35.昭和プロレス

2024年1月 6日 (土)

【昭和プロレス】キラー・カーン対アンドレ・ザ・ジャイアントの足折り試合は本当にあったのか?

昨年末に亡くなったプロレスラーのキラー・カーンについては追悼ブログを記しました。
その際に、カーンの現役時代のハイライトとして、アンドレ・ザ・ジャイアントとの足折り試合について少し書きました。
1981年5月、アメリカのメジャープロレス団体WWF(現WWE)での試合で、
当時世界最強といわれ、またプロレスラーとして世界一の大スターだったアンドレに
カーンが必殺のダイビングニードロップを見舞い、足首を骨折させたという試合です。
その後、復帰したアンドレとカーンとの抗争はドル箱カードになりました。
昭和プロレス史の伝説のひとつです。

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カーンとアンドレ ※この写真は日本での試合です。


この足折り事件については、色々言われています。
アンドレは自分で足を痛めてしまい、それに気づいたカーンが自分の攻撃のせいのように装ったとか。
むしろこのような見解の方が主流かも知れません。

しかし、今日はそのことを書こうというのではありません。
そもそもこの試合が本当にあったのかという疑問についてです。

何をバカなことをと言われるかも知れませんが、なぜそう思うのかを説明します。

Wrestlingdata.com」というプロレスの試合記録を集成した膨大なサイトがあるのですが、
そこに、この試合に該当する記録が見当たらないのです。


「Wrestlingdata.com」の信憑性
もちろん「Wrestlingdata.com」に古今東西のプロレスの試合記録がすべて掲載されているわけではありません。
特にネットのない時代については、なんらかの形で残っていた記録を手入力でアップした筈です。
当然、記録に残っていない試合もあるし、誤りもあるでしょう。
ただ、80年代といえばプロレス史では大昔でもないですし、その時代のWWFは超メジャー団体です。
詳細な記録が残っており、有名な足折り試合の記録がないとしたら、少しおかしいともいえます。


そもそもこの試合はいつ、どこで行なわれたとされているのか?
所説あるので紹介します。

◇カーンの自伝=1981年4月13日 ニューヨーク州ロチェスター
◇Wikipedia日本語版 =1981年5月2日 ニューヨーク州ロチェスター
◇Wikipedia英語版 =「During one match in May 1981」(1981年5月のある試合中)
※英語版のWikiの記述がなんとも微妙です。

「Wrestlingdata.com」によると、
自伝にある4月13日にはたしかにロチェスターでアンドレ対カーンは行われています。
ただし、アンドレは翌日からも試合に出続けており、この試合で骨折したとは考えられません。

この後、カーンはWWFでのサーキットを続けますが、
大スターのアンドレは一箇所には長く留まらず、4月18日を最後にアメリカ南部に転戦します。

ではWikipedia日本語版の5月2日はどうか?
「Wrestlingdata.com」ではこの日、カーンはボストンでドン・デヌーチと対戦しています。
この「ボストン」には聞き覚えがあります。
リアルタイムの記憶では、足折り試合はボストンで行われたと伝えられたと思います。

アンドレ側の記録は?
こちらは4月18日以降、南部を転戦し、前日の5月1日にフロリダでバトルロイヤルに出場した記録が残っています。
5月2日以降は消息が途絶え、次の試合記録は6月24日、WWF圏のコネチカット州です。
カーンの方は4月~6月はWWFに定着しての試合記録がびっちり残っています。


「Wrestlingdata.com」をたどる限り、アンドレは50日以上リングから離れているようですが、
その前にカーンとの足折り試合が行なわれた形跡は見当たりません。
そもそも両者のこの時期の記録が残ってないなら、足折り試合もたまたま記録がないだけだと思えますが、
カーンの試合記録がハッキリしているだけに、あくまで「Wrestlingdata.com」の記録をベースに考えればですが、
どうもこの試合は実際には行われていない、架空の試合の可能性があります。

とりあえず他の調査方法がないので、これ以上の探求は難しく、今回は疑義を提示するたけにしておきます。


なぜ架空の試合
ただ、もしこの試合が実際に行われていない架空の試合だとしたら、なぜそんなことになったのか?
これはプロレスという分野なら、推測はそう難しくありません。
以下のようなことが想像できます。

「アンドレがなんらかの事情で試合を欠場することになった。
→カーンに足を折られたという設定を作り、因縁のカードとして売っていくことにした。」

プロレスの世界なら、あり得なくもないストーリーです。
あくまで私の空想ですが

Old Fashioned Club 月野景史

2023年12月30日 (土)

【昭和プロレス】キラー・カーン死去/80年代アメリカマットを席巻したヒールの大スター

訃報 元プロレスラーのキラー・カーンが亡くなりました。76歳没
経営する西新宿の飲食店の営業中に亡くなったようです。
https://www.nikkansports.com/battle/news/202312300000632.html

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キラー・カーン
(Killer Khan、1947年3月6日 - 2023年12月29日
新潟県西蒲原郡出身 本名:小澤 正志(おざわ まさし)


私は2017年にカーンの自伝発売を記念したトークライブに参加しており、そのことを当時のブログに記しました。
『キラー・カーン自伝』発売記念トーク&サイン会 in 新大久保キラーカンの店/「カーン」か「カン」か?

このイベントは新大久保にあったカーン経営の「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」で開催されました。
この店は閉店しており、カーンが亡くなったのはその後にオープンした別の西新宿7丁目の店です。

キラー・カーンは日本出身で、大相撲から転身したレスラーですが、
1980年代のアメリカマットでモンゴル人ヒール「キラー・カーン」を名乗り大きな成功を集めました。
改めて、彼の足跡をたどってみます。


カーンかカンか?
ところで、訃報記事や自伝タイトルは「キラー・カーン」とありますが、店の名には「キラーカン」とあります。
これはどういうことか?

この件については自伝に書かれています。
現役時代、メディアも私達ファンも「キラー・カーン」と呼んでいました。
しかし、このリングネームは元々アメリカで名付けられたもので、かのジンギス・カンに由来します。
つまり、本人の認識としては本来「カン」で、日本では誤って「カーン」と定着してしまったのです。
ファンには「カーン」に馴染みがありますし、
そこを考慮して自伝のタイトルも「カーン」採用したとのことですが、
本人の意向としては「カン」であり、自分の店はそう名付けたのです。


“キラー・カーン”誕生の経緯
それにしても、なぜ新潟生まれの日本人・小沢正志がモンゴル人・キラー・カーンとなったのか?
命名までの経緯を簡単に記します。

小沢正志は大相撲出身。1971年に馬場・猪木が並び立っていた時代の日本プロレスに入門し、
その後、日プロの分裂に伴い、新日本プロレスに移籍します。
1978年に海外修行でメキシコに渡り、プロモーターの要請によりモンゴル人「テムヒン・エル・モンゴル」としてデビュー。
翌1979年、アメリカのフロリダに入り、モンゴル人キャラはそのまま「キラー・カーン」となり、
フロリダを主戦場とする全米一の人気者だったダスティ・ローデスらとの抗争で名を上げ、
一躍ヒール(悪役)のトップスターとなったのです。

この当時、日本のファンの海外、特にアメリカマットへの関心は高く、
専門誌は米国からの情報掲載に大きなスペースを割いていました。
特にフロリダは繁栄マーケットとして注目度が高く、
蒙古人ヒール「キラー・カーン」、実は新日本プロレスの小沢のトップクラスでの活躍は大きく紹介されました。

その後、米国南部を転戦し、1980年にはニューヨークを拠点とするWWF(現WWE)に入り、
ヘビー級王者のボブ・バックランドや大スターのアンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争で、ここでもトップヒールとなりました。
翌1981年には有名なアンドレの足折り事件があり、更に悪名を轟かせます。


日本での三大見せ場
アメリカでの活躍は日本も伝られ、カーンは1981年2月に凱旋帰国を果たします(足折り試合よりは前)。
当初は悪役として外国人サイドに付くという話もあったのですが、結局日本陣営に入り、
新日本プロレスのエース アントニオ猪木のパートナーとして、タイガー・ジェット・シン上田馬之助
トップヒール勢を相手に勇猛ファイトを展開し、大いに注目を集めました。

その後、米国に戻ってまもなくアンドレ足折り事件が起きます。
細かい経緯は割愛しますが、結果的にこの因縁を売りにしてアンドレ対カーンは更にドル箱カードになりました。
翌1982年春のMSGシリーズにはアンドレと共に参戦、負傷欠場した猪木に代わり優勝戦に進出、
アンドレと名勝負を繰り広げ、敗れましたが更に名を挙げました。

更に同年暮れにはタイガー戸口とのコンビでMSGタッグリーグ戦に出場。
猪木&ハルク・ホーガン組と優勝戦を戦いました。

この3点、特にアンドレとの試合がカーンの日本での活躍のピークだと思います。

翌1983年からは長州力の維新軍に加担し、猪木、坂口征二、藤波辰巳に新日正規軍と敵対するようになります。
私は、これはあまりよくなかったのではないかと思っています。

1985年は長州らと同道してジャパン・プロレスに参加、戦いの場を全日本プロレスに移します。
維新軍参加後も北米と往復しながらの転戦で、最後はWWFの全米侵攻に参加し、
スーパースターとなっていたハルク・ホーガンとの抗争を展開、1988年にアメリカでの試合を最後引退しました。


アメリカで大活躍した日本人レスラー
ここまで書いてきた事からもわかるように、
カーンはプロレスの“本場”アメリカで大きな成功を果たした日本人レスラーです。
昭和の時代の米国マットでの出来事はもちろん伝聞ですし、特にプロレスの情報は虚実が混在します。
まして、時代や地域が違えば比較は難しいでのすが、得られる情報から極力客観的に判断して、
カーンは間違いなくアメリカで最も成功した日本出身の日本人レスラーの一人です。
もしかしたらNo.1と言っていいかも知れません。

引退後のカーンは「キラーカン」として、新宿近辺で移転を重ねつつ飲食店を経営しました。
後年のカーンはたまにメディアに出ると、特定のプロレス関係者に対する批判をするようになりました。
その内容は理不尽にも聞こえ、素直に納得できるものではないことも多かったです。
晩年はYouTube等での発信もあり、更に極端になっていった面もありました。

ただ、前述のトークライブでもそのような発言はあったのですが、
語り口がいかにも好人物で、ついうなずいて聞いてしまうような面もありました。

昭和の名レスラーに。謹んで哀悼の意を表します。

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Old Fashioned Club 月野景史

2023年8月26日 (土)

【昭和プロレス】テリー・ファンク死去/日本で最もヒーロー・アイドル的人気を誇った外国人レスラー

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訃報 元プロレスラーのテリー・ファンク氏が亡くなりました。
おそらく、日本マットでもっともベビーフェイス(善玉)としての人気、
ヒーロー、そしてアイドル的ともいえる人気を誇った外国人レスラーでしょう。


テリー・ファンク
(Terry Funk 1944年6月30日 - 2023年8月23日 79歳没)
アメリカ合衆国 インディアナ州ハモンド出身、テキサス州アマリロ育ち。
第51代NWA世界ヘビー級王者。
実兄のドリー・ファンク・ジュニアは第46代NWA世界ヘビー級チャンピオン。
父のドリー・ファンク・シニアもプロレスラー。
兄とのタッグチーム「ザ・ファンクス」でも活躍し、「テキサス・ブロンコ」、「テキサスの荒馬」などと呼ばれた。
映画俳優、プロデューサーとしても活動。


かつて最も権威のあった頃のNWA世界王者に兄弟とも君臨した超名門ファミリー。
ただ、正統派王者の雰囲気のあった兄ドリーに対し、どちらかと言えばじゃじゃ馬の暴れん坊のイメージ。
王座在位期間も兄に比べ短く、テリーが王者として全日本プロレスに来日した際は、
エースのジャイアント馬場は挑戦しないなど、兄と比べてやや軽く見られている面がありました。

そのテリーが日本で大ブレイクしたのはNWA王座陥落後の1977年暮れ。
全日本のオープンタッグ選手権にファンクスとして出場し、
アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シークの超凶悪コンビと流血の抗争の末、優勝を果たした時でした。
凶悪コンビの凶器使い放題の攻撃に耐え、反撃する姿はファンを熱狂させたのです。

ファンク兄弟としてのブレイクでしたが、だいぶ老成したイメージになっていたドリーに対し、
テリーも33歳と若くはなかったですが、アイドル的風貌も残してはおり、爆発的人気を得ました。

それまでも人気のある外国人レスラーはいましたが、基本的には日本人レスラーの前に立ちふさがるヒールの立場です。
ファンクスは外国人の凶悪ヒールと戦うことにより、絶大なヘビーフェイス人気を獲得したのです。
外国人ベビーとしては、日本陣営に入ったビル・ロビンソンザ・デストロイヤー
テリーのブレイクと同時代のアイドル的存在といえばミル・マスカラスもいましたが、
あそこまでの熱狂的支持を受けたのはテリーだけでしょう。

それは、ブッチャー&シークのヒールとしての技量と表裏一体ではありますが。
やられても、やられても不屈の闘志で凶悪レスラーに立ち向かう、
例えていえば、表現技法は違うかも知れませんが、
タイガー・ジェット・シンら凶悪ヒールと戦う時のアントニオ猪木にイメージは近かったと思います。


どちらかといえば、新日本プロレス派、猪木派、そして国際プロレス好きだった私も、
入場テーマ曲『スピニング・トーホールド』の乗って登場するファンクスをワクワクしながら見守ったものでした。


プロレスの聖地「テキサス アマリロ」
本項はファンクスがブレイクした1977年から書き始めましたが、
ファンクファミリーと全日本プロレスはそれ以前から緊密な関係にありました。

1972年の全日本設立に当たり、日本テレビとジャイアント馬場は外国人レスラーの招聘ルート開拓に動きましたが、
意外なほど苦戦したようです。

ドリー・ファンク・シニアは現役レスラーであり、テキサス州アマリロ地区の興行権を持つプロモーターでもありました。
近年の関係者証言によりますと、当時アメリカで試合をしていて、全日本への移籍が内定していたマシオ駒と大熊元司が
シニアと話を付けて、招聘窓口になってくれたのだそうです。

更にその後、スター候補生として全日本に入団したジャンボ鶴田天龍源一郎らはアマリロのファンク一家の元での修行から、
プロレスラー生活をスタートさせました。
そして、鶴田と同時代には若手だったスタン・ハンセンボブ・バックランドもアマリロで試合をしていました。
後のファンクスのブレイク、そして1980年前後にハンセンが新日本プロレスで大ブレイクすると、
NWA王者兄弟、そして鶴田、ハンセン、バックランドら次代のスターを育てたアマリロは
改めて“プロレスの聖地”的なイメージで注目されたのです。

ただ、その頃にはシニアは既に亡く、
後を引き継いだジュニアとテリーも80年頃までにはアマリロの興行権を譲渡してしまっており、
“プロレス王国アマリロ”は過去の伝説になってしまっていたのですが。


昭和プロレス・・・と書きましたが、ファンクスは平成になってからも長く現役を務めました。
忘れ得ぬ名レスラーに謹んで哀悼の意を表します。


Old Fashioned Club 月野景史


以下、スポニチアネックスより引用
https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2023/08/24/kiji/20230824s00003000321000c.html 

「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンクさん死去 79歳 日本でアイドル的人気を誇ったプロレスラー
[ 2023年8月24日 13:07 ]
米プロレス団体「WWE」は、元NWA世界ヘビー級王者で、WWE殿堂入りも果たしたテリー・ファンク氏が死去したことを公式サイトで発表した。79歳。死因や亡くなった日時などは明らかになっていない。
同氏は1944年生まれ。往年の名レスラー、ドリー・ファンク・シニア氏を父に持ち、4歳年上の兄・ドリー・ファンク・ジュニアとともに子供の時から英才教育を受けた。デビューは21歳。1970年、日本プロレス参戦のため、初来日した。
1975年に当時、世界最高峰と呼ばれたNWA世界ヘビー級タイトルを戴冠。兄・ドリーに続く兄弟王者は、史上初の快挙だった。
テリー氏の人気が爆発したのは、全日本プロレスに参戦した1977年の世界オープンタッグ選手権。「史上最凶悪コンビ」と呼ばれたアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組にフォークで腕を刺されながら、全力で立ち向かう姿が観客の胸を打ち、一躍トップレスラーに。膝のケガのため、引退を決意した1983年夏の「引退サーキット」では、全国にフィーバーを巻き起こした。
翌1984年に復帰した後も、全日本ではベビーフェース、FMWでは、ヒールとして活躍。2009年にWWE殿堂入りを果たした。

2023年4月14日 (金)

【昭和プロレス】A・T・ブッチャーとキング・イヤウケア 幻の共闘+トーア・カマタ/1979ジャイアントSポスター

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全日本プロレスの1979年秋のジャイアントシリーズのポスター
開幕3戦目の後楽園ホール大会が告知されています。
しかし、なんとも迫力あるというか、強烈なヴィジュアルです。


アブドーラ・ザ・ブッチャーとキング・イヤウケア
昭和の2大流血ファイター共演!

ブッチャーとイヤウケアは全日本プロレスに3度、同時参戦していますが、
すべてトーナメントorリーグ戦のチャンピオンカーニバルなので、
このように通常シリーズのWエース格として来日することはありませんでした。

「ありませんでした」って、このポスターのジャイアントSは“通常シリーズ”なのだから、
実現しているだろう、と思うでしょうが、実はこれ“幻のポスター”なのです。
このシリーズにイヤウケアは来日予定で、ポスターにも載っていましたが、中止になってしまったのです。


キング・イヤウケア
(1937年9月15日 - 2010年12月4日)
1960年に力道山時代の日本プロレスに初来日。
この1979年は1月に15度目の来日を果たし、初来日だったブルーザー・ブロディと共闘しました。
そして10月開幕のジャイアントSにこの年2度目、通算16度目の来日が決定していました。

しかし、来日前に細菌感染から敗血症になり入院して、来日は中止、
そのまま現役を引退してしまうのです。
その後、マネージャーとしてプロレス界には復活しますが、
現役レスラーとしては、この年の1月が最後の来日ということになってしまいました。

ブッチャーとイヤウケア、カーニバルはリーグ戦なので、対戦もしています。
このジャイアントSでの来日が実現していたら、完全に共闘して、
ジャイアント馬場ジャンボ鶴田の持つインターナショナルタッグ王座にでも挑戦したのか、
それとも仲間割れなど、波乱含みの微妙な展開になったのか、興味深いところです。
現実には、ブッチャーはレイ・キャンディとのチームでインタータッグを奪取するのですが、
ネットには、これは元々ブッチャー&イヤウケア組に用意されたブックだったとの説もあります。


イヤウケアとカマタ 幻の流血コンビ
この時代、もう一人同じようなタイプの流血ヒールにキラー・トーア・カマタがいます。

実は、このジャイアントSに続く、79世界最強決定タッグリーグ戦で
イヤウケアとカマタが組んで出場する予定だった、との記事が当時の雑誌に載っていました。
正式発表はされておらず、そういう予定があったが、イヤウケアの療養に実現せず、
発表にも至らなかった、との後日談としてです。

なので、真偽は不明です。
結果的にカマタは、タイガー戸口の全日本入りでパートナーが不在になっていた大木金太郎とのコンビで出場しました。


イヤウケアとカマタは同じハワイ出身
以前はカマタはイヤウケアのスカウトでプロレス入りしたとも、
師弟関係にあるともいわれましたが、
二人は1937年生まれの同い年のようで、ここはちょっと微妙です。

海外サイトで見る限り、この二人は組んだことも戦った記録も残っていません。
ただ、同じ日に同じ会場に出場していたことはあるようです。

日本でのニックネームは、
イヤウケアは「流血の巨象」
カマタは「流血大王」
これは昔からちょっと不満があります。
「巨象」が悪いわけではありませんが、カメハメハ王朝の血を引くといわれるイヤウケアこそ、
「流血大王」が相応しいと思うからです。


イヤウケアとカマタが同時に日本に来たことはありませんし、
当然、ブッチャーも含む3人が揃ったこともありません。

79最強タッグで実現していたら、ブッチャーのパートナーであるザ・シークも合わせて
4人の凶悪ヒールが集結していたことになります。
現実には、大木・カマタ組はブッチャー・シーク組戦を棄権して、不戦敗ということになりました。
もしイヤウケア・カマタ組が実現していたら、棄権などせず、
大クレージーマッチを繰り広げてほしかった、なとど夢想してしまいます。

当時、人気絶頂期に差し掛かっていたブッチャーに対し、
イヤウケアは戦績も下降気味で、フォール負けも多くなっていました。
ただ、それでもバリューがあまり落ちない面もありました。
懐かしいレスラーです。

Old Fashioned Club 月野景史

2023年1月11日 (水)

【昭和プロレス】ジョニー・パワーズ死去/アントニオ猪木のライバル “死神”と呼ばれた男

カナダ出身でアメリカで活躍した元プロレスラーのジョニー・パワーズが亡くなりました。
私にとって、思い入れのあるレスラーでした。

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ジョニー・パワーズ
(Johnny Powers、本名:Dennis Waters)
1943年3月20日 - 2022年12月30日 79歳没 カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身

パワーズはやはり昨年亡くなった日本プロレス界の雄、アントニオ猪木の全盛期といえる1973年~70年代末頃に
ライバル関係にあったレスラーです。
整った容貌、恵まれた体格からは鋼鉄男と、執拗に足を痛めつけ、必殺のパワーズロック(いわゆる足4の字固め、日本では8の字固めとも呼ばれた)でギブアップを奪う試合スタイルからは、“死神”の異名も持ちました。
外国人レスラーでは、猪木にとってタイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントと並ぶ
4大ライバルといっていいかと思います。

この時代の外国人レスラーの訃報は、さほど有名ではなくても、スポーツ新聞のニュースサイト等で伝えられるのですが、
パワーズは亡くなったのが年末の慌ただしい12月30日とあってか、猪木のライバルとして日本ても充分な実績がありながら、マスコミ系サイトでは伝えられませんでした。

この人は日本のレトロファンにとって、日本での戦績や評価の点でも、なかなか波乱に満ちた特異な存在です。
初来日は1966年、若き日の猪木が参画し、社長を務めていた東京プロレスでした。
そして1973年、旗揚げから1年半ほどの新日本プロレスに、NWF世界ヘビー級チャンピオンとして登場しますが、
猪木の挑戦を受けて敗れ、王座を奪われてしまいました。

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その後、猪木はこのNWF王座を賭けて幾多の名勝負を残し、猪木を象徴するベルトとなりました。
パワーズ自身も、団体としてのNWFの存亡をかけて王座奪回を目指し、
1977年まで、蔵前国技館等の大舞台で再三挑戦しましたが、果たせませんでした。

その後は戦績を落とし、レスラーとしての晩年にあたる1979年と80年にも幾度か来日しますが、
かつての大看板とは思えない散々な結果を残し、日本からは消えていきました。
チャンピオンとして絶頂期にあった時に猪木に敗れ、レスラー人生が暗転した、とドラマチックな語られ方もしました。

後から思えば、プロレスの世界ですので、これらはもちろんビジネスとして行なわれたことです。
パワーズは若い頃から猪木と同様に事業欲が旺盛で、NWFもパワーズ自身が運営していた団体です。
猪木に王座を取られたのも、当時既にNWFの経営は苦しくなっており、新日本に王座を譲渡・売却した、というのが今の定説です。


パワーズは海外でも1982年を最後に、プロレスビジネスからはリタイヤしましたが、実業家としては成功したようで、
1990年の猪木のレスラー生活30周年イベントには、レジェンドレスラーたちと共に来日を果たしました。

一方で、日本マットから離れた1980年代以降、あまり良くないレッテルを貼られた面があります。
・プロレスが下手
・性格が悪く、プロモーターとしての仕事が綺麗でなく、レスラーや関係者から嫌われていた
・アメリカではマイナーなローカルレスラー

当たっている面もあるのかもしれませんが、ちょっと言われ過ぎのようにも思います。
特に三番目については、更に時代進むと、ネットで古い試合記録を見ることが出来るようになり、
若い頃は広範なメジャーマットで活躍していたことがわかるようになりました。
1960年代後半、30歳くらいになると、プロモート業の比重が多くなり、活動圏は自分のテリトリーである五大湖地区中心になりますが、
そこにも大物レスラーが多く参戦しており、その顔ぶれからすれば、NWFは決してマイナー団体ではありませんでした。
ただ、もっと後、1970年代後半には、インディー団体を運営していた時期もあります。


とにかく、ジョニー・パワーズについては簡単には語りつくせません。
また書きたいと思います。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年12月14日 (水)

【アントニオ猪木】移民として渡ったブラジルで力道山にスカウトされプロレス入り

このブログでは昔のプロレス、“昭和プロレス”について時々書いており、
ページによっては、それなりのアクセスをいただいております。
その昭和プロレスの象徴ともいうべき、アントニオ猪木さんが死去しました。


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アントニオ猪木  ※本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉
1943年〈昭和18年〉2月20日 - 2022年〈令和4年〉10月1日 79歳没

ここでは今まで、猪木さんのことをあまり書いていませんが、
私は、一番好きなプロレスラーは誰か、と訊かれたら、迷わず「アントニオ猪木!」と答えるファンです。
ただ、レスラーとしては最高だけど、それ以外、
経営者、プロモーター、政治家、あるいはタレント的な部分など、猪木さんは様々な顔を持っていましたが、
それらはあまり好きではなかったりと、少々複雑な感情があったりもします。

それはともかく、猪木さんの訃報に接し、何か書きたいと思いましたが、
プロレスラーとしてに絞るとしても、簡単に書き切れる人ではありません。
そんなこんなで、時間が経ってしまいました。
猪木さんについては、ポイントを絞り、小出しにして書いていきたいと思います。
今回はまずプロレスラーとしてのスタートの頃の話を。


猪木さんは1943年(昭和18年)生まれ。
プロレスデビューは1960年ですので、17歳の年です。
当時、猪木さんはブラジル在住で、興行で同国を訪れた力道山の目に止まってスカウトされ、
力道山率いる日本プロレスに入団しました。

しかし、猪木さんはなぜブラジルにいたのか?
猪木さんは横浜の鶴見出身。日本生まれ、日本育ちです。
それが1957年(13~14歳)頃、移民として家族揃って船でブラジルに渡り、農園で働いていたのです。

南米への移民というと、私には明治時代の話のように思えるのですが、
昭和18年生まれの猪木さんが13~14歳頃、1957年とのことで戦後も戦後、昭和30年代初頭、
GHQによる占領も解かれ、高度成長期に歩み出し、特に都会では、華やかな戦後文化が隆盛となる時代です。

この時代に、首都圏在住だった一家が、移民船でブラジルに渡るようなことがあったとは、
日本の近現代史にも、想像の及びつかないことがあります。
それから数年後、遠征に来た力道山との運命の出会いがあったわけです。


ただ、猪木をデビューさせるにあたり、力道山はひとつの仕掛けをしました。
日本で育ち、13歳でブラジルに渡ったことを隠し、
親の代にブラジルに移住し、同地で生まれた日系ブラジル人二世だと詐称させたのです。

日系二世という設定なので、最初は日本語がろくに話させないふりをしていたようです。
また、デビュー後に幼馴染が観戦に来て声をかけられたが、知らんぷりを通した、というエピソードも聞きます。
まさに虚々実々、ファンタジーにまみれた昭和プロレスらしい話です。

本音をいうと、そうなると13歳での移民というのも本当だろうか、と疑いたくなってしまいます。
日本で見つけた猪木少年をブラジル遠征に同道し、現地で見つけたようにして連れて帰ってきたとか・・・。
まぁブラジルでの写真も残っていますし、さすがにそれはないでしょうけど。

ただ、力道山がそんな仕掛けするに至ったのも、
猪木少年の日本人離れした身体に加え、
エキゾチックさを感じさせる風貌にスター性を見出したからかと思います。
こうして、18歳の猪木寛至のプロレスラー人世はスタートしました。



※話が広がってややこしくなるので、今回は同時デビューのジャイアント馬場についてはふれませんでした。またいずれ。
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Old Fashioned Club 月野景史

2022年8月 4日 (木)

「昭和プロレス掲示板」が終了

長らく昭和プロレスファンのネットでの交流の場となってきた「昭和プロレス掲示板」が
2022年8月1日をもって終了しました。

この掲示板は「ミック博士の昭和プロレス研究室」に付随するものですが、
本家のサイトはもちろん健在です。
http://www.showapuroresu.com/


ただ、掲示板は本家サイトとは別のシステムで運営されており、
それを提供していた、「teacup. byGMO」のサービス終了に伴うもの、ということになると思います。

つまり、「昭和プロレス掲示板」に限らず、
同サービスを利用して運営されてきたすべての掲示板が、8月1日13時でいっせい閉鎖状態になったということです。

更新が終了したのではなく、サービスそのものの終了なので、
過去レスもすべてネット上から削除された、消えてしまったという状況。


今、従来のアドレスでアクセスを試みても、以下のような画面になります。
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こうなった理由は、ネット事情が日々変化し、SNS隆盛の中(SNSにも栄枯盛衰があるけれど)
「掲示板」という形が古くなった、役割を終えつつある、という面がもちろんあります。
というか、「teacup.byGMO」のサービス終了については、それ以外の理由はないでしょう。

一方、「昭和プロレス」という分野はどうか。
「昭和プロレス掲示板」がいつスタートしたのかはわかりませんが、
本家サイトは1999年からということなので、それと同時期とすれば、
平成11年、まだ昭和もそんなに遠くない時期でした。
それから23年、昭和が終わってからは34年が経ちます。

その後の2000年代。
昭和プロレス“ブーム”とまではいえないにしても、
昭和プロレス探求はひとつのジャンルにはなり、
出版物やDVDソフトもそれなりの数がリリースされてきました。

特に、平成以降も継続した新日本プロレスや全日本プロレスはともかく、
昭和の時代に15年ほど、ほぼ一貫してマイナー団体として存在し、
昭和56年(1981年)に消滅した国際プロレスにまで、
僅かながらでも脚光が当たるとは、思いがけないことでした。

本家サイトはもちろん、掲示板の存在も、この“ブーム”を牽引したひとつではあることは
間違いないと思います。

その点では掲示板の消滅は寂しい限りですが、
昭和終了から34年、国際プロレスの消滅から41年、さすがに昭和も遠くなりました。
昭和のプロレスを語る掲示板も、その役目を終えたというところでしょうか。

「昭和プロレス掲示板」終了について、
現在までのところ、管理者氏は本家サイトにおいて特に何もコメントしていないようですが、
この終焉も時代の必然なのかも知れません。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年5月 4日 (水)

【昭和プロレス】マッハ隼人追悼イベント 闘道館20220504

昨年、2021年11月に亡くなった元プロレスラーマッハ隼人さんの追悼イベントが
東京巣鴨の格闘技・プロレスショップ「闘道館」で開催されたので、参加してきました。
マッハ隼人についてはこのブログでも追悼記事を書いています↓
【昭和プロレス】マッハ隼人死去/海外でデビューし日本でも活躍した異色の覆面レスラー


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VIVA LA LUCHA vol.44
マッハ隼人 復活祭
【日時】2022年5月4日(水・祝)13:15開場/13:30開始
【会場】闘道館
【出演】実行委員
・ドクトル・ルチャ:清水勉
・マッハ隼人アルバム:国枝一之
・マッハ隼人ファン:冨倉太
【内容】
マッハ隼人(肥後繁久)さんの秘蔵写真、マスク・コスチューム等公開。
メキシコ、グアテマラ、パナマ、ロス、カルガリー等の記録・画像・動画公開。

マッハ隼人さんの追悼イベントは本来は1月に予定されていましたが、
コロナ禍で延期となり、ようやくの開催でした。

 


晩年は日本で
マッハ隼人さんはプロレス引退後はカリフォルニアで造園業を営んでおり、
仕事からリタイヤされた後も米国に住んでいたのですが、
実は最晩年は日本に帰国しており、故郷の鹿児島で亡くなりました。

実行委員として名前のある国枝一之さんという方は現役時代から晩年まで隼人さんと親交のあった方で、
今日は貴重な資料や証言を聞くことが出来ました。
(本音を言えば、この方の話をもう少しゆっくり聞きたかったですが)

国枝さんはマッハが国際プロレスに入団して初めてシリーズとなる1979年11月のデビリシッシュファイトシリーズの
テレビ放送初戦(開幕戦ではない)の後楽園ホール大会の放送の冒頭にダイジェストで流れた
隼人と鶴見五郎の試合を見て興味を持ち、最終戦の後楽園大会を観戦、交流を持つようになったとのこと。

このシリーズは開幕当初に、後の独立愚連隊に繋がる鶴見の造反劇があり、
その顛末を視聴者に伝える中で、たまたまこの日に行われた鶴見対隼人が放送され、
それが隼人のお目見えになったという、ややこしい事情があるのですが、
私も最も熱心にプロレスを見ていた時期で、よく憶えています。
今日はこの日の映像も再見できて、良い機会になりました。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年4月28日 (木)

【国際プロレスの謎①】大木金太郎入団の経緯 独自推論

昭和の時代に存在した国際プロレス(1967-1981)については思い入れもあり、色々書いてきました。
この団体についてはいくつもの謎、不明点がありました。

2000年以降、雑誌の「Gスピリッツ」が多くの関係者を取材して証言を得たり、
またネットの普及で様々な情報が集まり、幾多の不明点が解明されました。

しかし、まだ残っている謎もあります。
また、一応解明されたかのように思われているが、まだ疑問のある面、
あるいは、事実とは違う形で伝説が通説になってしまったのではないか、そんな風に感じることもあります。
それらからピックアップし、軽めの検証をしていきたいと思います。


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大木金太郎の入団
1980年2月、ベテランレスラーだった大木金太郎の入団が突如発表されました。
国際プロレスは1981年9月に解散となりますので、だいぶ末期の話です。

この入団については当時から、国際プロレスの吉原社長の頭越しに
放送していた東京12チャンネルが話を勧めて実現した、という見方が大勢だったと思います。

実際、近年も12chのスタッフ氏が大木からの依頼で話を進めたと証言しています。
一方で、プロレス記者の故菊池孝氏は12chの依頼で自分が斡旋したと、晩年語っています。
この二人の証言には食い違いもありますが、いずれにしろ、吉原社長を通さずに話が進んだという点は同じです。
大木のギャラも12chが支出していたといいます。

しかし、本当にそうなのだろうか?
なんで吉原社長を通さずに話を進めたのか、不自然ではないか。
ここが今回のテーマです。
当時の状況から考えてみます。


大木は1975年以降、フリーの立場で全日本プロレスに参戦してきました。
それなりの存在感を発揮していましたが、79年頃はちょっと微妙なポジションになってました。
大木が国際入団を望んだ、もしくは話があって乗ったとしても、おかしくはありません。

国際と大木は設立当時に少し因縁があるのですが、その後は疎遠でした。
ただ、77年頃に国際と全日の協調路線の中で、大木率いる韓国勢も含めた三軍対抗の図式が出来上がりました。
78年には全日は絡まず、国際の大半のレスラーが渡韓して、大木主催の興行に出場しています。

大木はこれ以前も以後も度々日本からレスラーを呼び、韓国で興行を打っていますが、
日本側の参加人数からすれば、この時が最大規模ではないかと思います。

そして79年春には大木の実弟の金光植(キラーキム)と弟子の梁承揮(後の力抜山)が
留学生として国際プロレスに来日、7月まで3シリーズほど試合にも出場しています。

二人はテレビマッチにも少し登場しましたが、大きく扱われてはおらず、この留学が12ch主導とは思えません。
吉原社長は経営についてはワンマンだったとも言われますし、
この留学は吉原社長と大木にそれなりの強い関係があったから実現したと考えるのが自然です。

二人にそれなりの関係があったとなると、大木入団の話が吉原社長抜きで進むのはかなり不自然です。
しかし、関係者の証言はだいたい一致しているし、不自然だろうと疑う余地はないのではないか。
それとも、何か考えられるのか?


以下、ひとつの推論です。
大木の国際入団の話は、吉原社長と大木の間で出た(どちらが言い出したかは別として)。
しかし、国際には大木にギャラを支払う余裕はない。

実は、当時の12chのスタッフ氏は通常の放映権料の他に、
局と折衝して国際の為に様々な特別予算を組んでくれていました。
大木の件も吉原社長から依頼され、12ch主導の企画として、局から予算取りをしてくれのたではないか。
そう考えるのが、一番自然に思えます。

あくまで、周辺事情からの傍証による推測です。
あまり深掘りしても微妙な面もあるので、この話はここまで。

Old Fashioned Club 月野景史

2022年1月15日 (土)

【昭和プロレス】ストロング小林死去 昭和の名レスラー/タレント ストロング金剛としても活躍

元プロレスラーのストロング小林氏が死去しました。
昨年の大晦日に亡くなっていたとのこと。81歳没。

「怒涛の怪力」で売った昭和期を代表するプロレスラーの一人。
引退後は「ストロング金剛」名義で俳優・タレントとしてもそこそこの活躍をしました。


Stkoba
ストロング小林
本名 小林省三(こばやし しょうぞう)
1940年12月25日 - 2021年12月31日)

プロレスラーとしてのハイライトは
・国際プロレスのエース
・国際を離脱してアントニオ猪木とプロレス史に残る名勝負
・新日本プロレスでも主力として活躍


小林についてはネット上でも意外なほどよく語られています。
いくつかポイントを挙げつつ、足跡を振り返ります。
どちらかといえばよく語られている点はさらっと流し、あまり語られてないことを書いていきます。



長い社会人経験
高校卒業後、1966年に旗揚げ興行前の国際プロレスに入門するまで、
おそらく7年半くらい国鉄職員として過ごしています。
特にスポーツ競技をしていたわけでもなく、ホディビルダーともいわれますが、
ジム通いでトレーニングはしていたが、ボディビル大会に出たことはないと本人が後年語っています。
この長い社会人経験は当時のプロレスラー、特に後にエースを張るようなレスラーには極めて珍しいキャリアです。
そして観戦に行ったボディビル大会でスカウトされ、1966年11月に入門。


覆面レスラーとしてデビュー
翌1967年に覆面レスラー「覆面太郎」としてデビュー。
これは1シリーズだけで、1968年1月に素顔で再デビュー。
格闘技経験のないグリーンボーイながら大物外国人レスラーと戦い引き分けるなど、破格の待遇でした。


エリート街道
その後ヨーロッパに遠征。
1969年5月にパリで行われたタッグトーナメントに豊登と組んで優勝し、
初代IWAタッグ王者として凱旋し、日本で防衛戦を重ねます。
当時の戦績は素晴らしく、おそらくこのままエースに据える予定だったと思います。

しかし想定外のことが起こります。
国際にとっては嬉しい誤算だったのですが、国際はアメリカのAWAと提携関係を結び、
アメリカから大物外国人レスラーの招聘が可能になったのです。
良いことなのですが、そうなると北米での試合経験のない小林がエースでは心もとない。
そこで、小林は1970年にAWAに出発、なかなか立派な成績を残します。

ここらは本格エース擁立に向けてきっちり手順を踏んでいると思います。
ただ、後になってみると、エース不在の期間が長すぎたという批判もあったりはします。


IWA世界王者としてエースに
1971年7月、小林は海外に流出していた国際プロレスの看板タイトル「IWA世界ヘビー級王座」をアメリカで奪還、
チャンピオンとして凱旋帰国を果たします。
国際のエースとして君臨したのはここから1974年2月までの約2年半なので、あまり長くはないのですが、
この時期はAWAとの提携で大物外国人レスラーが多く来日しました。
小林はそれら強豪を撃破してタイトルを守ったので、王者時代の実績は立派という評価がされます。


猪木との“昭和巌流島”決戦 表と裏
しかし1974年2月、小林は王者としての最後の防衛戦に勝った後、国際プロレスを離脱
翌3月には新日本プロレスのエース アントニオ猪木と戦い、ジャーマンスープレックスホールドで敗れます。
この試合はプロレス史上屈指の名勝負と言われ、蔵前国技館に空前の観客を集めたことでも知られます。

しかし、エースのまま離脱した小林が敗れたので「新日本>国際」を証明する形になってしまいました。
小林の離脱理由は、もちろん国際での扱いの不満があったとも言われますが、よそで書かれているし今回は言及しません。
ただ、昭和の時代、プロレスは基本的には真剣勝負とされていました。
勝負師として敢えてアウェイでの戦いに挑んだ小林、勝敗は時の運との見方も成り立ちました。

しかし、今はプロレスは(昔から)シナリオがあるものとの見方が定着しています。
となると、小林はいわゆる“負けブック”を飲んだということになる。
ここはちょっと微妙なところです。


新日本プロレス三強として
小林は猪木戦後にWWWF(後にWWF→WWEと改称)に遠征してそこそこ活躍。
74年末にもう一度猪木と戦い、こちらも好勝負でした。

75年は年初からフリーとして新日にレギュラー参戦し、やがて正式に入団します。
猪木、坂口征二、小林で、新日本は三大エース体制を形成します。
しかし、シングルのチャンピオンは猪木なので、やはり引き立て役に回ることも多くなります。
1976年には坂口とのパワーコンビで北米タッグ王者になりますが、
絶対エースは猪木、その下に坂口と小林がいるという形になりました。


凋落
この体制は一応3年間続きますが、やがて若手の藤波辰巳や長州力が台頭、
79年に小林は無冠の五番手に転落してしまいました。
たまにテレビに出ればジョバー(やられ役)みたいなこともありました。

新日本の世代交代戦略のためにランクを下げられたともいえますが、
当時の小林は見た目にも腰が悪そうで身体も落ちており、仕方ないようにも思えました。
かつてエース格だったレスラーがこのようにズルズルとランクを下げていくのは、それまであまりなかったと思います。

1981年には再度海外遠征をし、メキシコ、米国と回って帰国しますが、
それから間もない同年秋には腰の具合が悪化して欠場、結果的にそのまま引退します。
引退式は1984年でしたが、実際に試合をしていたのは81年秋までです。

復帰を匂わせる流れもなくはなかったのですが、実現しませんでした。


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俳優・タレント ストロング金剛
欠場中の1982年に映画『伊賀忍法帳』に髪を剃りスキンヘッドにして悪役で出演します。
これを機にスキンヘッドのまま、俳優・タレントとして歩むことになります。
名前もこの映画の役名からとって「ストロング金剛」と改名しました。

私はこの改名は不要だったと思いますが、俳優・タレントとしてはそこそこに成功しました。
演技はハッキリ言って上手くはなく、用心棒的な役柄が多かったですが、それなりの存在感はありましたし、
タレントとしては『風雲たけし城」などビートたけしさんの番組等で活躍しました。

1992年は新日本の記念興行にて坂口とのタッグで一日だけプロレス復帰を果たしました。
これはまぁよかったかと思いますが、後年のインタビューによると、扱いには不満があったようです。
90年代半ばにバラエティ番組の収録中の負傷により、タレントも休業状態になります。


2000年代には昭和プロレスもブームとはいえなくも振り替えられる機会もあり、
小林も雑誌や書籍のインタビュー、DVDのコメンタリーなどで登場し、
昭和プロレスファンならば、しばしば目にすることも多かったです。
特にAWAやWWFでの海外の実績には自信と誇りを持っていること、
それだけに国際や新日本での扱いには不満を感じていることは感じられました。
最近では国際のグレート草津との確執が語られることが多いですが、
どちらかといえば、インタビュー等では新日本での扱いに対する不満が多かったように感じています。

81歳は昭和のプロレスラーとしては長命でした。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club 月野景史












 

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