38.アイドル

2023年9月 1日 (金)

ジャニー喜多川氏の性加害問題①/最初の告発本『光GENJIへ』フォーリーブス北公次著

4年前、ジャニー喜多川氏の没後に書いたこのブログのページが、
英国BBCテレビの番組を発端に表面化したジャニー氏の性加害問題の余波か、アクセス数が急伸しました。
ジャニーズ王国前史/70年代 最初の全盛期から低迷の時代、80年代の大躍進へ

このブログ自体は主に1970年代から80年代初頭のジャニーズ事務所の動向について記したもので、
性加害問題について書いてはおらず、ジャニー氏への一応の賛辞で締めくくっています。
あくまで、ジャニーズ王国の隆盛という“結果”に対してのものですが。

さて、ジャニー喜多川氏による性加害を中心にしたジャニーズ事務所に対する最初の暴露本・告発本は、
今から約35年前に発行されたこの書籍だと思います。


Hikaru
『光GENJIへ-元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』
  単行本 1988年12月1日 データハウス社 発行

サブタイトルにもある通り、元フォーリーブスのメンバーだった北公次氏の著作。
タイトルの「光GENJI」はこの本の発行当時、1988年頃のジャニーズのトップアイドルです。

フォーリーブスは1960年代末から70年代にかけて活躍した、ジャニーズ所属の4人組グループ。
70年代を代表する男性アイドルグループで、全盛期は凄まじい人気を誇り、78年に解散しました。
「コーちゃん」の愛称で知られた北氏は華麗なバック転と少し陰のある雰囲気、グループ屈指の人気者でした。

つまりこの本は、かつてのジャニーズのトップアイドルから、
発行当時のトップスターへのメッセージの体裁で、
ジャニー氏の性加害、ジャニーズ事務所の問題点を告発しているのです。


フォーリーブスについて、私はリアルタイムではっきりと記憶しているのは1978年の解散前の1~2年だけですが、
このグループ、特に北氏のファンで、このブログでもフォーリーブスのことは何度も書いています。
元フォーリーブスの北公次さんが闘病中とのことです
元フォーリーブスの北公次さん死去/1970年代を代表するアイドルとして活躍
フォーリーブスの名曲を辿る① 全盛期のヒット曲達
フォーリーブスの名曲を辿る② 活動後期の佳作達
フォーリーブス 1978.8.29 最初で最後の夜 永遠の夏


しかし、北さんはグループ解散の翌1979年に覚醒剤で逮捕、
その後芸能界に復帰するも軌道に乗らず、波乱の人生を送っていた人でした。
80年代末には再びセミリタイヤ状態になり、故郷へ帰っていたようです。

一方のジャニーズ事務所は、フォーリーブスの解散する70年代後半は低迷期でしたが、
80年代に入ると一気に盛り返し、男性アイドル市場をほぼ一強で独占するようになっていました。

『光GENJIへ』はそういう時代、北氏も生活のため、勧める人もあって、ビジネスとして書いたのかと思います。
とはいえ、性加害の部分は概ね事実だったのでしょう。
まさか、35年後にそれが実証されるとは思いませんでしたが。


ベストセラーとなるも主要メディア黙殺
この本は大変売れてベストセラーになり、続編的なものも出たのですが、大手メディアは見事に黙殺しました。

Hikaru2

既に“ジャニーズタブー”が、マスコミにおいても確立されていたのです。
あるいは、この件があってこそ、確立されたのかも知れませんが。

※ただ、ネット上にこの時期の北さんが関西ローカルのテレビ番組に出演したとの情報があります。
私は当時関西在住で、内容まで詳しく記憶していませんが、この番組を間違いなく視聴しています。
おそらく『ノックは無用!』という横山ノックさんと上岡龍太郎さん司会の番組で、
北さんは何組かいるゲストの1人という位置づけだったと思いますが、
(当時組んでいたバンド「北公次&スカーフェイス」のメンバーと一緒だったかも知れません)
ローカル番組とはいえ、大都市関西で全国区の有名タレント司会の番組によく、と思いました。


その後の北公次とフォーリーブス
ともかく、告発本がベストセラーになったにも関わらず、主要メディアが無視という、凄い事態になりました。
このジャニーズとマスコミとの歪んだ関係が、後々まで禍根を残すことになります。

北さんはその後、再び消息を聞かなくなりましたが、
1994年に突如、北さんの結婚(再婚)をキー局のワイドショーが揃って取り上げ、
元メンバーが揃って祝福する結婚式の様子が放送されました。
これは、何らかの形で“手打ち”が行なわれたのだろうと推測しました。
でなければ、放送されるわけないので。

その後、フォーリーブスは他のメンバーにも色々あったりしましたが、
2002年に再結成、往年のファンの支持を受けて、メンバーの青山孝史氏が亡くなる2009年まで、ライブ中心に活動しました。
数は少ないですがテレビ出演もあり、素晴らしいパフォーマンスを披露したこともありました。
【アイドル】フォーリーブス 2006年夏 解散から28年目の奇跡

北さんも2012年に亡くなりました。
残った江木俊夫氏、おりも政夫氏は、近年も活動を続けています。

北さんは死去に際し、ジャニー喜多川氏、メリー喜多川氏への感謝の言葉を残しています。
北さんの波乱の生涯を思うと、最期が綺麗に締め括られ、これはこれで良かったのかな、とは思いました。
しかし、このような一ファンの姿勢もまた、異常な“ジャニーズタブー”を助長する遠因になったのかも知れません。

ここで一旦締め括り、ジャニーズタブーについて、項を改めます。

Old Fashioned Club 月野景史

2021年10月20日 (水)

【昭和アイドル】百恵・淳子がピンクレディーの振付を踊る/なぜか百恵さんが『渚のシンドバット』を完コピ

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昭和のアイドル、1970年代を代表するトップアイドル
山口百恵、桜田淳子、ピンクレディー競演による楽しい動画。

フジテレビ『夜のヒットスタジオ』のリハーサル風景で、
リハに間に合わなかったピンクの代わりに百恵・淳子が『渚のシンドバット」を踊っています。

ちょっとわかり難いですが、リハーサル風景を生放送の本番中に流しているので、
リハの映像と、それを見ながらの生本番中の百恵さん、淳子さん、ピンクレディーら
本人達も含めたリアクションが忙しく切り替わる展開になっています。




私が注目したのは百恵さんの動きです。
まったくの即興だろうし、淳子さんは振付がうろ覚えのようですが(当然ですが)
百恵さんはアクションこそ小さめですが、どうもあのややこしい振付を
今風の言葉でいえば「完コピ」、完全に覚えて踊りこなしているように思えるのです。

そして、途中で横目に淳子さんがうろ覚えなのを見て、
それに合わせてわざとレベルを落とし、ぎこちなく踊っているかのようにも感じます。
なんという余裕。

『渚のシンドバット』は1977年夏のヒット曲ですが、
この放送はピンクレディーがリアルタイムでは『サウスポー』を歌っている1978年春頃でしょう。
淳子さんは曲によってはミニスカートで軽快な振付で歌うこともありましたが、
百恵さんはまったくそんなことはない時代です。

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百恵さんはなぜピンクレディーの振付を完コピしていたのか?
他の番組の企画で振りを覚えた…、たぶんないと思います。
当時の百恵さんは既に大物過ぎて、そんな企画はやらせないかと。

天才だからこそ、見ているだけど難なく覚えたのか、
なんらかの理由があって、自主的に完コピしたのか、わかりませんが。


百恵・淳子は同学年。
ピンクの二人は一学年上。

ただ、中学生でデビューした百恵・淳子に対して、
ピンクは高校卒業後のデビューなので、たいぶ後輩になります。

当時のアイドルとして遅めのデビューで爆発的なブームを巻き起こしていたピンクに対し、
百恵さんはアイドル界の女王といった感じの時代。

昭和歌謡史、アイドル史の一コマでした。

Old Fashioned Club 月野景史

2019年8月31日 (土)

【アイドル】フォーリーブス 2006年夏 解散から28年目の奇跡


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フォーリーブス
(北公次 青山孝史 江木俊夫 おりも政夫)

2006年8月26日 
NHK 第38回 思い出のメロディー
『ブルドッグ』(1977年)
『地球はひとつ』(1971年)
を歌唱






元祖 “ジャニーズ” に続くジャニーズ事務所の所属グループ第2号
1967年 結成
1968年 レコードデビュー
1970年代を代表する歌って踊る男性アイドルグループとして活躍
1978年8月31日 解散


2002年 紆余曲折を経て24年ぶりに再結成。
当時のライブ映像もネット上に上がっているが、
それから4年後のこのステージではみな身体も絞れて切れもよく、
再結成当時を明らかに上回る若々しい溌剌としたパフォーマンスを披露した。

特に当時54歳であった江木俊夫のアイドル感が際立つ。
そしていうまでもなく、57歳にして華麗なバック転を披露した北公次は凄かった。


これから高齢化時代の星となるかと思われたが、
このステージから僅か2年半後の2009年1月に青山孝史が57歳で、
そして2012年に63歳で北公次も亡くなった。
共に現代日本の平均寿命に遠く及ばない若さで死去。
この夏のステージは伝説となってしまった。


もう1本紹介するのは同じ2006年、
上の映像の少し前の4月頃、
関西地区のローカル番組出演時と思われる。





おそらくMBS平日午後の帯番組『ちちんぷいぷい』。
この時のパフォーマンス、
熱烈なファンとのライブ感も素晴らしい。
これもまた奇跡のステージ。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年7月12日 (金)

【アイドル】ジャニーズ王国前史/70年代 最初の全盛期から低迷の時代、80年代の大躍進へ

※付記:このブログはジャニーズ問題表面化以前に記述したものです

生前ほとんど…というか、
少なくとも1980年代以降はまったく自らが前面に立つことはないどころか、
写真の公表すらなかったにも関わらず、
ジャニーズ事務所の領袖・ジャニー喜多川氏の訃報は大きな話題を集めています。

日本の芸能界で男性アイドルといえばジャニーズ。
ほぼ一強。
まさにジャニーズ王国

この絶対的な体制が確立したのは、キリ良く1980年からだと思います。
では、それまではどうだったのか?

もちろん、その前からジャニーズ事務所はありました。
かなり良い時期もあったし、低迷期もありました。
今日はその時代から、80年代の大ブレイクまでの流れを、少しだけ簡潔に書いてみます。

ジャニーズ事務所として存在していた時代の話なので、
「ジャニーズ前史」では語弊があります。
あえていえば、“ジャニーズ王国の前史”。


元祖ジャニーズ
ジャニー喜多川氏がプロデュースした最初のグループは文字通りの「ジャニーズ」。

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このグループ名がそのまま事務所の名前にもなります。
「ジャニーズ事務所=ジャニー氏の事務所」とも解釈できますが。

元祖ジャニーズは歌って踊る美少年たちの4人組。
一番有名なのは中央後ろの、あおい輝彦さんでしょう。
後のジャニーズアイドルのスタイルは基本的にこの初代から引き継がれています。

結成は1962年ですが、レコードデビューは1964年12月。
解散は1967年11月なので、レコード歌手としての活動は3年ほど。
この結成からレコードデビューまで間隔があるというのは、
後にジャニーズの伝統のようになりました。

元祖ジャニーズは『太陽のあいつ』などのヒット曲もあり、
紅白歌合戦にも出場するなど、それなりの人気を博したようですが、
レコードデビュー後にも半年ほどアメリカに留学したりと、
日本での活動の密度はあまり濃くなかったようです。

そしてグループサウンズ旋風(つまりバンドブーム)が吹き荒れる中、解散しました。


フォーリーブスの登場~全盛期へ
フォーリーブスは元祖ジャニーズの弟分的ポジションで1967年結成。
1968年9月にレコードデビューしました。
やはり、結成からレコードデビューまで間隔が開いています。

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時代はグループサウンズ(GS)ブームの最中でしたが、そろそろ退潮に向かう頃。
それと入れ替わるようにフォーリーブスは人気を上げていき、
1970年にはプロマイド売上げのトップになり、紅白歌合戦に初出場。
1971年にはレコード売上げ面でも人気のピークを迎えます。

といっても最高でオリコン10位、レコード最多売上は『夏の誘惑』(1971年)の17.5万枚ほどなので、
レコードセールスではそれほど大きな記録は残していません。
ただ歌とダンスのレベルも高く、歌って踊るアイドルのスタイルを確立し、熱烈な女子ファンを多く抱え
テレビバラエティではMCポジションでレギュラーも持つ、男性アイドルの典型像を作りました。
紅白にも1976年まで7年連続で出場、当時としては息の長い70年代を代表する男性アイドルグループとなりました。


郷ひろみの鮮烈デビュー
そして1972年、フォーリーブスの弟分として郷ひろみさんがデビューします。
デビュー曲はそれまでのフォーリーブスのどの曲をも上回る大ヒット。
ジャニーズから更なるトップアイドルが生まれました。
ここからがジャニーズにとっての最初の全盛期といえるでしょう。
ただ、ファーリーブスとしては一気に抜かれたので、衝撃的だったでしょうけど。

といっても、当時は男性アイドル市場をジャニーズが独占していたわけではありません。
郷さんと合わせて“新御三家”と呼ばれた野口五郎さん、西城秀樹さんは別のプロダクションだし、
1973年-74年に大ブームを巻き起こしたフィンガー5もそうです。


郷ひろみ離脱~低迷期へ
1975年、アイドルとして絶頂期を迎えていた郷さんがジャニーズを離脱するという大事件が起きます。
頼みのフォーリーブスも平均23歳くらいになり、今なら全然若く感じますが、
当時としてはアイドルの限界を迎えており、人気も下降していました。
もちろん他にも若い歌手をデビューさせてはいるのですが、トップクラスまではいきません。

1977年にはジャニーズから14歳の川崎麻世さんがデビュー。
プロマイド売上げはトップになりましたが、ヒット曲は出せませんでした。
また、そこそこの人気のあった豊川誕さんが退所するなど、どうもよくないイメージもあり。

そして1978年8月にはフォーリーブスが解散。
レコードセールス的には数千枚のレベルにまで落ちていましたが、
全国ツアーも行い、それなりにテレビにも出て、一応有終の美を飾りました。
しかし、解散と同時に退所していた北公次さんに覚醒剤疑惑が持ち上がり、翌年逮捕。
なんとなくフォーリーブスについて語るのもタブーといった雰囲気となります。

後輩アイドルも育たず、70年代後半は低迷期、冬の時代でした。


たのきんトリオで大躍進
1980年、突如ジャニーズ旋風が巻き起こります。
田原俊彦さん、次いで近藤真彦さんがレコードデビューし大ヒットを連発するのです。

田原さん、近藤さん、野村義男さんの、“たのきんトリオ”と呼ばれるようになる3人は
前年1979年10月からこの年の3月まで、『3年B組金八先生』に生徒役で出演していました。

このドラマ、スタート時はそれほど注目されていなかったと思います。
TBSの金曜夜8時の枠ですが、この時間帯は日本テレビの『太陽にほえろ!』が強く、
TBSは往年の名作ドラマ『七人の刑事』を復活させてぶつけていたのですがあえなく敗退。
万策尽きたようなイメージで始まったのが『金八先生』でした。

もちろん田原さんたちもこの時点ではまったく無名。
ところが、番組は話題を呼び、田原さんたちにも注目が集まります。
そしてレコードデビュー→大ヒットと繋がりました。

実は1970年代後半はジャニーズに限らず、男性アイドル全般に冬の時代でした。
新御三家の人気は根強かったのですが、後の世代が出てこなかったのです。
新御三家も20代半ばとなり、小中高校生女子のアイドルとしては、無理になってきていました。
たのきんはその閉塞状態を一気に突き破り、世代交代となりました。

※このジャニーズ大爆発の影で、ちょっと気の毒だったのが川崎麻世さんでした。
麻世さんはたのきんトリオと同世代(田原さんより下で近藤さんより上)。
長身で容姿に恵まれていたので早いデビューになったのかと思うのですが、
たのきんがブレイクした時点で旧世代のようなイメージになり、取り残されてしまいました。
田原さんより年下なのに。


ともかくこの後、やはり金八シリーズの後継作への出演を経て、
しぶガキ隊、少年隊、バンドスタイルの男闘呼組と立て続けにデビューし、
ジャニーズ事務所は芸能界を席巻します。

この1980年代、まさに「ジャニーズにあらずんば男性アイドルにあらず」という王国を築き上げ、
それは平成、1990年代、そして21世紀へと続きます。
光ゲンジ、スマップ、トキオ、V6、嵐、
特にスマップ以降は、アイドル・タレントとしての寿命も飛躍的に長くなりました。

この極端な寡占状態の是非は別として・・・・。
70年代後半の低迷期から、1980年を境にしたジャニーズ独占への大転回はあまりに鮮やかでした。
他に力のある芸能プロダクションはいくらでもあったろうに、この大躍進は今でも不思議に感じるところです。

一方で80年代末には元フォーリーブスメンバーの北公次氏により、ジャニー氏による性加害を告発した
暴露本『光GENJIへ』発行などもありましたが、大手マスコミは黙殺し大した話題にはなりませんでした。
結果としてですが、この隆盛、圧倒的権威を築き上げたジャニー喜多川氏のプロデュース力は
やはり凄かったということなのでしょう。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月22日 (火)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る③ アイドルから大人の歌手へ

1970年代を代表するスーパーアイドルだった西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html

西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップする第3弾。
国民的ヒットソング『YOUNG MAN』に始まる1979年~84年、
西城さんか20代半ばから前半のヒット曲です。

20代だからまだまだ“ヤングマン”ですが、
1980年代に入ると田原俊彦さん、近藤真彦さんらが登場、
さすがにアイドルの座は明け渡し、大人のアーチストへと変貌していきます。




YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(1979年2月21日)

28枚目のシングル。オリコン5週連続1位。
日本中がこの歌に合わせて踊った国民的大ヒット。






愛の園 (AI NO SONO)(1980年3月21日)

32枚目のシングル
スティーヴィー・ワンダーのアルバム収録曲からのカヴァー。
編曲はYMOの坂本龍一。バックコーラスは子供たちが担当した。
あまり有名ではないかも知れませんが、しっかりヒットはしています。
好きな歌。






南十字星(1982年3月25日)

41枚目のシングル。






ギャランドゥ(1983年2月1日)

44枚目のシングル。
『ヤングマン』の後、1980年代以降の歌の中で、
一番ヒットしたわけではないのですが、最も有名なのはこれでしょう。
おそらく全曲の中でも『ヤングマン』『ローラ』に次ぐくらい知名度が高いかと思います。
やはりハードでアップテンポ、ノリの良さこそヒデキの身上か。






抱きしめてジルバ -Careless Whisper-(1984年10月15日)

49枚目のシングル。
これは大人のダンスナンバーという感じ。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月21日 (月)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る② 20代前半のヒット曲

1970年代を代表するスーパーアイドル西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html


西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップする第2弾。
1975年~78年の20代前半のヒット曲です。
20歳そこそこなのて、今から考えればバリバリの若者ですが、
10代の頃から大ヒットを連発しているので、その頃に比べるとだいぶ大人っぽく感じます。




ラストシーン(1976年12月20日)

19枚目のシングル。
まさに映画のラストシーンのような名曲。
スロー系の歌では一番好きです。





ブーメランストリート(1977年3月15日)

20枚目のシングル。
「ブーメラン ブーメラン」のフレーズは耳に馴染み深い。




.
ボタンを外せ(1977年9月5日)

22枚目のシングル。
この歌も繰り返される「ボタンを外せ!」のフレーズが印象的。





炎(1978年5月25日)

25枚目のシングル。
まさに炎のような熱情を歌い上げる。





ブルースカイブルー(1978年8月25日)

26枚目のシングル
局名とイントロは明るく爽やかなイメージですが、
悲しい歌詞とのコントラストがいい。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月20日 (日)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る① 鮮烈なる10代

1970年代を代表するスーパーアイドルだった西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html


このブログでは西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップしていきます。
といっても、70年代から80年代初頭の西城さんのシングル曲はほとんど大ヒットしているので、
客観的に絞るのは難しいです。
ですので、個人的観点にはなりますが、とにかく耳に馴染みのある、秀樹さんらしい歌を選びました。

第1弾はデビューした1972年~1974年。
西城さん10代のヒット曲です。




チャンスは一度(1972年11月25日発売)

3枚目のシングル。動画なしの音源だけですが。
大ブレイクした5枚目のシングル『情熱の嵐』より前の4曲の中からひとつ、この歌を挙げます。
数字的には4曲の中で一番ヒットしたわけではないのですが、
後々まで秀樹さんの若い頃のヒット曲としてよく聴き、耳に馴染みのあるのがこれだと思います。




情熱の嵐(1973年5月25日)

5枚目のシングル。
オリコンチャート6位という数字以上に大ヒットしてブームを巻き起こした記憶があります。
個人的にはベスト。





ちぎれた愛(1973年9月5日)

6枚目のシングル。
初のオリコン1位獲得。





激しい恋(1974年5月25日)

9枚目のシングル。
これもヒデキらしい名曲。





傷だらけのローラ(1974年8月25日)

10枚目のシングル。
大ヒットを重ねて、ようやく紅白初出場。
『ヤングマン』に次ぐ知名度の高い歌でしょう。
激しくも歌い上げる、当時のアイドル歌謡としてかなり異質でした。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月17日 (木)

【訃報】西城秀樹死去/最後まで貫いた 熱くワイルドなスーパーアイドル像

訃報 歌手の西城秀樹さんが5月16日に亡くなりました。63歳
1970年代を代表する男性スーパーアイドルでした。



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西城秀樹
(さいじょう ひでき、1955年4月13日 - 2018年5月16日)

1972年3月25日 シングルレコード『恋する季節』で歌手デビュー
キャッチコピーは「ワイルドな17歳」。


新御三家 圧倒的な存在
1970年代は“アイドル歌手”という文化が花開いた時代でした。
その中でも、こと男性アイドルについては野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹の“新御三家”が圧倒的な存在でした。
3人とも1970年代初頭にデビューし、その70年代が終わるまでトップの座を走り続けたのです。

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新御三家

「新」があるということは「元祖」の御三家があります。
橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さん。
1960年代半ばの歌謡界で人気を誇った3人です。
しかし、とかく移ろいやすい流行歌の分野で、
全盛期の長さでは新御三家が完全に上回りました。
ただ、旧御三家のお三方は健在。西城さんが先に逝ってしまいました。

新御三家の3人は学年でいうと1955年度(昭和30年)生まれの同期生。
(野口五郎さんは1956年の早生まれ)
デビューの順番では野口さんが一番早く1971年5月。
次が西城さんで1972年5月、郷さんが同年8月。

ただ、デビュー曲が大ヒットした郷さんに対し、
西城さんは最初は少し伸び悩みますが(あくまで郷さんに比べればですが)、
翌1973年5月発売の『情熱の嵐』がオリコン・ヒットチャートで初のベスト10入り(最高6位)を果たし、
大ヒットする頃には完全にトップスターの座をつかみ取りました。




『情熱の嵐』
数々のヒット曲、名曲を送り出した西城さんですが、マイベストはこれです。
最高6位と聞くとちょっと微妙に思うかも知れませんが、当時小学校低学年だった私の印象だと、
それこそ周りの子ども達すべてが口ずさんでいたと言えるほどの程の大ヒットでした。


激しくワイルドなアイドル
当時はまだ男性アイドルという概念がさほど根付いてなかったかも知れませんが、
その典型的なスタイルは郷ひろみさん、そして彼の先輩にあたるフォーリーブスのような
やや中世的な可愛らしさを持つ美少年であったと思います。

しかし、西城さんは明らかに違いました。
180cmを超える長身、男らしくワイルドでむしろ年齢よりも上に見えるルックス。
アクティブなステージもフォーリーブスのような綺麗な振り付け・ダンスというより、
それこそ嵐のように激しくダイナミック、まさにアクションでした。

元々、小学生の頃から故郷広島でお兄さんとロックバンドを組み、
ドラムを叩いていたという凄いキャリアを持つロックミュージシャンだったのです。
熱く激しいステージもロック少年だったと聞けば納得できます。

歌唱力は抜群で、当時の音源で聴いても大変上手なのですが、
その常識破りのダイナミックな歌唱、激しいステージスタイルはかなり異質に受け取られたか、
73年の時点で『情熱の嵐』に続く『ちぎれた愛』が新御三家初のオリコン1位を獲るなどの
大ヒットを連発しながら、紅白歌合戦出場は74年まで見送られました。
(野口さんは72年、郷さん73年より出場)




1974年 紅白初出場での『傷だらけのローラ』


70年代男性アイドル
秀樹さん達の後、当然多くの男性アイドル達がデビューしました。
一時的に人気を得ることはあっても多くは短命に終わり、
新御三家の牙城を崩すことはできませんでした。

他の1970年代の男性アイドルというと、
グループでは60年代末デビューで安定した人気のあったフォーリーブスが今に続くアイドルの典型という意を含めてと、
新御三家に少し遅れて爆発的な人気を呼んだフィンガー5が挙げられます。

ですので、新御三家にこの2組を加えたのが70年代男性アイドルトップ5だと思いますが、
この2組やその他のアイドルと比較しても、とにかく新御三家の人気・実績が抜けすぎていました。


その中でも西城さんは70年代を通じて失速せずにコンスタントにヒットを出し続け、
最後の年となる1979年には『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』がオリコン5週連続1位の大ヒット。
この歌はアメリカのヴィレッジ・ピープルのヒット曲のカバーで、
西城さん自身が見つけたきたという原曲は結構いわく付きなのですが、
日本では明るく健康的なイメージで、激動の70年代掉尾を飾る国民的ヒット歌謡となりました。
私は高校の運動会で1年生全員でこの歌で踊った記憶があります。




『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』
西城さんもこの大ヒットをもって、70年代をトップのままの走り抜けました。


では新御三家の中でトップは誰か?
難しいですが、70年代に限定すれば、やはり『ヤングマン』の存在が大きく、西城さんだと思います。


1980年代になるとたのきんトリオの田原俊彦さんと近藤真彦さん、更にシブがき隊らが台頭し、
さすがにアイドルとしてはトップの座を明け渡しますが、
大人の歌手として『ギャランドゥ』などのヒット曲を出し続けました。

ニュースで伝えられているように後年は2度の脳梗塞との闘病がありましたが、
最後まで歌手、アイドル、スーパースター西城秀樹であり続けた人だと思います。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2017年12月31日 (日)

【芸能】ピンク・レディーがレコード大賞に出演/2018年はぜひ完全復活を!

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昨日、2017年12月30日にTBSで放送された『第59回輝く!日本レコード大賞』に
ピンク・レディーが特別ゲストとして出演しました。

ピンク・レディーのヒット曲の多くを作詞し、10年前に亡くなった阿久悠氏の特別賞受賞を祝し、
特別ステージとしてヒット曲をメドレーで披露したのです。

ミーさん(未唯mie)とケイさん(増田恵子)。
2人は中学・高校の同級生で、ケイさんは1957年生まれで今年60歳になりました。
ミーさんは1958年の早生まれなので来年3月で60歳です。







『ペッパー警部』、『ウォンテッド』、『UFO』。いずれも阿久悠作詞、都倉俊一作曲。
司会の天海悠希さんはリアルタイムのファンなのでしょう。大変なノリ様です。


しかしどうですか、このパフォーマンス。
とても還暦ペアとは思えないビジュアル、スタイル、そして歌とダンス。
バックでは立派なオーケストラが演奏しているので、もちろん口パクではなく実歌唱でしょう。
(口パクと思われる歌手の場合は、演奏席が空席になっていました。)


ネットでも賛辞が圧倒的でしたが、
中には声が出なくなっているとの意見も若干ありますした。
しかし、そもそも若い歌手でも無理なほど激しく踊りながら歌っているのです。
多少は仕方ないでしょう。
それに、元々ケイちゃんはハスキーボイスで声量はあまりありません。

この点については、振付を若干おとなしくするという選択肢もなくはないと思いますが、
そうしないことが彼女達の矜持なのでしょう。
特に今回は阿久悠氏に捧げるステージですから。


2018年は是非本格復活を
ピンク・レディーは21世紀になっても、2011年頃までは何度か復活し、
ツアーを行い、テレビにも出演してきました。
2011年は54歳くらい。

しかし、その後は2人揃ってで見かけることはなくなったと思います。
ピンクとしてのライブの情報も聞きません。

最初の解散後は、ミーさんの方がソロでテレビの企画として
ピンク・レディー時代の曲を歌うシーンを時々見かけましたが、
最近はケイさんの方がそういう機会があるようです。

いずれにしろ、今回の出演でまだまだ“ピンク・レディー”として健在である事を証明しました。

しかし、いくら2人でも永遠に年齢に抗い続ける事はできません。
ここは是非、早期の本格復活を期待したいです。
2人とも60代となる2018年は節目の年ですし。
ベタの言い方ですが、高齢化社会の星です。


それにしても、紅白歌合戦はなぜ2人を出さないのでしょう。
2000年の出場が最後で、その後の2度の再結成では出場していません。
2000年だとまだ2人はアラフォーでした。
アラフィフ以降の出演で、あのパフォーマンスをやれば、
確実に話題になったのに、もったい話です。


Old Fashioned Club  月野景史

2017年11月15日 (水)

フォーリーブス Kouhaku Utagassen

Photo

フォーリーブス in 紅白歌合戦


1970 明日が生まれる


1971 地球はひとつ

9秒くらいから、ごく短い映像



1972 夏のふれあい






1973 若いふたりに何が起る






1974 急げ! 若者





1975 ハッピーピープル




1976 踊り子




次の1977年にリリースしたのが最も有名な『ブルドッグ』
残念ながら落選
1978年8月に解散


関連Blog
フォーリーブス 1978.8.29  ビッグショー 永遠の夏

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