35.昭和プロレス

2017年4月30日 (日)

【昭和プロレス】『キラー・カーン自伝』発売記念トーク&サイン会 in 新大久保キラーカンの店/「カーン」か「カン」か?

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4月19日に元プロレスラー、キラーカンさんの著書
『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 』が、G SPIRITS BOOKから発売されました。

それを記念したトーク&サイン会が今日4月30日にカンさんが経営する
新大久保の「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」で開催されました。
この自伝の編集にも協力された元ゴング編集長の清水勉氏が司会を務めましたが、
約30人の満員のお客さんを前に、ほぼカンさんの独演会で、大いに盛り上がりました。


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ノリノリのカンさん。後方が清水氏


カーンかカンか?
ところで、自伝のタイトルには「キラー・カーン」とありますが、
本人は今「キラーカン」を名乗っており、店の名前も「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」です。
これはどういうことか?

この件は今日のイベントではふれられませんでしたが、自伝に書かれています。
現役時代、メディアも私達ファンも「キラー・カーン」と呼んでいました。
しかし、このリングネームは元々アメリカで名付けられたもので、かのジンギス・カンに由来します。
つまり、本人の認識としては本来「カン」で、日本では誤って「カーン」と定着してしまったのです。

ファンとしては「カーン」に馴染み・愛着がありますし、
そこを考慮して自伝のタイトルも「カーン」採用したとのことですが、
本項では本人の意向を優先して「カン」で記します。


“キラー・カン”誕生の経緯
それにしても、なぜ新潟生まれの日本人・小沢正志がモンゴル人・キラー・カンとなったのか?
命名までの経緯を簡単に記します。

小沢正志は大相撲出身。1971年に馬場・猪木が並び立っていた時代の日本プロレスに入門し、
その後、日プロの分裂に伴い、新日本プロレスに移籍します。
1978年にメキシコに渡り、プロモーターの要請によりモンゴル人「テムヒン・エル・モンゴル」としてデビューしました。
翌1979年、アメリカのフロリダに入り、モンゴル人キャラはそのまま「キラー・カン」となったのです。

この当時、日本のファンの海外、特にアメリカマットへの関心は高く、
専門誌は米国からの情報掲載に大きなスペースを割いていました。
特にフロリダは繁栄マーケットとして注目度が高く、
そこで小沢の、蒙古人ヒール「キラー・カーン」としての活躍は何度も大きく紹介されました。
自伝では1981年2月の凱旋帰国の段階で「カーン」と名付けられたかように書かれていますが、
実際には1979年~80年のアメリカでの活躍中にマスコミを通して「カーン」が定着していたのです。


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さて、ここまで書いてきた事からもわかるように、
カンさんはプロレスの“本場”アメリカで大きな成功を果たした日本人レスラーです。
昭和の時代の米国マットでの出来事はもちろん伝聞ですし、特にプロレスの情報は虚実が混在します。
まして、時代や地域が違えば比較は難しいですが、得られる情報から極力客観的に判断して、
カンさんは間違いなくアメリカで最も成功した日本出身の日本人レスラーの一人です。
もしかしたらNo.1と言っていいかも知れません。

アメリカで成功したから偉いともいいませんが、
それだけの実績を残した人の書いた本ですので、特に米マットに関わる証言は重みがあります。

また、自伝には日本人レスラーや、プロレス関係者の批評・批判もかなりはっきりと書かれています。
特に辛辣に書かれているのは坂口征二さんですね。イベントでもかなり口撃されていました。
坂口さんについては最近、カンさんはよく発言しているのでそれほどの驚きはないですが、
それにしてもかなり激しい論調でした。

トークでは猪木さんや新間寿さんについてもきつい発言が並びましたが、それでもこの二人には敬称付き。
坂口さんには無しでした・・・。
その他、人物評価は明解で、「へー、そうなんだ!」と意外に感じる点も多かったです。


飲食店主として
1987年のアメリカでの試合を最後に引退したカンさんは帰国して飲食店を始めました。
もう30年になります。
最初は西武新宿線の中井のスナックで、故尾崎豊さんが常連だった事はよく知られています。
この日は参加者からの質問で尾崎さんの話まなり、興味深いエピソードも聞けました。
最近も、尾崎さんの命日にファンが店を埋め尽くし、尾崎さんが好んだというカレーが多く注文されてそうです。

この中井のスナックの後は主に居酒屋タイプの手掛け、新宿の歌舞伎町や西新宿を転々としてきました。
この日の会場となった新大久保駅近くの路面店である「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」は、
昨年9月オープンした店で、たしか9件目と言っていたかと思います。


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突然の引退、そして次々と店を新しくしてきたことについて、
とにかく、思い込んだらすぐに行動に移してしまう性格だからと説明していました。
しかし、この店は死ぬまで続けるつもりとのことです。

私はカンさんの話を聞くのは初めてでした。
実は、随分前のネットでの情報から、ファンに対してはもう少し寡黙なのかと思っていたのですが、
大変饒舌で話術も巧み、かつ物腰は柔らかい人で、楽しいひと時を過ごしました。

自伝や今日のトークの内容についてはまとめて書き切れませんので、
機会を改めてテーマを絞ってやりたいと思います。


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Old Fashioned Club  月野景史

2017年1月16日 (月)

【昭和プロレス】“スーパーフライ” ジミー・スヌーカ死去

訃報 元プロレスラーのジミー・スヌーカが1月15日に亡くなりました。73歳。

ジミー・スヌーカ
(Jimmy Snuka、本名:James Reiher、1943年5月18日 - 2017年1月15日)


私がプロレスに熱中していた1980年頃、不思議に感じている事がありました。
当時はプロレス専門誌が月刊誌として4誌発行されていました。
その時代の読者は海外、特にアメリカマット界への関心が高く、
毎回アメリカからのレポートが多く掲載されていました。

中でも米国で活躍しているのに未来日のレスラー、または来日経験はあるけど間隔が空いているレスラーは、
プロレスファンなら当然来日を心待ちにしますし、マスコミも更に詳しい情報を掲載します。

その中で、レポートに名前だけはよく出てきて、かなり活躍しているようなのに、
なぜか来日待望論がさっぱり盛り上がらない選手がいました。
ジミー・スヌーカです。

スヌーカはそれよりかなり前に2度来日しており、つまりその時に良い印象を残していなかったのでしょう。
1971年の初来日時はアメリカインディアンスタイルのグレート・スヌーカとしてでした。
その後、南海の野生派スタイルのヒールにギミックをチェンジしたのです。
といっても、スヌーカはフィジー出身なので、本来の姿になったといえるのですが。


リッキーの相手役として
その1980年当時、アメリカでの活躍が頻繁に紹介され、日本に呼びたい“未知の強豪”として、
来日待望レスラーNo.1だったのがリッキー・スティムボートでした。
リッキーは80年暮れの全日本プロレス・世界最強タッグリーグ戦に初来日しました。
この時はそこそこの人気を呼びましたが、他の外国人レスラーも豪華過ぎて、
単独で主役の座を勝ち取るまではいきませんでした。

当時の全日本はファンクスやミル・マスカラスなどベビーフェイスの人気レスラーは
日本陣営に入れて外国人ヒールと戦わせるスタイルを取っていました。
リッキーも1981年5月に2度目の来日が決定し、日本側に付くことになりました。
そうなると、リッキーに相応しい相手役が必要です。
そこで白羽の矢を立てられたのが、リッキーの本拠地であるアメリカのミッドアトランティック地区で、
当時リッキーのライバルだったスヌーカでした。

リッキーとスヌーカのアメリカから直輸入された対決は話題を呼びましたが、
特に悪役であるスヌーカの人気がリッキー以上に高まりました。
鍛え上げられ肉体、スタイリッシュでかっこいい悪役、
「スーパーフライ(Superfly)」と呼ばれた思い切った空中殺法は
新しい時代、ニューウェイブのプロレスとしてもてはやされました。
当時のスヌーカは既に38歳で、それほど若くはなかったのですが。


ブルーザー・ブロディと
次の81年秋の来日ではブルーザー・プロディとの出会いがありました。
同年暮れの最強タッグはプロディと組んで初出場、そしていきなりの優勝。
翌1982年春にはそのプロディとも仲間割れ、ブロディとスタン・ハンセンとチームの抗争開始、
そして超大物ハーリー・レイスとタッグ結成と、スヌーカの周囲は目まぐるしく展開するのですが、
スヌーカのWWF(現WWE)本格進出で、全日本への登場は82年を最後に一旦途切れます。

この1981年~82年がスヌーカの日本での全盛期といえるでしょう。


WWFのスーパースターに
日本を離れている間、スヌーカは昇り調子だったWWFでも絶大な人気を得ました。
最初はヒールでしたが、ヘビーフェイスに転向してブームを巻き起こしたようです。

その後、1985年には新日本プロレスに登場。
こちらも新日に移籍したプロディとのタッグも再結成しましたが、
これはプロディと新日とのトラブルに巻き込まれ、尻すぼみになりました。
1987年にはプロディと共に全日本に復帰。

この頃になると年齢も40代半ばで、さすがに往時のようにはいきませんでしたが、
その後も米日で活躍を続け、1996年には早くWWE殿堂入りを果たしました。
プロレスラーとしては、大きな成功を成し得たレジェンドと呼んでいいでしょう。


しかし、晩年には過去のは忌わしい事件による逮捕などもあったようです。
詳しい事情はわかりませんが、残念なことでした。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、日刊スポーツのサイトより引用
http://www.nikkansports.com/battle/news/1766325.html
☆☆☆
ジミー・スヌーカ氏が死去 ブロディ氏と最強タッグ
全日本、新日本に参戦したWWE殿堂入りの元プロレスラー、ジミー・スヌーカ氏が15日(日本時間16日)に米フロリダ州の親族宅で73歳で亡くなった。WWEに参戦する娘のタミーナが公表した。胃がんを患っていたという。

フィジー出身で69年にハワイでデビュー。「スーパーフライ」の異名を持つ空中殺法で一世を風靡(ふうび)した。71年に初来日して日本プロレスに参戦。81年より全日本の主力外国人となり、故ブロディ氏とのタッグで最強タッグ戦優勝も果たした。82年からWWF(現WWE)に定着し、王者バックランドとの抗争で爆発的な人気を得てスーパースターに君臨。85年には新日本にも参戦した。

83年に当時交際していた女性が死亡した件を巡って殺人罪などで15年に訴追されたが、裁判に耐えられない状態として今月3日に裁判が打ち切られていた。(デーブ・レイブル通信員)
★★★

2016年8月 9日 (火)

【国際プロレス】北海道羅臼での最終興行(1981年8月9日)から今日で35年

このブログでも時々、昭和期に存在したプロレス団体「国際プロレス」の事を書いています。
その国際プロレスは今からから35年前の今日、1981年(昭和56年)8月9日、
北海道目梨郡羅臼町での興行を最後に幕を閉じました。

Photo『国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語』ベースボール・マガジン社刊より 


国際プロレス
正式社名「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ」
(International Wrestling Enterprise、略称IWE)

1967年(昭和42年)1月18日 東京台東区体育館で東京プロレスとの合同興行にて旗揚げ。
1981年(昭和56年)8月9日の北海道羅臼町大会を最後に活動停止。
活動期間 約14年半。


力道山が作り育てた日本プロレス協会。
力道山の死後、ジャイアント馬場とアントニオ猪木をエースとして引き継がれていく過程で、
そこから分かれて設立されたのが国際プロレス。
しかし、老舗日本プロレスを追い抜くことは出来ず、二番手の団体でした。

やがて猪木は日プロを離れて新日本プロレスを設立。
馬場は全日本プロレスを作り、栄華を誇った日プロはあえなく消滅。
国際、新日本、全日本の三団体が並び立つ時代を迎えましたが、
その時も、馬場も猪木もいない国際プロレスは三番手に甘んじました。

常にマイナーな位置にあって、様々な新機軸を打ち出した国際プロレス。
日本人レスラーのヒーローが悪役外人を倒すスタイルが当たり前だった時代、
外国人レスラーをエースとし、外人レスラー同士の対決を打ち出したのが国際プロレスでした。

しかし、他の団体が約10年遅れて外人対決を売りにして話題を巻き起こした時、
国際プロレスは、対決させて売りになるような外人招聘ルートを失っていた・・・。
いつも、なんでも、だいたいそんな感じでした。

そして1980年代を迎え、約10年ぶりともいえるプロレスブームに世が浮かれ出し、
新日本と全日本との間で引き抜き合戦や興行戦争が激化する中、
国際プロレスはテレビ中継も失い、最果ての地で幕を閉じたのです。


私は、最もプロレスを熱心に観ていた三年間、1979年~81年頃ですが、
ちょうど国際プロレスの最末期にあたります。
三団体の中で国際プロレスが一番好きであったというわけではないですが、
元々判官贔屓の傾向がある上、自分がプロレスに熱中していた時代に失われたこともあり、
この団体に対する強い思い入れがあります。

なんといっても常にマイナーであった団体。
1981年の活動停止後、20世紀の間はメディアに取り上げられる事は極めて少なかったです。
団体終焉後も出身レスラーは各団体に分かれて、それなりに活躍していました。
名前が知られているところではラッシャー木村、アニマル浜口、阿修羅原、そして冬木弘道など。
しかし団体としては、文字通り「幻のプロレス団体」だったと思います。


それが今世紀に入り、いわゆる“昭和プロレスファン”にはおなじみの同人誌、
ミック博士(昭和プロレス研究室主宰)の『昭和プロレス・マガジン』の、
2002年発行の第1号は国際プロレス特集でした。

その後、現存しないとされてきた試合映像が発掘され、
DVDボックスもいくつかリリースされました。

主にレトロなプロレスを扱う『Gスピリッツ』誌の中でも、
国際プロレスがテーマの連載がなされています。

そして2014年には、現在は『週刊プロレス』、
国際プロレスのあった時代は『月刊プロレス』を発行していた、
プロレスメディアの王道「ベースボール・マガジン社」から
丸々一冊国際プロレスを扱ったムックまで発行されました。

「脚光が当たる」とまでは言い過ぎでしょうが、専門メディアとはいえ、
これほど国際プロレスが扱われるとは、不思議にすら感じています。
もちろん、夢のような嬉しい事です。


この団体の会社としての設立は1966年だと思いますが、
旗揚げ興行は1967年1月でしたので、実は来年2017年は旗揚げ50周年ということになります。
もう一盛り上がり、あると嬉しいいのですが。


Old Fashioned Club  月野景史

2016年6月18日 (土)

◆訃報【昭和プロレス】ジプシー・ジョー死去/国際プロレスを支えた凶暴ヒールはプロに徹した好人物

アメリカ、カナダ、そして日本で活躍したプエルトリコ出身のプロレスラー、
“放浪の殺し屋”ジプシー・ジョーが6月15日に亡くなりました。 82歳。

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ジプシー・ジョー(Gypsy Joe、本名:Gilberto "Pepe" Melendez)
1933年12月2日 - 2016年6月15日


無類のタフネスを誇った凶暴悪役ラフファイター。
小柄ながら、スチール製パイプ椅子で背中や頭部を殴打されても椅子が壊れてしまうほどの頑健さと、
金網デスマッチでの金網最上段からの二―ドロップなど無法・無頼ファイトがトレードマーク。
徹底したプロ根性を持ったレスラーとして知られています。

実は最近では2010年にも来日して試合を行っているのですが、全盛期は当然ながら昭和の時代です。
1967年から1981年まで存在したプロレス団体「国際プロレス」。
その後期、東京12チャンネル(現テレビ東京)が放送した時代(1974年~81年)の看板外人スターでした。


国際プロレスの看板ヒール
1975年以降、国際プロレスは大剛鉄之助を支部長とする北米支部をカルガリーに置き、
このカナダルートで来日する無法派のラフファイターが外国人レスラーの中心になっていきました。
ジョーはモントリオールでプロモーターも務めていた大物悪役マッドドッグ・バションの紹介で1975年9月に初来日。
凶暴ファイトで日本勢を蹂躙し、エースのラッシャー木村と死闘を展開、看板外人となります。
「金網の鬼」と呼ばれ、デスマッチでの流血戦を得意した木村とはピタリと手が合ったのです。

以来、1981年8月に国際プロレスが活動を停止する最終シリーズまで11回来日し、まさに国際を支えました。
当時は新日本プロレスではタイガー・ジェット・シン、全日本プロレスではアブドーラ・ザ・ブッチャーが悪の看板スターでした。
国際でそのポジションにいたのがジョー。北米では必ずしも全国区のスターではないところが共通していました。
木村のIWA世界ヘビー級王座、またグレート草津、マイティ井上、アニマル浜口、阿修羅原らが保持していたIWAタッグ王座にもパートナーを変えつつ再三挑戦しました。

当初はスペインの放浪の民、ジプシーのリーダーで、自分らを迫害する白人を殺害して国外逃亡し、
北米でプロレスラーになったとの物騒で政治的でもある経歴が紹介されていました。
まさに“放浪の殺し屋”です。
それはギミックだとしても、プエルトリコ出身でニューヨークに移住してプロレス入りしたとのキャリアが
通説として定着したのは随分後になったからだった思います。謎めいた男でもありました。

一方で、リング界の外では好人物、真面目なプロフェッショナルであることも比較的古くから知られていました。
他の大物レスラーと来日が重なった時はエース木村への挑戦は譲り、
売り出し中のホープだった阿修羅原のWWUジュニア王座に挑むといったマッチメイクもしっかりこなしました。
その後、他に有力レスラーがいない時は木村や、一時期在籍した大木金太郎のインターナショナルヘビー級王座に
挑戦するという、あまりよくないマッチメイクをされても、きちっと仕事をするような面もありました。
常連として外人勢のまとめ役を務め、情けない試合をした若いレスラーを厳しく指導した事もあったようです。


ブッカ―役も務める
初来日はカナダ・モントリオールのマッドドッグ・バションの斡旋でしたが、
その後ジョーはアメリカのテネシーに定着、末期は国際へのレスラーの仲介もやっていたようです。
ジョーの斡旋で来日したと思われるテネシー地区周辺のレスラーが複数います。
こんな面でも国際を支えました。
逆に国際で一緒になった後、ジョーの仲介でテネシーに転戦したと思しきレスラーもいます。

ただ、テネシールートのレスラーはドタキャンも多かったですが。


全日本プロレスへ
ジョーの頑張りにも関わらず、国際プロレスは1981年8月9日、北海道羅臼の地で最後の興行を終えました。
最後を看取ったジョーはほどなく、全日本プロレスに活躍の場を移します。

全日でもジョーを叩いた椅子が壊れるパフォーマンスは大いに受け、
初登場時はジャンボ鶴田やミル・マスカラスの保持する王座に挑戦するという扱いを受けましたが、
当時の全日の豪華外人の中で、82年以降は主に中堅どころで闘いました。

それでも、4年間で10回という国際時代以上の密度で来日し、あの大仁田厚のジュニア王座に挑戦したり、
やはり国際から全日入りしていた原・井上のアジアタッグ王座に、
これも国際で縁のある鶴見五郎やジェリー・モロー(稲妻二郎)と組んで挑戦したりもありました。
しかし、既に50歳を迎え、戦績は来る度に悪くなっていき、1985年が最後の全日登場となりました。

日本との縁は昭和の時代はこれで終わりなのですが、アメリカでは現役を続け、
日本が団体乱立時代を迎えた1990年代以降、リビングレジェンドとして復活し、それが2010年まで続いたのです。

私は特に後期国際プロレスに思い入れが強いこともあり、ジョーは忘れ得ぬレスラーです。
謹んで哀悼の意を表し、追悼の辞を記させていただきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、東スポWebより引用
http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/554411/
☆☆☆
“流浪の殺し屋”ジプシー・ジョーさん死去 ラッシャー木村、大仁田らと死闘

国際プロレスや全日本プロレスで活躍した元プロレスラーのジプシー・ジョー(本名ジルベルト・メレンデス)さんが16日(現地時間15日)に死去した。82歳だった。米国の複数のメディアが報じたもので、死因は分かっていない。2013年には痛風で右足を切断するなど、ここ数年は健康に問題を抱えていた。

プエルトリコ出身のジョーさんは1963年に米国でプロレスデビュー。身長176センチと小柄ながらも、無類のタフネスさで頭角を現した。相手がイスで頭や背中を打ちつけても、逆にイスが壊れてしまうほど頑丈な肉体が武器だった。70年代前半からは、全米各地を転戦。大流血戦で人気を集めて、数多くの王座を獲得した。

75年9月には国際プロレスに初来日。ラッシャー木村らと金網デスマッチで死闘を展開して“流浪の殺し屋”の異名を取った。金網マッチがもっともよく似合う外国人選手だった。81年からは全日本プロレスで活躍。大仁田厚が保持していたNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座にも挑戦した。ミスタープロレス・天龍源一郎も83年7月、長女の紋奈氏(天龍プロジェクト代表)が誕生した日、ジョーさんとシングル戦で戦っている。

90年代に入っても現役を続け、91年1月にはW☆INGに参戦。その後も何度かインディ団体に来日し、2010年12月のSMASH新宿大会が最後の日本マットとなった。翌年1月には米国で引退試合を行っている。

国内最高齢レスラーのグレート小鹿・大日本プロレス会長は「知らなかった。しかし82歳かあ。俺はその年まで現役できんのかな。とにかく体の頑丈な方でした。心よりご冥福をお祈りいたします」と神妙な表情で哀悼の意をささげていた。
★★★

2016年1月25日 (月)

【昭和プロレス】訃報◆モンゴリアン・ストンパー死去/馬場、猪木、木村と因縁深いラフファイター

元プロレスラーのモンゴリアン・ストンパーが1月23日に亡くなりました。
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml

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生年は1936年説と1944年説がありましたが、海外サイトでは1936年説が優勢のようです。
だとすれば、79歳ということになります。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ラッシャー木村ら、昭和期の日本のエースレスラーと因縁深い男です。


ザ・モンゴリアン・ストンパー(The Mongolian Stomper)
アーチー・ゴルディー(Archie Gouldie、本名:Archibald Edward Gouldie) 1936年11月22日 - 2016年1月23日
カナダ・アルバータ州出身。
モンゴリアンはギミックで、「ザ・ストンパー」と名乗る事も多かったと思いますが、日本では「モンゴリアン」で知られます。
名前の通り、強い足から繰り出すストンビング・キックが主武器でガンガン攻め立てるタイプの直線的なラフファイター。
日本では「踏みつぶし野郎」などと呼ばれました。私は「踏み殺し屋」の方がいいと思いましたが。
評価としてはB級悪役というところですが、北米での実績もそれなりで、日本とも縁の深いレスラーでした。

本項では、日本での足跡、日本人レスラーとの関わりを中心に記します。


1964年 猪木の渡米修行時代のパートナー
ストンパーはアントニオ猪木の米国修行時代のパートナーとして知られており、wikipediaでも強調されています。
ただ、ごく短期間ではありましたが。

1960年代初頭にカナダでデビューしたストンパーはアメリカに移り、1963年にカンサスに入ってモンコリアンを名乗ります。
翌1964年4月、日本から武者修行に来た21歳のトーキョー・トムことアントニオ猪木とアジア人悪役コンビを組むのです。

猪木はその後の米国転戦では、最終地のテネシー以外ではベビーフェイス(善役)だったようですが、
カンサスではヒールで、ストンパーとのチームではパット・オコーナー&サニ―・マイヤースの超一流チームとの
対戦記録も残っており、いきなりヒールのトップクラスのポジションに就いています。
猪木は二ヶ月余りでロサンゼルスに転戦してしまうのですが、ストンパーとは公私共に良い関係だったようです。


1971年 日本プロレスに初来日
その後もアメリカ・カナダで実績を積んできたストンパーは
1971年、ジャイアント馬場と猪木のBI砲がエースとして君臨する日本プロレスの新春シリーズに初来日します。
ここでは外人側エースとして馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦するという抜擢を受け、しかも引き分けます。
他にもノンタイトルで猪木と大木に勝ち、ザ・ケンタッキアンと組んでBI砲に挑んだインタータッグ戦では敗退しますが、
ビル・ドロモと組んでのノンタイトルでのBI砲戦では引き分けと、実に立派な戦績を残しました。

翌1972年秋、猪木に続いて馬場も抜けた混乱期の日プロに再来日しますが、この時はあまり良い戦績を残していません。


1979年 国際プロレスに登場
次の来日は7年後、1979年11月国際プロレスでした。
この時はアレックス・スミルノフ、ジプシー・ジョー、上田馬之助ら当時の国際のエース級外人を揃えたシリーズでしたが、
ストンパーは彼らを差し置いてトップとして迎えられます。日プロでの実績がものを言いました。
テレビ登場初戦では、グレート草津を猛烈な踏みつけ攻撃から変形スリーパーで失神KO、久々の再来日を飾りました。

ただ、超大物のパーン・ガニアが中盤に特別参加した為、ラッシャー木村のIWA王座の挑戦枠が残りひとつとなり、
外人勢はストンパー軍団とスミルノフ軍団に別れて抗争を展開、6人タッグ戦に勝利したストンパーが挑戦権を獲得します。
タイトルマッチは最終戦で行われ、一度は木村をフォールしてベルトを巻くも、ミスジャッジという事で試合再開、
そこに挑戦権争いで敗れたスミルノフが手出しをして痛手を負い、フォール負けしてしまいました。

それならば怒り狂ってスミルノフに食ってかかるかと思えば、意外にもすごすご引き下がってしまったのです。
ダメージが大きかったという事なのでしょうが、あまり良い印象ではなく、今後どういう使い方をするのか、
疑問に感じていたのですが、1シリーズだけ間に入れて、翌1980年2月に再来日します。


1980年 国際プロレスに再登場
この時は単独エース。
しかし、終盤にこれまた超大物ディック・ザ・ブルーザーの来日が急遽決定したので、
ストンパーの木村への挑戦は中盤で1回だけ実現しますが、3本勝負で2本フォールを取られて敗退します。
ただ、3本目が一瞬の抑え込みで、まだ余力充分という感じで消化不良の内容でした。

どうも国際プロレスはストンパーを本気で売る気があるのか、よくわからないマッチメイクですが
その答えを出すべく、この年の秋、自ら編成したというストンパー軍団を率いての来日が決定します。
日プロの来日で一緒だったピル・ドロモも含まれていたのですが、肝心のストンパーが気管支炎を発症して、
来日が中止になってしまいました。 国際とはここまで。

ストンパーは12チャンルネル時代の国際プロレスの常連との言われ方をしますが、実は2回だけの来日なのです。
しかし、タイプの似た木村とは手も合い、国際のエース外人との印象は強いです。


1982年 全日本プロレスに参戦 最後の来日
次の来日は国際プロレスの活動停止後、1982年春の全日本プロレスのチャンピオンカーニバル。
因縁のスミルノフも一緒でした。
この来日ではノーTVのブルーザー・プロディ戦で2分ちょっとでKOされるなど、優勝戦線には加われませんでしたが、
テレビ放送された馬場戦ではプロディらの乱入に助けられて引き分け、
同じく放送されたビル・ロビンソン戦では暴走として痛めつけての反則負けと、そこそこの存在感は示しました。
TVマッチで馬場に完敗したスミルノフよりは良い扱いだったようにも思えます。

ところが、このシリーズ終了後インターバルなしに開催されたグランド・チャンピオンシリーズにも残留参加したのですが、
カーニバル中は勝っていた日本勢の中堅どころに連戦連敗してしまいます。
テレビではまったく放送されず、記録が残るのみですが、不可解なマッチメイクでした。
尚、スミルノフとの公式戦は最終戦で予定されていましたが、スミルノフの棄権・帰国により行われませんでした。
これもまた、不可解な事情があるのですが・・・。

こうして見ると、どうも参加した三団体でいずれも不可解なマッチメイクをされているようにも思えます。


1983年 カナダで猪木と邂逅
全日本参戦が最後の来日になるのですが、実はもう一度日本のファンの前に姿を現しているのです。
1983年12月、猪木をはじめとする新日本プロレス勢のカナダ・バンクーバーへの遠征が行われ、テレビ放送もされました、
猪木はケリー・ブラウンと戦うのですが、ベビーフェイスに転向していたストンパーが、旧友猪木の救援に現れたのです。
そして、翌1984年には新日本への来日も発表されましたが、残念ながらキャンセルとなりました。

その後も、90年代初頭までは現役を続けたようです。


気弱な男?
ストンパーは気が弱いとする説があります。
その根拠となったのが某書に書かれたエピソード。
前述のチャンピオン・カーニバルの際、一緒になったプロディに気兼ねして、
トレードマークの毛皮付シューズの使用を自発的にやめてしまったという話です。

しかし、ストンパーはその少し前の国際への来日では毛皮シューズを履いてはいません。
アメリカやカナダではわかりませんが、ストンパーの試合は時々日本の専門誌にも紹介されましたが、
少なくともこの頃は、毛皮シューズは使っていなかったと思います。
だとすれば、この件は事実誤認にということになります。


単調との評価もされますが、直線的に攻め込むスタイルはブルファイターの典型ともいえ、
また末期国際プロレスを彩ったヒールでもあり、忘れ難いレスラーです。

謹んで哀悼の意を表し、追悼文を記させてもらいました。

Old Fashioned Club  月野景史

以下、デイリースポーツのサイトより、訃報記事を引用
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml
☆☆☆
名悪役レスラー、ストンパーさん死去
2016年1月24日
プロレスラーのモンゴリアン・ストンパー(本名アーチー・ゴルディー)さんが現地時間の23日、米国テネシー州の病院で死去したと現地メディアが報じた。71歳だった。報道によると、人工股関節置換手術を受けたが回復せず、睡眠中に亡くなったという。

カナダ出身のストンパーさんはモンゴリアンスタイルの名悪役として知られ、60年代から90年代にストンピング(踏みつけ)を得意とした荒々しいファイトで活躍。米国修業時代のアントニオ猪木とタッグを組んだ経験もあり、日本でも日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体に参戦した。
★★★

2015年11月15日 (日)

【訃報】 ニック・ボックウィンクル死去/ダーティー王者と呼ばれた正統派レスラー

プロレスラーのニック・ボックウィンクルが11月14日亡くなりました。80歳。
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2015/11/16/kiji/K20151116011520570.html


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ダーティーチャンプと呼ばれました。
1970年代後半から1980年代にかけ、NWA世界王座に次ぎ、WWF(現WWE)王座より上位にあった、
AWA世界ヘビー級王座に長く君臨し、アメリカプロレス史に一時代を築きました。

ダーティーなヒール王者だが、リングを降りれば紳士などと言われました。
タイガ―・ジェット・シンなども同じような言い方をされますが、
ニックはシンのような凶悪ファイトをするわけではありません。

端正なマスク、適度にシェイプされたボディ、いかにも正統派という容貌で、リング上でも充分紳士に見えます。
王者時代の試合運びも、守り中心ながら概ね正統派のものなのですが、
防衛方法が、「反則負けやリングアウト負けでは王座の移動はない」というルールを逆手に取った卑怯なものでした。
例えば、負けそうになったらレフェリーに暴行して反則負けにしてしまうとか。

同時代にNWA世界ヘビー級王者として君臨したハーリー・レイスもダーティーチャンプでした。

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ニックとレイス

しかし、ニックは悪徳マネージャーのボビー・ヒ―ナンが付いてる分、ダーティーなイメージが強かった。
ヒーナンが乱入したら、反則負けで試合終了・王座防衛になってしまうのですから。

もちろん、ダーティー王者はビジネスとしてのもの。
ニックの足跡を主に日本での活躍を中心に、ごく簡単に振り返ってみます。
(wikipediaにも、日本での足跡については、意外なほど僅かな記述しかないですね)


ニック・ボックウィンクル
(Nick Bockwinkel、本名:Nicholas Warren Francis Bockwinkel、1934年12月6日 - 2015年11月14日)
父のウォーレン・ボックウィンクルも1930年代から1950年代にかけてヒールとして活躍した名レスラー。
父のコーチを受け、15歳の時になんとあの鉄人ルー・テーズ相手にデビュー。
以後は陸軍やオクラホマ大学に在籍しながらプロレスを続け、28歳でフルタイムのプロレスラーとなりました。

その後は各地を転戦して実績を重ね、1970年頃にAWA圏に入ります。
これと前後して同年、日本プロレスのNWAタッグリーグ戦に来日。
ジョニー・クインとのチームでアントニオ猪木・星野勘太郎組と決勝を戦いました。

AWAでは前述のボビー・ヒーナンをマネージャーにつけ、1972年にレイ・スティーブンスとAWA世界タッグ王座を獲得。
1974年には王者チームとして国際プロレスに来日。ラッシャー木村・グレート草津組の挑戦を退けました。

そして1975年11月18日、ミネソタ州セントポールでバーン・ガニアを下し、AWA世界ヘビー級チャンピオンとなりました。
既に40歳と遅咲きでしたが、以後1987年までの13年間で同王座を合計4回獲得し、
悪役王者ながらAWAの象徴的存在として、長く活躍しました。


国際プロレスで日本初防衛戦
戴冠した1975年当時、AWAは日本の提携先を国際から全日本プロレスに変えており、
ニックは3年後の1978年暮れの世界最強タッグリーグ戦にブラックジャック・ランザとのチームで全日初参戦。
なのですが、NWA至上主義の当時の全日本はAWA王者を呼んでも防衛戦はさせないという勿体ない事をしていました。
(そのかわり、1979年春にハワイでジャンボ鶴田が挑戦しています。ハワイはニックにとっても古巣。)

その為、日本でのAWAヘビー初防衛戦は1979年10月、一時的に提携復活した国際プロレスでのラッシャー木村戦となりました。
この時はルー・テーズがレフェリーを務めたのですが、ニックは相手がテーズでもしっかり突き飛ばし、反則負けで防衛しました。
その翌日には、テーズとドリームタッグを組んで、木村・草津組と対戦しています。

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ニックとテーズ

翌1980年3月に国際で大木金太郎の挑戦を受けた後、バーン・ガニアに敗れて一時的に王座転落。
この年の暮れに全日の最強タッグにAWAの若手正統派ジム・ブランゼルと組んで参戦しました。
ここではダーティーファイトの必要もなく、正統派の試合を披露。
日本にはヒーナンを帯同しなかったこともあり、汚い防衛はビジネスとしてのもので、
「やはりニックは正統派の名レスラー・実力派」とのイメージが定着しました。

このまま王者に戻らない方がいいのでは…などとも思わせましたが、ガニアの王座復帰は引退前の一時的なもので、
翌1981年のガニア引退後に王者復帰、再びダーティー王者としての日々が始まります。
翌1982年新春シリーズの全日再登場以降は、主に鶴田と王座をかけての攻防を繰り広げ、
1984年にはタイトルを奪取した鶴田がアメリカに乗り込んだこともありました。


1987年にリタイヤしてからも日本との関係は続き、
1990年には猪木のレスラー生活30周年イベントに参加。
その後、猪木との対戦が告知されたこともありましたが、残念ながら実現せず。
その後もUWFインターなどと関係を持ちました。


昭和の名レスラーまた一人逝く。
謹んで哀悼の意を表し、追悼の辞を記させていただきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、スポニチアネックスより引用
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2015/11/16/kiji/K20151116011520570.html
☆☆☆
日本でも活躍のプロレスラー、ニック・ボックウィンクル氏死去
往年の名プロレスラーのニック・ボックウィンクル氏が14日に死去した。80歳だった。ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙(電子版)など複数の米国メディアが15日に報じている。

ボックウィンクル氏はヘビー級の世界タイトルを保持し、日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスと、日本のプロレス団体にもたびたび参戦。ジャンボ鶴田らと対戦した。2007年には米プロレス団体WWEの殿堂入りも果たしている。

WWEは同日に「4度のヘビー級王者に輝き、WWEの殿堂入りも果たしているニック・ボックウィンクル氏の死という知らせに我が団体は悲しみに包まれている」と声明を発表した。死因は明らかにされていないが、プロレスOB会の「カリフラワー・アレイ・クラブ」のサイトでは「健康上の問題」とある。    [ 2015年11月16日 12:26 ]
★★★

2015年4月29日 (水)

■訃報【昭和プロレス】阿修羅原死去/国際プロレス時代 1979年の阿修羅原

2015年428日、元プロレスラーの阿修羅原が亡くなりました。68歳。

アメリカからは、20世紀プロレス史の大立者の1人、バーン・ガニアの訃報も伝えられましたが、

ここは原について書かせていただきます。


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阿修羅・原
 
(あしゅら はら 本名:原進 194718 - 2015428日 没年齢 68歳)

諫早農業高校在学中からラグビー選手として頭角を現し、
東洋大学を経て社会人では近鉄に所属、1970年に日本代表されました。
1976
年には日本人として史上初めて世界選抜メンバーに選出。
日本を代表するラガーマンとして活躍しました。

197711月に国際プロレスに入門。
既に30歳、遅い転向でしたが、アスリートとしての実績に加えて容姿もよかった原を、
国際プロレスは大々的にプッシュします。
(ただ、当時の国際は既にマイナー感が強く、さほど話題にもなりませんでしたが。)


1978629日の大阪府立体育館に寺西勇とのエキジビションマッチで正式にデビュー。
 
(その前に、試験的に覆面を被って出場していたといわれます。)
デビュー後すぐに約半年間の海外修業を経て、791月より国内本格デビュー。
同年5月にはWWUジュニアヘビー級王座を獲得。その後、海外再修業を経てヘビー級転向。

しかし、国際プロレスは1981年夏に活動を停止。
原は全日本プロレスに移籍し、天龍源一郎と遭遇します。
当時の全日は何度目かになる天龍の再売り出しを図っており、
キャリアに被る面もある原とは相性がいいと見たのか、移籍第1戦でシングル対決、
続く年末の最強タッグではコンビを結成して出場しています。

その後の、特に天龍との“龍原砲”としての活躍、そして波乱に満ちたプロレス人生はよく知られています。
何度かのプロレス界からの離脱・復帰を経て、1994年に引退し、故郷の長崎に戻りました。
当時47歳でしたが、この時点で満身創痍というイメージであり、その後の復帰はありませんでした。
最近は体がたいぶよくないことが伝えられていました。


さて、駆け足で原のキャリアを追ってみました。
原が真価を発揮したのは、全日本プロレス以降、
それも1987年より天龍と共に「天龍同盟」を結成、
龍原砲として革命に突き進んだ時代が
クライマックスというのが一般的な評価かと思います。

それに抗うわけではないですが、私は本格的に国内デビューした1979年の印象が強いのです。
ですので、ここから後は国際プロレス時代に絞って書かせてもらいます。


1979年の阿修羅原
カナダ、ヨーロッパを転戦した海外修業より帰国した原は、1979年の新春シリーズより国内の試合に本格参戦。
エース級の外人レスラーとも戦って善戦する一方、
5月には欧州から来た軽量級の正統派レスラー、
ミレ・ツルノに勝ってWWU世界ジュニアヘビー級王座を獲得。デビュー1年足らずでタイトルホルダーとなります。

夏には初来日だったあのダイナマイト・キッドの挑戦を受け、2度の防衛を果たしました。
タイトル戦は引き分けでしたが、ノンタイトル・ノ―TVのシングル戦でキッドにフォール勝ちしています。


秋には特別レフェリーとして11年ぶりに国際に来日し、ネルソン・ロイヤルやマーク・ロコ(後のブラックタイガー)との
タイトル戦を裁いたル―・テーズが原を天才と呼びました。

あくまで、デビュー1年そこそこのキャリアの割りにはという前提付きですが、

決して過剰なリップサービスということもなかったと思います。

その感想は、近年発売されたDVDで再見しても変わりません。


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当時の原はだいぶスリムで、いかにもトップアスリートといったバネのある印象。
グランドレスリングも俊敏にこなし、ドロップキックや、Wアームス―プレックスなど、
後年のイメージには合わない技も切れよく決めてました。


当時の必殺技はバックフリップ。
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エアプレーンスピンの要領で相手を抱え上げ、弾みをつけて後を倒れ込む技です。
アニマル浜口が先に使っていたと誤解している人もいるようですが、
浜口は元々エアプレーンスピンが得意技
でしたが、回転した後で横に投げ落とすスタイルで、
パックフリップに繫げるようになったのは、原がこの技を使い始めたのより後の事です。
原の場合は回転はせず、倒れ込んだ勢いそのままに後転し、フォールに入るム―プが特徴でした。

これはパワフルな技で、後年の原のイメージとそぐわないことはなく、使い続けてもよかったように思えますが、
全日移籍以降、TVマッチで一度見た記憶はありますが、ほとんど使わなかったかと思います。

もうひとつの得意技はラグビータックル。
実際のラグビーのタックルのように組みつくのではなく、体当たりで突き飛ばすスタイルでした。
この技は国際プロレス末期にはもう使っていなかったと思います。

これは、いつまでもラグビーを引きずり過ぎるのを避けて封印したのでしょう。
天龍が初期の天龍チョップ(相撲の突っ張りそのまま)を封印したの同じかも知れません。


その後の国際プロレスでの阿修羅原

さて、短いキャリアながら王者となり、大いに輝いていた1979年の原ですが、
この年の暮れ頃からでしょうか、やや動きが鈍くなったように感じていました。

1980
年が明けても状況は改善せず、素人目にもスランプ状態に映りました。
そのまま、春に年齢は原よりだいぶ下ながら、プロレスのキャリアでは大幅に上回る
剛竜馬、藤波辰巳と連続で対戦し、不本意な内容に終わりました。

海外再修業が発表されるもなかなか実現せず、1981年が明けてやっと渡米、
短期間で帰国し、ヘビー級として再デビュー、マイティ井上とタッグ王座を獲得するも、
既に国際は東京12チャンネルの定期放送を打ち切られており、終焉も間近という状態でした。

その後全日本プロレスで、色々ありながらも花を咲かせたのですから、いいプロレス人生だったかとも思いますが、
国際プロレスがもう少し存続していたらどうだったか、などと考える時もあります。

謹んで追悼の辞を記させていただきました。

Old Fashioned Club  月野景史



2015年1月 9日 (金)

【国際プロレス】ルー・テーズvs.グレート草津戦の真相 私論/“普通のプロレスの試合”

昭和プロレスファンには有名な伝説です。

1968年1月3日、前年設立された国際プロレスのTBS定期放送初回。
東京の日大講堂にてルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦したグレート草津は、
1本目にテーズのバックドロップで失神KO負け。2本目は棄権。
この無残な敗戦が尾を引いて、草津は大成できず、国際プロレスもまた不遇のまま幕を閉じた。



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グレート草津(1942年2月13日 - 2008年6月21日 66歳没)


「プロレスとは原則としてシナリオ(=ブック)があるもの」
この認識がほぼ一般的になった今でも、この試合についてはいまだに
「テーズが受け身の取れない技を仕掛けた。」
「未熟な草津が受け身を取り損ねた。」
というような、つまりアクシデント性の強いものだったとの見方もされます。
真実はどうなのか

最初に結論を述べますが、
私はこれは普通のプロレスの試合、つまりブック通りの展開だったと考えています。

ブックを書くのはマッチメイカー。当時の国際プロレスのマッチメイカーは日系悪役レスラーのグレート東郷。
ですから、この問題について考察するなら、東郷が何を意図していたかを考えねばなりません。
そしてキーワードは「大木金太郎」です。
以下、私論を記します。


◆テーズ戦定番のブック
1本目 テーズがバックドロップかテーズ式パイルドライバーからフォール勝ち。
2本目 相手がダメージが強く立ち上がれずに試合放棄(棄権)

これ、実はテーズのとの3本勝負での定番のシナリオなのです。

古くはあの力道山も、日本プロレス設立前の1953年にハワイで同じ展開で敗れていますし、
日本でもテーズが参加した1962年の日本プロレスWリーグ戦では遠藤、吉村らセミファイナリストクラスや
若手の大木との試合で、試合詳細はわかりませんが、同じ展開と思われる結果が残っています。
この時はリーグ公式戦はラウンド制で行われており、テーズのシングル3本勝負は力道山と戦った優勝戦と、
数試合の非公式戦だけなのですが、記録を見る限り、優勝戦以外はすべて同じ展開なのです。

このシリーズには、当時日プロのブッカ―(外国人レスラー招聘窓口)を務めていたグレート東郷も出場していました。
当然、マッチメイクにも絡んでいたでしょう。

そして6年後、紆余曲折の末、国際プロレスのブッカ―に就いていた東郷は自ら来日してマッチメイクも手掛けていました。
当然、テーズ対草津戦のマッチメイクも東郷によるものでしょう。
そして、いわばおなじみ・定番のマッチメイクを行ったのです。

では、そうだったとして、疑問は大きく三つ。

1.東郷がそうした意図は?
2.TBSの意向は?
3.将来を潰された草津は?


なるべく簡潔に記していきます。


◆東郷はなぜこのようなマッチメイクをしたのか。

これには様々な思惑が絡んでいるでしょうが、最大の理由は大木金太郎です。

東郷は大木を日本プロレスから引き抜こうとしていました。
テーズ対草津から約2週間後の1月17日の宮城での試合に大木を来場させ、参戦を宣言させる段取りでしたが、
間際で日プロ側の巻き返しにあって実現しなかったといわれます。
これは有名な話なので、真偽を云々する必要はないでしょう。

大木を引き抜くためには、エースの座を空けておかねばなりません。
草津をテーズに勝たせて王者にするわけにはいかなかったのです。
この点については、大木を引き抜いてエースに据えたところで、日プロに対抗できるのかという疑問もあります。
しかし、東郷がその時点でそれがベストと考えて実行しようとしたことは事実です。
である以上、草津をテーズに勝たせなかったのは、大木の為と考えるのが、やはり妥当です。

東郷の大木引き抜き工作はよく知られているのに、なぜかテーズ対草津と関連付けて語られる事はありませんでした。
大木が、草津が王者になった後、その二番手以下として国際に移籍するなど考えられません。
「大木を引き抜いてエースに」と決めていた東郷からすれば、草津をテーズに勝たせないのは当たり前なのです。

ただし、定番とはいえ、何故あの負け方にしなければならなかったかには疑問が残ります。
もっと、健闘空しく“惜敗”といえる負け方でも、特に問題があったとも考え難いです。
敢えて深読みすれば、そこにはTBSとの関係が絡んでいるのかも知れません。


◆TBSは何を考え、求めたのか?
草津をエースにというのはTBSの意向でした。
これ自体、実績の乏しい草津をテレビの力でエースにできるなどと、TBSのおごりだとの批判がされてきました。

しかし、国際プロレス吉原功社長と同期の早大OBで、TBS運動部副部長だった森忠大氏の最近のインタビューで、
猪木が抜け、ヒロ・マツダが抜けた状況で放送開始を控え、社内やスポンサーを納得させる為にも誰かをエースにせねばならない。
消去法で草津以外にいなかったからという、積極的ではない、苦肉の選択だったと語られています。
私は、このインタビューは全体に整合性があり、比較的信用度の高いものだと思っています。

おそらくTBSサイドは、プロレスが完全にシナりオ通りにやるものだとまでは思っていなかったのでしょう。
ただ、プロモーターやマッチメイカーの権限で、ある程度はコントロールできるものだとは考えており、
草津の勝利を東郷に要望したのではないでしょうか。

しかし、東郷は大木の引き抜きを決めていた。
この大木の引き抜き工作は相当きな臭い面があり、東郷はTBSにも秘密で進めていたのでしょう。
そこで東郷は、TBSに対して言い訳が立つよう、アクシデントに見えるブックで草津を負けさせたのだと考えられます。
あくまでひとつの推論に過ぎませんが、一応の筋は通っているかと思います。


◆グレート草津の悲劇?
ここまで述べてきたのがテーズ対草津戦マッチメイクの真相だと考えています。
しかし、このような政治的理由のために、充分な素質を持っていた草津の将来が潰されたとしたら、
草津があまりに気の毒では? とも思えます・・・が。

いや、この件はそもそもそんな風に考えるのがおかしいのです。
この時の草津は国内では前座戦の経験しかなく、アメリカでも大した実績のないグリーンボーイです。
テーズに勝つ方がおかしいのです。

猪木の場合
この4年後、新日本プロレスを創立したアントニオ猪木は
旗揚げ初戦でカール・ゴッチに完敗しました。
猪木は日本プロレスで馬場と並ぶエースで三冠王でした。
それが、一時期は引退状態だったゴッチに負けるとは、草津よりはるかに傷跡は深い筈ですが、
まったく、問題になどならなかったでしょう。

これは逆にいえば、既に日プロ時代の猪木のイメージがあるから、
一度の負けくらいは問題にならなかったともいえます。
しかし、猪木はその後、ゴッチの王座に大舞台で挑戦するというストーリーに繫げました。
ゴッチ以外に大物を招聘するメドが立たなかったから、ゴッチを祭り上げたとも思えます。
ですが、まずはリビングレジェンドの大レスラーに負け、そこから改めてスタートをする。
こちらの方が明らかに王道のストーリー作りでしょう。


対して草津です。
グリーンボーイが絶対的世界王者に勝ってデビューとなれば、たしかにセンセーショナルです。
しかし、少し先を見据えれば、まずは負けて、そこから這い上がるというのが、物語としてはやはり正統です。
別に大木の問題などなくても、最初は敗戦からスタートするのが、真っ当なマッチメイクでしょう。

東郷が、草津のために先々のストーリーを考えていたのかまではわかりません。
それからまもなく、ビジネス上のトラブルで国際と決別してしまいましたから。
しかし、実績のある大木を引き抜き、とりあえずエースに据えたとしても、
大木は、草津やサンダー杉山より10歳以上年長です。
草津達はまた改めて売りだせばいいと考えていたとしても、おかしくはないでしよう。

たしかに草津は15年の国際プロレスの歴史の中で、一度も単独でエースなることはありませんでした。
それには様々な要因があるでしょう。
私は、本人にその意向がなかったのが一番かと思っています。
草津は、団体内の序列をコントロールできるマッチメイカーの立場に長くいたのですから。
いずれにしろ、テーズ戦のために草津がエースになれなかったというのは、結果論に過ぎません。

以上、私見をなるべく簡潔にまとめました。

Old Fashioned Club  月野景史

2014年10月21日 (火)

【訃報】オックス・ベーカー死去/昭和プロレス伝説の悪役レスラー逝く

アメリカの元プロレスラー、オックス・ベーカーが10月20日に亡くなりました。80歳。
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2014/10/21/kiji/K20141021009141570.html


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オックス・ベーカー
(Ox Baker、本名:Douglas Allen Baker、1934年4月19日-2014年10月22日 )

1960年代~80年代、全米・カナダのみならず、オーストラリア、南アフリカ、日本など、
世界を股にかけて暴れた悪役レスラー。狂った猛牛=狂牛などと呼ばれました。

198cm、150kg(全盛時)、剛毛に覆われた巨体。
スキンヘッドに八の字ヒゲと吊り上った眉毛。一度見たら忘れない風貌。
これぞヒール、レジェンド。悪役レスラーの象徴でした。

動きは鈍く、グランドレスリングは出来ない、殴る蹴るだけ。
顔と体、野太い声、生肉をかじるパフォーマンスが“武器”。
二人のレスラーをリング上で殺害、米マット史に残る暴動騒ぎの主犯、
そして、日本でも金網デスマッチで、あのラッシャー木村の足を骨折させた。
数々の、禍々しい伝説に彩られた、究極のB級レスラーでした。

その素顔は・・・、いたって穏やかな好人物といわれます。
そして、引退後も往年の風貌を維持して、過去のイメージを崩さず、
“オックス・ベーカー”であり続けた、真のプロフェッショナルでもありました。


1934年ミズーリ州生まれ
兵役を経て1962年に28歳でデビューなので、プロレスラーとしてはたいぶ遅いスタートです。
意外にも最初はベビーフェイス(善役)で、MSG等で大物ヒール達のジョバー(負け役)をやっていました。
当時はもちろん、上の写真のような風貌ではありませんでした。

この頃から「オックス」を名乗っており、日本では後年、「猛牛」などと呼ばれましたが、
「OX」は牛は牛でも、去勢された家畜牛の事で、転じて「のろま」などの意になります。
元々は、このベビーフェイスのジョバー時代のイメージなのでしょう。


リングの殺し屋の誕生
やがて、巨体を生かしたヒールへ転向していくのですが、
そのベーカーを襲ったのが、2度にわたるリング禍でした。
1971年6月13日、ネブラスカ州オマハでアルバート・トーレス、
1972年8月1日、ジョージア州アトランタでレイ・ガンケルが、
ベーカーとの試合後に死亡したのです。

いずれも不幸な事故であり、ベーカー自身も苦悩したようですが、
プロレスの世界では、これは勲章になります。
また、そうしていかねば生きていけません。
ベーカーが放つ心臓部へのパンチ攻撃(ハート・パンチ)は殺人パンチとして恐れられ、
超凶悪ヒールとして、その悪名は全米から国外にまで響き渡ります。
(日本では、なぜかパンチではなく、殺人キックとして伝えられていました。)


The Cleveland Riot(クリーブランドの暴動)
日本ではあまり知られていませんが、ベーカーはもうひとつ大事件に関わっています。
1974年1月31日、オハイオ州クリーブランドでジョニー・パワーズvs.アーニー・ラッドの試合に乱入し、
米マット史に残る観客の暴動騒ぎをまき起こしたのです。
ベーカーとしては、マッチメークの通りに仕事をしただけで、不幸なアクシデントでしたが、
これもまた、ヒールとしての箔付けになりました。

問題のマッチメークの仕掛け人であるプロモーターは、当事者の1人でもあるジョニー・パワーズです。
パワーズはアントニオ猪木のライバルとして知られ、キャリアにおいて猪木との類似点が指摘されますが、
猪木も後年、新日本プロレスの興行で複数回の暴動騒ぎを起こしました。
変なところまで似ています。

ともかく、悪役としてのいくつもの勲章を手にしたベーカーは、
アメリカ、カナダのみならず、オーストラリア、ニュージランド、プエルトリコ、南アフリカ、そして日本と、
世界を股にかけ暴れまわり、数々のタイトルを手中にしました。


日本でのベーカー
日本には前述の米国でのリング禍の以前、1969年に国際プロレスに初来日。
2度目の登場の1970年12月12日、台東区体育館大会でのラッシャー木村との金網デスマッチでは、
パイプ椅子で木村の脚を乱打し、左足を骨折させています。
アメリカに先駆けて日本で、凶暴な伝説を作っていたのです。

この時期の国際プロレスへの3度の来日後、
1975年に全日本プロレス、1978年と79年に再び国際プロレス、
1980年に新日本プロレスと、昭和後期の3団体を制覇しました。

しかし、総じて日本での評価は高くなく、戦績も今ひとつでしたね。
タイトルの獲得もありませんでしたし。
特に因縁のパワーズと組んで参加した新日本の第1回MSGタッグリーグは最悪の成績で、
これが最後の来日となりました。

「動きがのろい」「レスリングができない」「凄いのは顔だけ」「でくの坊」
間違ってはいないかも知れませんが、やや不当な低評価だったと、私は思います。


レスラー晩年~引退後
日本での評価はともかく、アメリカではその強面を生かして、
映画『バトルクリーク・ブロー』(1980年 / ジャッキー・チェン主演)、
『ニューヨーク1997』(1981年 / ジョン・カーペンター監督、カート・ラッセル主演)、
などの作品で敵役を演じ、俳優としても実績を残しました。
レスラーとしての引退は1988年、54歳までの現役生活でした。
その後は後進の育成にも携わりました。

そして、2000年以降も、かつてのイメージを損なわない風貌を維持し、
メディアやイベントにも登場していました。
近年の画像を紹介しましょう。


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因縁深きジョニー・バワーズ(左)と。(2009年4月にテレビ出演した際の写真)



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これもレア。全日本プロレスへの唯一の来日で一緒だったアブドーラ・ザ・ブッチャーと再会。
2010年のイベントのようです。


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ハ―リ―・レイスと。年代は不明ですが、結構最近の写真のようにも思えます。



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ベーカー(右 後姿)が作った料理を振る舞われるパワーズ(左)と、中央は“キングコング”アンジェロ・モスカ。
2008年制作の、パワーズがプロデュースするテレビ番組の一コマのようです。


最後までプロフェッショナルを貫いたレジェンド、オックス・ベーカー。
紹介した引退後の写真からも判るように、その素顔は穏やかな好人物だったと聞きます。
謹んで追悼の辞を記させていただきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、スポニチアネックスより引用
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2014/10/21/kiji/K20141021009141570.html
☆☆☆
オックス・ベーカーさん死去 80歳…怪物的ヒール 映画出演も 
「狂牛」のニックネーム、特徴的なスキンヘッドや極太の眉毛とヒゲで知られ、1960~80年代に怪物的なヒール(悪役)として活躍した元プロレスラーのオックス・ベーカーさんが20日、心臓発作のため亡くなった。米メディアが報じた。80歳。米ミズーリ州出身。

1962年にデビュー。70年代に入ると、一躍ヒールのトップスターになった。74年、WWA世界ヘビー級王座を獲得。アンドレ・ザ・ジャイアント、ボボ・ブラジルらの強豪を相手に、1年以上にわたって王座を保持した。88年に引退した。2人のレスラーを死に至らしめたリング禍もあった。
69年に初来日。70年12月には、ラッシャー木村と金網デスマッチ。パイプイスで木村の左足を乱打し、骨折させた。

アクション映画の悪役としても活躍。ジャッキー・チェン主演「バトルクリーク・ブロー」、カート・ラッセル主演「ニューヨーク1997」などに出演した。 
[ 20141021 11:30 ]
★★★

2014年3月26日 (水)

【昭和プロレス】『Gスピリッツ Vol.31』は旗揚げ60周年記念 日本プロレス特集

今日、3月26日発売されたプロレスムック『Gスピリッツ』 Vol.31のテーマは、
「旗揚げ60周年記念特集 日本プロレス」です。

G_sp_20140326_2

キャッチとして「最強にして最狂のプロレス団体がここにある!」
なんとも過激な煽りがここにあります。

そして、今回はあのアントニオ猪木の10ページに及ぶインタビューが掲載されています。
しかし、敢えてそれを巻頭に持ってこず、
表紙でも、猪木の名を一番上にはしていますが、特に大きく扱ってはいない。
ここらは、Gスピリッツらしい、といえるのかどうか・・・。

では、何が巻頭に来ているか?
京谷泰弘氏のインタビュー記事です。

京谷泰弘氏は日本プロレス中継を放送した日本テレビのプロデューサー。
1954年の最初の放送からスタッフとして携わり、
1957年にはプロデューサーに就任しています。

この1952年は日プロ中継のレギュラー放送の始まった年ですから、
まさに最初期から日テレ側の責任者だった人です。
失礼ながら、こんなキャリアの人が、ご健在というのも驚きです。
いったい何歳なのか?
百歳越え??

京谷氏は1930年生まれとのことで、今年84歳。
ということは、プロデューサーになったのが27歳。
今の感覚だと、随分若いですね。

京谷氏の記事は14ページにわたります。
このキャリアな人だから、大変貴重な証言だし、おもしろいです。
裏事情にも随分精通しているようです。

興味深かったのはジャイアント馬場と猪木についての発言。
このポジションにいた人ですから、
日テレとの関係に殉じた馬場を良く言って当然のように思えますが、
圧倒的に猪木に対して高評価でした。


さて、巻頭から外れた猪木のインタビューのテーマは「“若獅子”の青春時代」。
渡米修業に出る前、1960年4月の入門から、196312月の力道山死去まで、
3年半に絞っての証言で、なかなかおもしろいです。
そして、猪木はちょっと意外な事を語ったようです。


「馬場や猪木ら若手レスラーは、力道山から猛烈な特訓でしごかれ、鍛えられた。」
多くの人達が抱いているイメージだと思います。

おそらく、そのイメージを前提しての質問でしょうが、
人形町の道場で、力道山は猪木ら若手レスラーを指導することはあったか?
との問いに対する猪木の答えは「ないですね」!
きっぱり否定されてしまいました。

これはちょっと驚きました。
もちろん、力道山が毎日道場に詰めて、若手を指導とていたとは思っていませんでしたが、
まったくなかったとは、さすがに意外でした。

ただ、これは人形町に道場があった頃の話なので、
渋谷のリキ・スポーツパレスが完成し(1961年7月)、道場も移った後は別なのかも知れません。
でも、だとしたら、猪木もそう言いそうなものです。
記事から受ける印象では、人形町か渋谷かは問わず、
道場で力道山からしごかれた記憶は一切ない、と言ってるように感じます。

これが末期の国際プロレスのように、本社は高田馬場、道場は大宮というような環境だと、
社長や幹部クラスのレスラーが行くことはあまりない、というのもわかりますが、
特に渋谷のリキ・パレスには日プロ本社、試合会場、道場のみならず、
力道山経営の娯楽施設も複数入っていたと聞きます。
その環境なら、力道山がしばしば顔を出していたとしても、おかしくないように思えますが。


また、よくいわれる、力道山が他者に席を外させた密室状態の場所で、
馬場と猪木と大木の3人に、徹底的にガチのスパーリングをさせたことがある、
との説についても、「知らない」と一蹴されています。

たしかに猪木は、「力道山が自分たち若手を直接指導したことはない」と言っているのだから、
こんなこともなかったということになります。

ちなみに、馬場はリキ・スポーツパレスが完成する直前くらいのタイミングで渡米しており、
戻って来た時はメインエベンターの扱いです。
しかもまたすぐに再渡米してしまい、次の帰国は力道山の死後、その時は猪木が渡米中ですから、
もしこのスパーリングの話が本当なら、馬場の帰国後の事とは考え難く、
馬場と猪木の入門から、馬場の渡米(=パレスの完成)までの
1年ちょっとの間ということになるかと思います・・・が、果たして、スパーリングは真実なのでしょうか。


話は変わって、猪木の記事では、マンモス鈴木のついての証言も貴重です。
同誌では毎号、国際プロレス関係者の証言が掲載されていますが、
鈴木についての言及は極めて少ないので。

猪木によると、鈴木は面倒見がよく、かわいがってもらったとのこと。
これは、国際プロレス末期に専門誌に鈴木自身が書いていたコラムから、
私が受けた印象とピッタリ重なるので、嬉しく感じました。
またも、レスリングは弱かったが、
ボクシングをやっていたので殴り合いに強かったとのこと。


日プロ特集は他に、

「北沢幹之×グレート小鹿  闘論――なぜ俺たちは対立することになったのか?」
「門馬忠雄 至近距離から見た豊登~BI時代」


どちらも大変おもしろいですが、
旗揚げ60周年記念特集と銘打っている割には、
ちょっとボリュームが少ないようにも感じました。
といっても、証言出来る人は限られており、贅沢はいえませんが。

国際プロレス特集はマイティ井上が登場。
前号のファンクスに続き、今号ではハ―リ―・レイスと、
日本とも関わり深い、米マットの超大物も登場しています。


全内容は以下の通り。
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G SPIRITS Vol.31
旗揚げ60周年記念特集 日本プロレス

■京谷泰弘
水面下で消滅した「力道山vs木村政彦の再戦」と「豊登vsカンガルー大晦日決戦」

■アントニオ猪木
“若獅子”の青春時代

■北沢幹之×グレート小鹿
闘論――なぜ俺たちは対立することになったのか?

■門馬忠雄
至近距離から見た豊登~BI時代

<スペシャルインタビュー>
■ハーリー・レイス
元NWA世界チャンピオンの帝王学

■ロイ・ウッド
ウィガンからのメッセージ

<英国軽量級レジェンド対談>
■ジョニー・セイント×クン・フー
追想――土曜午後の英国プロレス

<連載>
■グレート東郷 「銭ゲバ」と罵られた男の戦前・戦後史
【最終回】潰されたドリー・ファンク・ジュニアvsシャチ横内のNWA世界戦

■ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
―ロス登場から初来日までの1033日―
【最終回】AWAでストロング小林と激突

■アリーバ・メヒコ
ブラックマン&ホワイトマン
白黒忍者コンビが30年ぶりに再会!
【前編】“早熟の天才児”アルベルト・ムニョスの快進撃

■ドクトル・ルチャのミニ講座
アルベルト・ムニョスが巻いたナショナル・ウェルター級王座
このベルトは初代か、それとも2代目か!?

■実録・国際プロレス
【第21回】マイティ井上

■発売日 2014年3月26日
■出版社 辰巳出版
https://bemss.jp/g-spirits/cont111_003_013.php?kmws=vn06hhrsg67k6bpkojiobhp403

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Old Fashioned Club  月野景史

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