足跡、人気の理由等をまとめました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019-64a5.html

このページには今まで25,000件を超えるアクセスがありました。

 

今回、引退宣言から7年越しでのセレモニー実現にあたり、
改めて増補改訂版として公開します。


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アブドーラ・ザ・ブッチャー
(Abdullah the Butcher)
1941年1月11日生まれ。現在78歳。


初来日は1970年ですから、もう49年前。
実は以前は1936年生まれといわれていたこともあったのですが、
近年、本人がIDカードを公開して、41年生まれを実証したようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは日本マット史上最も知名度の高い外国人レスラーだったと思います。
とはいっても、日本で本格的にプロレスが行われるようになってから65年ほど経っています。
誰が一番有名か、人気があったか、比較するのも難しいですが、しかし…。

ザ・デストロイヤー、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
もっと古い時代から知っている方ならフレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
名前が挙げればキリがありませんが、一般的な知名度・認知度ではブッチャーが一番かと思います。

そんな、“スーダンの黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの超入門編。
ブッチャーがいかにして屈指の人気レスラーとなったか、その道程に関わる基礎知識です。


日本プロレスから全日本プロレスへ
ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”が二大エースとして並び立っていた時代です。
当時のブッチャーは無名とはいわないまでも、アメリカでトップレスラーとは言い難く、
さほど期待はされていなかったようですが、いきなりの大暴れを繰り広げ、
馬場の持つ日本プロレスの至宝インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦する活躍をしました。

私は当時の試合は観ていませんが、この扱いは来日前から決まっていたのか、
来日後の試合ぶりにより抜擢されたのか、興味深いところです。

その後、ブッチャーは日本プロレスに二度参加、
1972年12月より馬場が日本プロレスから独立して設立した全日本プロレスの常連となります。
全日本プロレスにはアメリカから時のNWAやWWWFのチャンピオンはじめ一流レスラーが多く来日しましたが、
ブッチャーは彼らに負けることなく、看板レスラー、ドル箱外人の地位を確立していきます。


ブッチャー人気の秘密
ブッチャーは反則三昧の凶悪ヒール、流血の悪役ファイターです。
その意味では人気といってもいわゆるヒール人気、嫌われてなんぼのように思えますが、
実は凶悪レスラーとしての全盛期から、会場にブッチャーコールが巻き起こるベビーフェイス的な人気もありました。

なぜか?
ひとつは、よく見るとどことなく愛嬌のある憎めない風貌。表情と体形。
そしてもうひとつ、ブッチャーは相手を凶器攻撃で血まみれにしますが、
それ以上に自分も血だるまになる、やられ上手なところがありました。
ここがもう1人の昭和を代表する外国人ヒールであるタイガー・ジェット・シンとの違い。
だから、馬場やジャンボ鶴田のような大型日本勢との戦いでは、コールを受けることも多かったのです。

1976年春、ブッチャーはリーグ戦形式で行われるチャンピオンカーニバルの決勝で、
馬場を反則勝ちながら下し、優勝を手にします。
日本プロレスのワールドリーグ戦以来、日本マットでは春にリーグ戦あるいはトーナメントが、
年間屈指のビッグイベントとして開催されるのが伝統でした。

その歴史の中で、早くに日本プロレスから分かれた国際プロレスでは外人が優勝したことがありましたが、
主流ともいうべき日本プロレス、新日本プロレス、そして全日本プロレスでは、外人レスラーの優勝は初めて。
もちろん、これは全日本においてそういうマッチメークがされたということなので、
いかに当時のブッチャーの評価が高かったがかわかります。

その後、1979年のカーニバルでは鶴田をフォールして完全優勝。
他にもPWFヘビー級、UNヘビー級、USヘビー級、インターナショナルタッグと、
全日本プロレスの主要タイトルを片端から獲得していきました。
まさに全日本を支える看板外人してのポジションを確立していきます。


ザ・ファンクスとの死闘
しかし、ブッチャーの真骨頂は馬場や鶴田ら日本勢との対決だけではなく、
他の外国人レスラーとの死闘にありました。
その中でも最も伝説的なのが、やはり凶悪ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークとタッグを組んで闘った、
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのファンク兄弟、ザ・ファンクスとの血の抗争でした。


世界王者兄弟 ザ・ファンクス
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク、共に米マットの頂点であるNWA世界ヘビー級王座に君臨した
超大物兄弟コンビ、テキサスの荒馬チーム。
そのファンクスと、ブッチャー&シークの史上最凶悪コンビが激突したのは、
1977年暮れのオープン・タッグリーグ戦でした。

それから2年後、1979年の第2回世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でのファンクスと試合、
ブッチャーとシークの同士討ちからの壮絶な仲間割れまで、長く語り継がれるこの闘いは続きました。

といっても、この2年間で4人が日本に顔を揃えて争ったのはほんの数週間に過ぎません。
ひとつには、ブッチャー以外の3人はアメリカでプロモーターやブッカーなども行っており、
そうそう長期間、日本滞在できないという事情もありました。
にも関わらず強烈な印象を残した、濃密な抗争でした。

このファンクスとの抗争が代表的ですが、ブッチャーはそれ以外にも、
日本陣営入りしたザ・デストロイヤーをはじめ、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラス、
ワフー・マクダニエル、仲間割れしたザ・シーク、そして外人側として全日本に参加していた大木金太郎と、
次々と抗争を展開して、人気を高めてきたのです。

1979年8月26日に開催された伝説のプロレスオールスター戦では、
新日本プロレスのトップヒール、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと史上最狂悪タッグを結成、
一夜限りの復活を果たした馬場&猪木のBI砲と闘いました。


高まるブッチャー人気
血まみれのリングの一方で人気は高まり、一般メディアに取り上げられることも増えていきます。
1979年、講談社『週刊少年マガジン』にブッチャーを模したキャラクター「ボッチャー」が活躍する
ギャグ漫画『愛しのボッチャー』(河口仁氏作)が連載開始、ブッチャー人気に拍車をかけます。

翌1980年にはサントリーの清涼飲料水「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演。
このCMにはかなり力が入っていたようで、結構な話題になりました。

*CMの映像です。春編と夏編。後はもう少し後にやった別のCMです



ただ、このCMiにはちょっと笑えないオチがついてしまいました。
このCMは続き物で、春編、夏編、秋(冬?)編が放映予定だった筈なのですが、
夏編のオンエア中に共演したモデルが大麻所持で逮捕され打ち切り、秋(冬?)編はお蔵入りとなってしまいました。
スチールで見た秋(冬?)編のブッチャーは白のタキシード姿だったかと思います。残念でした。



新日本プロレスへ

1981年春、日本マットに衝撃が走ります。
ブッチャーが電撃的に新日本プロレスへ移籍するのです。
これを契機に新日本と全日本はレスラーの引き抜き合戦を開始、プロレス界は混乱に陥ります。

さて、ブッチャーにとってこの移籍は失敗だったとの見方が一般的です。
もちろん私もそう思います。全日本であれほど輝いていたブッチャーは新日本で急激に色褪せていきます。

この件の評価は難しいところです。
ブッチャーは移籍時40歳、年々肥大化して動きは鈍くなっていました。
スピードに上回る新日本への、あの時点での移籍は無謀だった面もあります。

しかし、新日本の使い方もおかしかった。
上に散々書いたように、全日本でのブッチャーはシングル・タッグのリーグ戦にはほぼフル参加で、
次々と新しい抗争相手と出会い、人気を高めてきました。
しかし、新日本に登場していた4年間、遂に一度もリーグ戦に参加することはありませんでした。
そもそも、新日本が提唱したIWGPへの参戦が移籍理由だったのに、これにまったく絡ませなかったのです。
この件については色々な事情も語られていますが、これではブッチャーが生きません。
他にもおかしな扱い、マッチメークはありましたが。


再び全日本へ
1987年暮れ、ブッチャーは因縁深い世界最強タッグに参加、全日本プロレスへの復帰を果たします。
新日本への移籍から6年半、そしてその新日本への最後の登場から2年近くが経ち、
ブッチャーも既に46歳、さてどこまでやるかと思ったのですが、見事に復活を果たします。

翌1988年に行われたブルーザー・ブロディの追悼興行ではスタン・ハンセンとメインを闘いました。
オールスター戦以来のタイガー・ジェット・シンとのタッグも実現。
1990年に行われた馬場の30周年記念試合では遂に馬場とタッグを結成、
アンドレ・ザジャイアント&スタン・ハンセン組と闘います。仲間割れしてしまいますが。
その後は馬場と共にメインからは退き、ややコミカルな試合で中盤を沸かせました。

1996年には再び全日本を離れますが、馬場没後の2001年に復帰、
21世紀になっても時々日本に顔を見せていました。

そして2012年1月、ブッチャーは全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに出場すべく来日しましたが、
コンディションの不良により欠場を決定、
1月2日の後楽園ホール大会ではセコンドのような形で試合に参加し、
その後に近々の引退を宣言しました。

前述のようにこの際に引退セレモニーが行われるとの話もありましたが、実現しませんでした。
そして今回、7年越しのセレモニー開催となったのです。

ただ、7年前の時点でも歩行にだいぶ苦労しているようだったし、
本当に来れるのかという心配も多少はしています。
無事に行われますように。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月14日 (木)

【プロレス】ペドロ・モラレス死去/MSGの帝王として君臨したラテンの魔豹 20世紀後半の名レスラー

訃報  プロレスラーのペドロ・モラレスが2月12日に亡くなりました。76歳没。

プエルトリコ出身、少年期にアメリカに渡り、1960年代から70年代、80年代半ばまで
ベビーフェイス(善役)のトップスターとして長く活躍した名レスラー。



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ペドロ・モラレス
(Pedro Morales、1942年10月22日 - 2019年2月12日)
通称 ラテンの魔豹


70年代前半には2年10ヵ月にわたりWWWF世界ヘビー級チャンピオンに君臨しました。
WWWFとは後のWWF、現在のWWEのこと。
(モラレスが王者の時代にNWAに加盟して、一旦「世界」を外しています)

WWFのチャンピオンといえばニューヨーク、マディソンスクエアガーデン(MSG)の帝王。
昭和の時代、WWF王者として長期政権を築いたのはブルーノ・サンマルチノとこのモラレス、
ボブ・バックランドとあのハルク・ホーガンの4人です。
米マットを象徴する大スターだった人です。

そのファイトスタイルはスピーディーで軽やかでありながら、パワフルでダイナミック。
躍動感溢れるファイターで、私も大変好きなレスラーでした。
そして褐色の二枚目といった美貌で女性人気も高かった。

日本でも実績を残しましたが、日本で思われている以上にアメリカでは大物かと思います。
ドロップキックの名手で、ジャイアント馬場に32文ロケットを伝授したとして知られます。
ネットニュースでもそのことが書かれていますね。
諸説あるようですが。

後年はウェイトも増してパワフルなイメージを強め、
ハイアングルから叩きつけるビル・ロビンソンと同スタイルの(ワンハンド)バックブリーカー、
またブレーンバスターなどの大技も迫力満点でした。


若くしてMSGの帝王に
元々WWWFの前身団体で1958年というから16歳の年にデビュー。
若くして頭角を現して後、60年代半ばに西海岸のロサンゼルスのWWAに転戦。
ここでまずWWA世界ヘビー級王者となります。
この地区は日本とも縁が深く、1967年に日本プロレスに初来日。

そして東海岸に戻ると、1971年2月にMSGでイワン・コロフを倒しWWWF王者となりました。
この時28歳。コロフは短命の繋ぎ役で、実質的にはサンマルチノとの王座交代でした。

王者時代の1972年9月には元王者のサンマルチノを挑戦者に迎え、
ニューヨークのシェイスタジアムで珍しいヘビーフェイス同士のタイトルマッチが実現
75分の熱闘の末引き分け。この試合は70年代最高の名勝負ともいわれます。

1973年12月にスタン・スタージャックに敗れ王座転落。
このスタージャックも繋ぎ役で、WWWFは再びサンマルチノの時代となります。

モラレスはNYを離れ西海岸のサンフランシスコや、フロリダなどの南部など各地を転戦し、
どこにいってもベビーフェイスのトップスターとして活躍します。
ただ、とにかく若くして頂点に立ってしまったので、そこから落ちてちょっと寂しい境遇・・・
というような印象で日本のプロレスマスコミやファンの間では語られる面もありました。


全日本プロレスから新日本プロレスへ
WWWF王者転落からまもない1974年には僚友である馬場の全日本プロレスに初登場。
圧倒的な戦績を残しますが、馬場のPWFヘビー級王座挑戦では3本勝負で2フォール取られての完敗でした。
2本とも一瞬の返し技ではなく、完璧なピンフォール負け。
ここまで完全な馬場の勝ちだと次に繋がり難くなり、モラレスへのマッチメイクとしては勿体無く感じますが、
この翌々年の76年にはWWWFとの関係を強めていた新日本プロレスに登場します。
ちょっとひねくれた見方ですが、新日移籍を見越してのマッチメイクであったような気すらします。

新日本ではまず第3回ワールドリーグ戦に参加。
ここでもトップで優勝戦に進みますが、アリ戦を控えたアントニオ猪木が出場を辞退したため、
同点2位から勝ち上がった坂口征二と決勝戦を戦い、リングアウト負けしてしまいます。
これもなんとなく不遇なマッチメイクといえなくもない。

その後は78年と79年に新日本に2年連続で参加して猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
78年の猪木との試合は唯一テレビ放送のなかったNWF戦なのですが、
猪木が一方的かつ徹底的に追い詰められた試合としてファンの間では伝説的です。
放送がなかったからこそ伝説になったともいえますが、やはり強さを発揮した試合の放送がなかったとは不遇。

そして、78年も79年もシリーズ終盤に現役WWF王者のボブ・バックランドが特別参加し、
東京の大会場でのメインは猪木対ボブ戦に奪われており、ここもちょっと不遇感があります。


1980年にWWF復帰
猪木や藤波も出場した8月のシェイスタジアムではバックランドとの新旧王者コンビを結成し、
ザ・サモアンズにストレート勝ちしてWWEタッグ王を獲得すると
12月にはインターコンチネンタルヘビー級王座を獲得。
途中に一時転落もありましたが、83年1月まで保持し、再びWWFのトッブスターに君臨しました。
この時期が最後の全盛期と言えるのでしょうが、新日とWWFの蜜月時代だったにも関わらず
なぜか来日がありませんでした。

その後は故郷のプエルトリコでも戦い、1985年には新日への最後の登場が実現しますが、
当時の新日はモラレスを売る気はなく、寂しい内容でした。

アメリカでは1985年からのビンス・マクマホン・ジュニアによる新体制WWFの全米サーキットにも参加し
最後の一花を咲かすと、87年に引退。95年には早いタイミングWWF殿堂入りしています。


こうして振り返るとアメリカでのキャリアは本当に輝かしい限りで、30年近くトップスターとして活躍しました。
特にWWFにとっては、最初期に初代王者のバディ・ロジャースに20歳で挑戦し、全盛期には王者に君臨
80年代にもIC王座を長く保持し、晩年にも現役でビンス・ジュニアの全米侵攻にも参加するなど、象徴的な存在でした。

日本でも明石家さんまさんが昔からモラレスファンを広言するなど、よく知られたレスラーでしたが、
米国での実績からすれば、今いちの扱いだったと改めて感じます。

昭和の伝説の大レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年12月 7日 (金)

【昭和プロレス】ダイナマイト・キッド死去/39年前、国際プロレスへの初来日の鮮烈

39年前の1979年(昭和54年)7月。
国際プロレスのビッグサマーシリーズ終盤戦。
20世紀・・・いや、プロレス史上屈指の巨漢の二大レスラー
アンドレ・ザ・ジャイアントとヘイスタック・カルホーンが同時に特別参加を果たした。

時を同じくして、無名の、若くて小さくて細くて、
しかしとびきり俊敏でカミソリのように切れがよく、
パワフルでアグレッシブなファイターがやってきた。
その若者、当時まだ弱冠二十歳。


Photo
ダイナマイト・キッド
(The Dynamite Kid、本名:Thomas Billington、
1958年12月5日 - 2018年12月5日 60歳の誕生日に逝く


初来日は国際プロレスが売り出し中であった
阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座への挑戦者として。
自身も英連邦ジュニアヘビー級王座(当時の報道)を保持していた。

イギリス出身の若手と聞いていたので、
前王者のミレ・ツルノと同様に欧州を主戦場とするレスラーかと思っていたら、
既に国際プロレスと繋がりのあるカナダのカルガリー地区に転戦しており、
そのルートでの初来日でした。

僅か6戦のみの特別参加ではあったが、
ラガーマンから転進して日も浅くアスリートの面影が強かった原や、
技巧派で中堅からベテランに差し掛かっていた寺西勇と激闘は鮮烈で、
将来も必ず活躍するだろうと思った。

実際、翌年から日本での闘いの場は新日本プロレスに移し、
藤波辰巳、そして1981年からは初代タイガーマスク(佐山サトル)と
WWFジュニアヘビー級王座を争って激闘を繰り広げた。

素晴らしい活躍・・・だが、ここまでは予想できた。
むしろ予想に違わぬ活躍と言っていいかも知れない。


しかし、とにかく細くて小さい。
その印象は初来日から3年ほど経ってもほとんど変わらなかった。
藤波だと体格的にやや見劣りする、
タイガーマスクこそ最も適したライバル!
そんなふうに感じていた。

だから、まさか大型レスラーがひしめくWWFで
キッドがヘビー級レスラーとしてトップを取ろうとは、
想像できなかった。

英国からカナダを経て、世界一の大都市ニューヨークで掴んだ
まさにアメリカンドリームだった。

しかし、薬物にも頼って身体を大きくし過ぎたのは無理があったのか。
やがて心身の調子を崩していった。
元々かなり破天荒な性格だったとも聞くが。


後年は全日本プロレスに日本での闘いの場を移しており、
1991年、33歳の若さで引退。
その後復帰をするのは体力の衰え・・・というよりも不調は隠しようもなかった。

近年もプロレス誌『Gスピリッツ』等で様子は伝えられていたが、
痛々しい限りではあった。


そして今回の訃報。
どうしても痛切な思いに駆られてしまうが、
若き日のマット上での輝きは永遠。
その雄姿を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年7月18日 (水)

【昭和プロレス】マサ斎藤死去/アメリカで最も活躍した日本レスラー

訃報 元プロレスラーのマサ斎藤さんが7月14日に亡くなりました。75歳。


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マサ斎藤
(本名:斎藤 昌典  1942年8月7日 - 2018年7月14日)



アメリカで最も活躍した日本人レスラーの1人。
いや、この点について本当のNO.1かもしれません。

グレート東郷に代表される日系人ヒールと呼ばれる悪役レスラー達は戦後の米国マットで多く活躍しました。
実は日系ではない、つまり日本人の血の入っていない、ギミックとしての日系ヒールもいます。

その人達は別にして、日本出身で、日本のプロレス団体に入門して、
それからアメリカに渡って戦ったレスラーも無数にいます。

昭和の時代、日本のプロレス団体に入門したレスラー達は前座での修業を経ると、
海外武者修業に出て、箔をつけて凱旋帰国するのが一般的でした。
日本プロレス界の始祖力道山も、日本にプロレス団体がなかったから前座修業はしていませんが、
ハワイやサンフランシスコでプロレス修業し、実戦のキャリアを積んで日本デビューしました。
その弟子であるジャイアント馬場やアントニオ猪木らも皆そうです。

行き先はアメリカ、カナダの北米地域が主ですが、欧州、メキシコルートもありました。
だから多くの日本人レスラーは海外マットを経験しています。
中には日本に戻らず長期間海外に定着するレスラーもいました。

米国で「ミスター・サイトー」、「マサ・サイトー」等を名乗り、一匹狼の悪役として戦ってきた斎藤は、
その期間の長さ、活躍した地域の広さ、それも大変レベルの高い地域を回り、どこに行ってもトップを張り、
各地のチャンピオンベルトを巻いてきた、その実績は比類ありません。

今回はそのあたりを中心に少し紹介します。


元アマレス日本一
マサ斎藤は明治大学のアマチュアレスリング部出身。
全日本選手権優勝、東京オリンピック日本代表の経歴を持ち、
1965年に力道山没後の日本プロレスに入門します。
後にプロレス入りする柔道日本一の坂口征二とは明治の同期です。

ただ、それほどエリート扱いされてはいなかったようです。
身長の低さも一因かも知れません。

1966年、日プロを離脱して豊登が作りアントニオ猪木らも参加した東京プロレスに参加。
しかし翌1967年、東プロはあえなく潰れ、猪木ら一部のレスラーは日プロに復帰し、
豊登ら大半は新興の国際プロレスに合流しますが、斎藤は日本を離れアメリカに活路を見出すのです。


米国西海岸都市でトップに
斎藤は日本マットとも縁の深いアメリカ西海岸に定着、
日系のキンジ渋谷とタッグを組み、サンフランシスコ、ロサンゼルス等でトップヒールとなり、
更に北のオレゴンやワシントン、国境を越えてカナダのバンクーバーまで活躍の場を広げます。

当時のロスやシスコは米マットの中心とまではいえませんが、
共に大都市の繁栄マーケットで、斎藤はここでゆるぎない地位を築き数々のタイトルを獲得、
1970年代半ば過ぎまで約10年、トップとして活躍ました。

この間に古巣の日プロ、そして因縁深い猪木と坂口が興した新日本プロレスにも時折参加しています。
主に日本陣営の助っ人格でのスポット参戦で、ヒールではありませんでした。


南部の繁栄地フロリダへ
ところが1970年代後半になると、西海岸マットは斜陽期を迎えます。
斎藤は1977年に西海岸を離れ、米国南部のフロリダに転戦します。
(実は最近知ったのですが、1970年頃にも一時期フロリダをサーキットしたことがあるようです
今はネットでこういう情報も得やすくなりました。)

70年代末のフロリダは繁栄マーケットで、日本のプロレスメディアにもよく情報が載っていました。
斎藤はここでもイワン・コロフ、そして後にグレート・カブキとなる高千穂明久とのタッグでトップを張ります。


ヒールとして新日本再登場
そしてフロリダにはフリーで成功した日本人レスラーの先輩であるヒロ・マツダがいました。
マツダはベビーフェイスなので、フロリダではタッグを組まなかったようですが、
マツダをリーダーに上田馬之助らを巻き込みフリーの日本レスラーのチーム「狼軍団」を結成、
1978年暮れに開催された新日プロのブレ日本リーグ戦に殴り込み、ヒールとして旋風を巻き起こしました。

そこから斎藤はヒールとして1980年初頭まで新日に連続参戦します。
1979年春にはマツダとのコンビで坂口・ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。
続いてすぐに上田と共に国際プロレスにも参戦。

北米タッグは坂口・長州力の新コンビに古巣のロスで奪回されますが、
その後も外国人サイドの参謀格として、北米タッグにもパートナーを変えて何度も挑戦。
個性の強い外国人レスラーを上手くコントロールし、あのタイガー・ジェット・シンとも息の合ったチームを組みました。
猪木、坂口、藤波辰巳らともですが、特に同じアマレス出身でタイプの似ている長州とは
北米タッグ王座をめぐって好勝負を展開しました。


斎藤の実力
1980年春、外国人側の参謀格のバッドニュース・アレンに譲った斎藤はフロリダに戻ります。
フロリダでは早々にTVタイトルを取ると、その後はジョージア、アラバマ等南部を転戦して
アラバマヘビー級王座を獲得と、帰米後も行く先々でトップを張りました。
当時熱心なプロレスファンだった私はプロレス誌でこの活躍ぶりを知り、
やはり斎藤は凄い、どこに行っても必ずトップを取る、格違いだと実感しました。

斎藤はなぜこんなに凄いのか?
斎藤の試合スタイルは伝統的な日系スタイルの卑怯な試合運びをベースにしていますが、
アマレス仕込みのテクニックと鍛え上げられた身体から繰り出すファイトはスピードと切れ、
パワーに溢れたもので、バックフリップやスープレックスなど大技の迫力も文句なく、
比類ないものでした。


WWF AWA参戦
そして1981年、ついにWWF(現WWE)に参戦。
西海岸でも組んでいたことのある日系のミスター・フジとのコンビでWWFタッグ王座を獲得。
ニューヨークMSGの檜舞台でもトップを取りました。

1983年には長州力の革命軍(→維新軍)の大御所格として久々に新日本参戦。

同年後半にはAWAに転戦し、ここではいきなりハルク・ホーガンと抗争を展開します。
ホーガンはWWFでヒールとして活躍した後、他地区を経てAWAでベビーフェイスとして人気を得ており、
WWFに復帰して王者となる直前の時期でした。
斎藤はその後もAWAでニック・ボックウインクルらと組み、ヒールのトップクラスに君臨します。


ざっと斎藤のキャリア概略を紹介しました。
この他に書き洩らしている地域もあります。
まさに全米各地、どこに行ってもトップを張ってきたことがわかります。

その後、AWA参戦中の1984年にケン・パテラが起こした器物破損事件に巻き込まれ服役し、
刑期終了後は新日本プロレスを主戦場とし、猪木との巌流島決戦でも話題を呼びました。
後にはテレビ朝日の中継での解説も務めました。これはまぁ“迷解説”だったかも知れませんが。
1999年に引退。近年は闘病を続ける様子が伝えられていました。


昭和の名レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年4月20日 (金)

【昭和プロレス】 元祖WWEの帝王 ブルーノ・サンマルチノ死去/G馬場の好敵手・盟友

訃報 元プロレスラーのブルーノ・サンマルチノが4月18日に亡くなりました。82歳。
20世紀の偉大なプロレスラーがまた1人逝きました。


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ブルーノ・サンマルチノ
(Bruno Sammartino 1935年10月6日 - 2018年4月18日)
イタリア生まれでアメリカで活躍したプロレスラー。
パワフルな怪力殺法から、日本では“人間発電所”の異名で知られた。


元祖WWEの帝王
今やアメリカンプロレスといえばWWE(World Wrestling Entertainment)。

この団体は1963年にWWWF(World Wide Wrestling Federation)として、
大都市ニューヨークを本拠地、マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)を興行拠点として設立されました。
1979年3月にWWF(英: World Wrestling Federation)に改称、1980年代には全米に勢力を拡大。
2002年5月にWWEとなりましたが、名称が変わっただけで、基本的には同じ団体です。

1963年の設立時、初代WWWF世界ヘビー級チャンピオンには東部マットを中心に高い人気を誇った
伝説的なショーマン派レスラーであるバディ・ロジャースが認定されましたが、
同年5月にこのロジャースをMSGで僅か48秒で下し、28歳の若き王者となったのがサンマルチノでした。
同地に多いイタリア系アメリカ人からの支持を得て、名実共にWWWFのトップレスラーとなりました。

以後、1971年1月に一度王座から落ち、プエルトリコ出身のペドロ・モラレスの時代もありましたが、
1973年12月に王座に返り咲き、再びサンマルチノ時代が到来。
1977年4月に王座を明け渡し、ボブ・パックランドの時代になった後も
1981年に1度引退するまで20年近く、圧倒的な人気を誇ってMSGの帝王、NYの英雄として君臨しました。


20世紀を代表する怪力ファイター
身長はプロレスラーとしては決して高くないサンマルチノですが、
鍛え上げられた分厚い肉体から繰り出す圧倒的なパワーとラッシングファイト、
ベアハッグ、カナディアン・バックブリーカー、フルネルソンといった腕力を利した絞め技、
そして猛烈なマシンガンキックを武器に活躍しました。

パワーファイター、怪力レスラーの代名詞的存在。
この点では20世紀を代表する存在と言っていいと思います。

そして、アメリカ最大都市の最大マーケットでこれだけ長期に渡りエースに君臨したのも稀有な例でしょう。


一方、WWF(→WWE)のオーナーであるビンス・マクマホン父子との関係は微妙で、
1981年の引退後にWWFを離脱して新団体IWFを設立、WWFと興行戦争となった事もありました。
1984年にはWWFに復帰し、1985年にはリング復帰も果たしますが、
1988年に再度離脱し、以降はWWFとは距離を置きました。

その為か、これだけの大功労者でありながらWWE殿堂入りが2013年と、だいぶ遅かったです。
ともかく元気な内に殿堂入りが実現したのはよかったです。
いかなる理由があろうとも、WWE殿堂にサンマルチノの名がないとは、昭和プロレスファンには考えられません。



ジャイアント馬場との関係

日本ではジャイアント馬場の長年の好敵手、そして盟友、ビジネスパートナーとしても知られます。
2人の関係は1960年代前半、馬場の渡米修行時の対戦まで遡ります


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1964年2月17日、MSGで馬場の挑戦を受ける。
馬場の初渡米時はまだWWWFの設立前で、
これは2回めの米国遠征からの帰国直前。



ただ、後年の取材によるとサンマルチノ自身は米国での馬場との交流については記憶しておらず、
その友情関係は1967年の日本プロレスへの初来日からとしています。

当時のサンマルチノはWWWF王者でしたが、
日本では主に馬場の保持していたインターナショナルヘビー級王座への挑戦者として名勝負を重ねました。


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怪力技フルネルソンで馬場を締め上げる


この馬場の日本プロレスのエース時代、ライバルとされたボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
ジン・キニスキー、デッィク・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー、キラー・コワルスキーら
パワー&ラフファイタータイプの大レスラー達は、実は1938年生まれの馬場より一回り上、
むしろ力道山に世代の近い、1920年代生まれのベテランが多かったのですが、
1935年生まれのサンマルチノとは3歳差、同世代のライバルでした。


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馬場の16文キックが炸裂


そして1972年、馬場が日本プロレスから独立して全日本プロレスを設立すると真っ先に協力者となり、
自らが全日マットに上がるだけではなく、他のレスラーのブッキングも行いました。
その後、WWWFは馬場のライバル・アントニオ猪木の新日本プロレスとの提携を強めますが、
サンナマルチノは新日本に上がる事なく、馬場との義理を貫きました。

現役としての最後の来日は1981年10月、米国での引退宣言の後で、
全日本創立10周年シリーズに参加して蔵前国技館で馬場と初タッグを組み、
タイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と対戦しました。


1999年1月、ジャイアント馬場死去。
同年5月、馬場の「引退試合」と銘打った東京ドームでの追悼興行に
ジン・キニスキー、ザ・デストロイヤーら馬場の盟友達と共に来日。
風格ある佇まい、馬場に心のこもった追悼の言葉を送り、ファンに感銘を与えました。

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馬場“引退試合”に出場した
左からデストロイヤー、サンマルチノ、キニスキー


20世紀の偉大なレスラー・サンマルチノに謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

以下、日刊スポーツのサイトより引用
https://www.nikkansports.com/battle/news/201804190000047.html
☆☆☆
人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ氏死す 82歳
[2018年4月19日3時15分]   
プロレスの元WWWF(現WWE)世界ヘビー級王者で、WWE殿堂入りのブルーノ・サンマルチノ氏が亡くなった。WWEが18日(日本時間19日)、公式サイトで発表した。82歳だった。

圧倒的なパワーと持久力を誇り「人間発電所」と呼ばれた。1963年5月、米ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでバディ・ロジャースをわずか48秒で下し、第2代WWWF王座を獲得。同王者としてマディソン・スクエア・ガーデンで防衛戦を重ねたことから「MSGの帝王」とのニックネームもついた。

ジャイアント馬場とは若手時代から交流があり、64年2月、馬場の王座挑戦を受けた。67年3月、日本プロレス参戦のために初来日。馬場の保持するインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。

73年からは全日本プロレスにも参戦し、馬場と名勝負を繰り広げた。
81年に現役を引退したものの、85年からWWF(現WWE)で現役復帰し、86年のレッスルマニア2大会のバトルロイヤルなどに出場。99年5月には全日本プロレスの東京ドーム大会のために来日し、同年1月に死去したジャイアント馬場「引退試合」に出席した。また2013年2月にはWWE殿堂入りを果たし、MSGで開催された殿堂入り式典に出席していた。
★★★

2017年4月30日 (日)

【昭和プロレス】『キラー・カーン自伝』発売記念トーク&サイン会 in 新大久保キラーカンの店/「カーン」か「カン」か?

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4月19日に元プロレスラー、キラーカンさんの著書
『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 』が、G SPIRITS BOOKから発売されました。

それを記念したトーク&サイン会が今日4月30日にカンさんが経営する
新大久保の「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」で開催されました。
この自伝の編集にも協力された元ゴング編集長の清水勉氏が司会を務めましたが、
約30人の満員のお客さんを前に、ほぼカンさんの独演会で、大いに盛り上がりました。


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ノリノリのカンさん。後方が清水氏


カーンかカンか?
ところで、自伝のタイトルには「キラー・カーン」とありますが、
本人は今「キラーカン」を名乗っており、店の名前も「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」です。
これはどういうことか?

この件は今日のイベントではふれられませんでしたが、自伝に書かれています。
現役時代、メディアも私達ファンも「キラー・カーン」と呼んでいました。
しかし、このリングネームは元々アメリカで名付けられたもので、かのジンギス・カンに由来します。
つまり、本人の認識としては本来「カン」で、日本では誤って「カーン」と定着してしまったのです。

ファンとしては「カーン」に馴染み・愛着がありますし、
そこを考慮して自伝のタイトルも「カーン」採用したとのことですが、
本項では本人の意向を優先して「カン」で記します。


“キラー・カン”誕生の経緯
それにしても、なぜ新潟生まれの日本人・小沢正志がモンゴル人・キラー・カンとなったのか?
命名までの経緯を簡単に記します。

小沢正志は大相撲出身。1971年に馬場・猪木が並び立っていた時代の日本プロレスに入門し、
その後、日プロの分裂に伴い、新日本プロレスに移籍します。
1978年にメキシコに渡り、プロモーターの要請によりモンゴル人「テムヒン・エル・モンゴル」としてデビューしました。
翌1979年、アメリカのフロリダに入り、モンゴル人キャラはそのまま「キラー・カン」となったのです。

この当時、日本のファンの海外、特にアメリカマットへの関心は高く、
専門誌は米国からの情報掲載に大きなスペースを割いていました。
特にフロリダは繁栄マーケットとして注目度が高く、
そこで小沢の、蒙古人ヒール「キラー・カーン」としての活躍は何度も大きく紹介されました。
自伝では1981年2月の凱旋帰国の段階で「カーン」と名付けられたかように書かれていますが、
実際には1979年~80年のアメリカでの活躍中にマスコミを通して「カーン」が定着していたのです。


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さて、ここまで書いてきた事からもわかるように、
カンさんはプロレスの“本場”アメリカで大きな成功を果たした日本人レスラーです。
昭和の時代の米国マットでの出来事はもちろん伝聞ですし、特にプロレスの情報は虚実が混在します。
まして、時代や地域が違えば比較は難しいですが、得られる情報から極力客観的に判断して、
カンさんは間違いなくアメリカで最も成功した日本出身の日本人レスラーの一人です。
もしかしたらNo.1と言っていいかも知れません。

アメリカで成功したから偉いともいいませんが、
それだけの実績を残した人の書いた本ですので、特に米マットに関わる証言は重みがあります。

また、自伝には日本人レスラーや、プロレス関係者の批評・批判もかなりはっきりと書かれています。
特に辛辣に書かれているのは坂口征二さんですね。イベントでもかなり口撃されていました。
坂口さんについては最近、カンさんはよく発言しているのでそれほどの驚きはないですが、
それにしてもかなり激しい論調でした。

トークでは猪木さんや新間寿さんについてもきつい発言が並びましたが、それでもこの二人には敬称付き。
坂口さんには無しでした・・・。
その他、人物評価は明解で、「へー、そうなんだ!」と意外に感じる点も多かったです。


飲食店主として
1987年のアメリカでの試合を最後に引退したカンさんは帰国して飲食店を始めました。
もう30年になります。
最初は西武新宿線の中井のスナックで、故尾崎豊さんが常連だった事はよく知られています。
この日は参加者からの質問で尾崎さんの話まなり、興味深いエピソードも聞けました。
最近も、尾崎さんの命日にファンが店を埋め尽くし、尾崎さんが好んだというカレーが多く注文されてそうです。

この中井のスナックの後は主に居酒屋タイプの手掛け、新宿の歌舞伎町や西新宿を転々としてきました。
この日の会場となった新大久保駅近くの路面店である「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」は、
昨年9月オープンした店で、たしか9件目と言っていたかと思います。


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突然の引退、そして次々と店を新しくしてきたことについて、
とにかく、思い込んだらすぐに行動に移してしまう性格だからと説明していました。
しかし、この店は死ぬまで続けるつもりとのことです。

私はカンさんの話を聞くのは初めてでした。
実は、随分前のネットでの情報から、ファンに対してはもう少し寡黙なのかと思っていたのですが、
大変饒舌で話術も巧み、かつ物腰は柔らかい人で、楽しいひと時を過ごしました。

自伝や今日のトークの内容についてはまとめて書き切れませんので、
機会を改めてテーマを絞ってやりたいと思います。


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Old Fashioned Club  月野景史

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