25.スポーツ

2024年3月 1日 (金)

大谷翔平選手の結婚は意外ではない/愛犬デコピンを共に飼う同居人がいると思ったので

アメリカメジャーリーグ ロサンゼルスドジャース大谷翔平選手の結婚は、
かなり意外、驚愕のニュースと受け止められたようですが、
私は「ああ、やはりそうだったか」という印象でした。

もっとも、私がそう感じた根拠については、的確な見方だったのか、
それとも見当違いなのかは、よくわからないのですが、ともかく意外には思いませんでした。

結婚が意外だと感じなかった理由は、大谷選手の愛犬デコピンの存在です。
犬を飼っていることが広く知られたのも最近ですが、
その時、遠征も多いのに、犬の世話はどうしているのだろう?
留守中の世話をまかせられる同居人がいるのではないか? と思ったのです。

私自身はペットを飼ったことはないですが、親族には長年犬や猫を飼っている人間もいます。
犬の世話はなかなか大変です。
大谷選手の最も身近な人物というと、通訳の水原一平氏が思い浮かびますが、
彼は「選手・大谷」と行動に共にしているので、留守中の犬の世話が出来る筈もありません。

といっても「犬の世話はどうにでもなる」と言われればまったくその通りです。
ただ、留守中はどこかに預けるにしろ、人を雇って自宅で面倒みてもらうにしろ、
世話を他人に任せっぱなしみたいな印象で、どうも大谷選手のキャラに合わない感じがしたのです。
それで、同居人、パートナーというべき存在があるのではと思ったのです。


会見内容からすると
大谷選手は結婚について日本時間の今日3月1日に記者たちの囲み取材に応じました。
プライベートなので言葉をにごしがちでしたが、聞く限り奥さんとの同居歴は浅そうにも感じるし、
デコピンを飼う時点で交際中ではあったようですが、電話での事後報告のようで、
その時点で同居していたのかは微妙というか、どちらかといえば否定的なのかな、という言い回しでした。
だから、私の感想は見当違いなのかも知れません。
しかし、二人で飼うことが前提だったのは違いないようなので、まったくの的外れとも言えないかと思います。

Old Fashioned Club 月野景史

2023年3月20日 (月)

【大相撲】大関以上は絶対二人必要(!?) 不文律は守れるのか、守るのか?

大相撲は大阪の春場所が開催中ですが、
今場所は横綱が照ノ富士、大関が貴景勝のみ、番付上、一横綱・一大関しかいません。
この時点で充分に緊急事態なのですが、照ノ富士は三場所続けて初日からの全休、
そして先場所優勝で綱取り場所だった貴景勝も途中休場と、
横綱大関が完全不在という緊急事態となっています。

その割には、三役以下が接戦で、それなりに盛り上がっているようですが。

さて、この事態を受けてネットでは、
照ノ富士に引退勧告すべきとか、
あるいは、これは少し前からですが、ここのところ陥落した正代や御嶽海も含め、
大関陣の不振が目立つこともあり、大関の昇進基準を厳しくすべき、といった声も目立ちます。

まぁそれも分からないではないですが、現実的にはもっと深刻な状況で、
不透明ですが、むしろ逆をいくような事態にならないとも限らないのです。


どういうことか?
まだ、現実に起きたことがない事態で、実際にどういう対応が取られるかは不明なのですが、
相撲界には、「大関は必ず二人いなければならない」、という不文律があるというのです。

そんなの、既に現時点で大関は貴景勝一人だろうと思うでしょうが、
今は番付上、照ノ富士が東の「横綱大関」として大関を兼務、
貴景勝が西の大関で、東西一人ずつ大関がいることになっているのです。

2023

その意味では、「大関以上が二人必ずいなくてはならない」、というのがより正確です。

過去に大関が一人となり、横綱が「横綱大関」として、大関を兼務したことはありました。
ただ、その場合も横綱は複数いました。

番付上、横綱と大関が合わせて二人というのは(大昔は別として)、
いってみれば「リーチがかかった状態」というのは、初めてだと思います。


では、もし今、照ノ富士が引退か、貴景勝が大関陥落、あるいは引退して、大関以上が一人になったら、どうするのか?
本当にこの不文律が生きていて、これを守るとするならば、関脇以下の誰かを大関に上げるしかありません。

大関昇進の目安は、直近三場所を三役で合計勝ち星が33勝以上とされています。
この基準は明文化されているわけではないですが、だいたいこれに沿った結果を残した力士が昇進しています。

しかし、大関以上が一人になってしまったら、
この基準に遠く及ばなくても、その時点で成績の一番良い関脇か、
あるいは小結以下の力士でも上げなくてはならなくなる、それ以外にないということです。

これは正に非常事態、そんなことになったら、色々と禍根を残しそうな気もします。
しかし、この不文律とやらを本当に守らないといけないのかも不透明です。

いずれにしろ、まずはこの非常事態を防ぎたいところ。
貴景勝には来場所、大関の地位をしっかり守ってもらいつつ、
関脇以下の誰かが充分な成績を上げて堂々の新大関(あるいは再大関)誕生、
となってくれるのが、当然望ましいのですが。

Old Fashioned Club 月野景史

2021年4月 7日 (水)

【相撲】峰崎部屋と東関部屋が閉鎖/相撲部屋後継者難の複雑な事情

大相撲の話題です。
春場所は照ノ富士の優勝、大関復帰決定で幕を閉じましたが、
その記憶も新しい4月1日、二つの部屋の閉鎖が発表されました。
峰崎部屋と東関部屋です。
所属力士はそれぞれ峰崎→芝田山部屋、東関→八角部屋に移籍となり、大相撲は全42部屋となりました。

峰崎部屋と東関部屋が閉鎖 大相撲は部屋運営受難の時代に(日刊ゲンダイ)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/287509


近年、何かと不祥事が伝えられがちな相撲界ですが、今回はそういうわけではありません。
峰崎部屋は師匠(元前頭三杉磯)の定年によるもので、まぁ予定通り。

東関部屋は1年限定で師匠を引き受けた親方(元高見盛)の後継者が見つからなかったため。
現役時代に人気が高かった高見盛に関わることなので、事前に少し話題になっていましたが、
こちらも予定されていたことではあります。

とはいえ、どちらも最初からの予定通りというわけではありません。
なんとか後継者をと周囲も動いたのですが、結局見つからず閉鎖となったのです。

このような問題が起こるには複雑な背景があります。


部屋創設に高いハードル
昭和の時代、相撲部屋の総数は30ほどでした。
それが平成になるころから新部屋の創設が増え、
2004年には55部屋にまでなりました。

小部屋の乱立は様々な弊害を生みました。
そこで、現役時代に以下の実績を残した元力士しか、新部屋を作れなくしたのです。

1.横綱もしくは大関(大関から陥落した力士も含む)
2.三役(関脇・小結)通算25場所以上
3.幕内通算60場所以上(番付制限なし)

これはハードルが高い。
相当の実績を残した大物力士でないと部屋は創設できません。

当然、これ以降部屋の創設は減り、
後継者のいない部屋は統廃合していくので、部屋の総数は減少していきました。
これ自体は協会の目論見通りです。


既存部屋の継承は
ところで、上に挙げたのはあくまで部屋を新設する条件で、
既存の部屋を継承するハードルはぐっと低くなります。
それならば、今回のようなことは起きなさそうですが、
問題はそう単純でもありません。

部屋の継承はタイミングがあり、継承される方、する方、
双方に事情や思惑があり、なかなか思い通りにはなりません。

しかも、既に全体の統廃合もある程度進み、極端な小部屋は少なくなっており、
今後引き継ぐとなると、それなりの数の力士を一度に引き受けることになる。
覚悟も、資金等の準備も必要です。

後継を持ち掛けられた方も、もう少し若ければともかく、もう無理ということもあるでしょう。
(ましてこのコロナ禍では)

更に「一門」という難しい問題もあります。
この問題の舵取りも難しいところです。


しかし、相撲部屋については、もっと色々と問題点があります。
「かわいがり」という名の暴行、いじめ、パワハラなど、しばしばニュースになりました。

スポーツ界をとりまく視点も昔とは変わりつつあります。
近年、安定した人気が復活していた大相撲ですが、
コロナ禍でまともな興行が打てない状況が続いています。
どこに向かうのか?

Old Fashioned Club 月野景史



2020年3月22日 (日)

【大相撲】無観客の春場所は白鵬に有利だったか/若手台頭の足音も少しずつ

新型コロナウィルス問題により、史上初の無観客で行なわれた大相撲春場所は
横綱白鵬の優勝で幕を閉じました。


この「無観客」というスタイル。
異例のことで、慣れていないという点はどの力士も一緒でしょうが、
力士によっての有利・不利というのも多少はあったかと思います。

例えば白鵬、鶴竜のモンゴル出身の両横綱、特に白鵬。
とにかく負ければ観客は大騒ぎで盛り上がるのだから、
さすがにストレスもたまるでしょう。
無観客はやり易かったのではないか。
さすがに全盛期に比べれば力は落ちており、全勝とはいかなかったが、やはり強かった。

逆に最近人気の炎鵬などは粘れば粘るほど客席が盛り上がり、
それを背に受けて更に粘るというふうで、観客の反応がないと辛いのではと思いましたが、
今場所はその通りの結果でした。
といっても番付は過去最高位で、今回は跳ね返されたという面の方が大きいかも知れませんが。


そして大関獲りかかった朝乃山も本来は凄い声援で押されていたところでしょう。
途中で負けが重なり、今回は無理かという雰囲気になりましたが、
11勝でどうやら当確ということになったようです。
26歳、世代交代の足音を感じます。


他に目についたところを挙げていくと・・・、

ベテラン碧山は中盤あたりの強さはなかなかで、
先場所の徳勝龍の再現かと思わせましたが、
両横綱との対戦を組まれると厳しかった。
それでも11勝で殊勲賞。
まだまだ頑張ってほしい。

隆の勝の12勝、敢闘賞は立派。
こちらも25歳の若手。
そして、大関貴景勝と同じ千賀ノ浦部屋ですが、
隆の勝は先代からの生え抜き、貴景勝は貴乃花部屋からの移籍という微妙な関係。

隆の勝としては年下で移籍組の貴景勝に先を越されていたわけですが、
今場所は貴景勝は負け越しで来場所は大関カド番と、明暗を分けました。

新入幕の琴ノ若は9勝6敗。
中盤はもっと勝つかとも思いましたが、素質抜群であるとこは証明されました。

異例の無観客場所ですが、次の時代への足音は着実に感じられました。


しかし、来場所はどうなるのか?
相撲協会所有の両国国技館での開催ーなので、
無観客場所でも少ない損害で出来ることは間違いないでしょうけど。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年2月26日 (月)

【カーリング】ブレイ中の選手の会話を聞きながら観戦する唯一のスポーツか/選手と一体感が

平壌オリンピックが閉幕しました。
開幕前は北朝鮮絡みの政治的問題がクローズアップされていましたが、
やはりスポーツの祭典はいいものです。
そして日本勢の頑張りには感動しました。

同じような人が多かったろうけど、
今回の五輪でカーリングというスポーツを始めてちゃんと観ました。
特に女子チームのLS北見(ロコ・ソラーレ)の活躍には注目してしまいました。

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3位決定戦、最後の最後での銅メダル獲得!
盛り上がりました。
大逆転・・・、点数はリードしていたのだから、逆転といえるのか分かりませんが。

そして、

「そだねー」
「おやつタイム」(「もぐもぐタイム」というネーミングはどんなものか)
早くも今年の流行語大賞候補?
人気急上昇です。


ところで、この注目度アップにはカーリングという競技の特性にも理由があると思います。
それは、ブレイ中の選手の会話をずっと聞きながら観戦するということ。

といっても会場で観たことはないので、テレビ観戦についてはなのですが、
このような競技スポーツはおそらく他にないでしょう。

かなり昔、プロ野球のオープン戦だかで、内野手にマイクをつけてもらって、
ピッチャーマウンドに集まった際の会話を録音するテレビの企画がありました。
たしか横浜の田代富雄選手の現役時代でレギュラーの頃んなので、
1970年代後半から80年代前半かと思います。
あの番組を思い出してしまいましたが、これはあくまでレアな企画の話。

カーリングは常に選手の声を聞きながらの観戦が当たり前。
観てる方も選手と一緒にプレイしているような連帯感が生まれます。
なかなか面白いスポーツです。
楽しませてもらいました。

Old Fashioned Club  月野景史

2016年7月31日 (日)

【訃報】元千代の富士の九重親方死去/不撓不屈 大相撲史に輝く昭和の大横綱

元横綱千代の富士の九重親方が亡くなりました。61歳。
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1687678.html
昨年11月にはやはり戦後の大横綱である北の湖が亡くなっており、相撲界も大きな訃報が続いてしまいました。

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千代の富士 貢

(ちよのふじ みつぐ、本名: 秋元貢 1955年6月1日 - 2016年7月31日)
北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。


相撲史に残る偉大な横綱 千代の富士
大鵬の32回に続く、31回の優勝は北の湖の24回を大きく上回る昭和期2位。
歴代でも現役横綱白鵬(現在37回)、大鵬に次ぐ第3位の記録。
昭和で唯一、通算1000勝を達成した大横綱、大力士でした。

圧倒的な才能・身体能力で二十歳そこそこで横綱に駆け上がった大鵬や北の湖に比べ、
小兵で度重なる負傷に泣かされながら大横綱となり、36歳の年まで務めた千代の富士は、
現役時代の1989年に国民栄誉賞を受賞、当時から偉人のような存在でした。

遅咲きの横綱・・・とはいっても、大鵬や北の湖に比べれば遅くても、一般論なら充分なスピード出世で
1974年11月場所に19歳で関取昇進、整った精悍なマスクと引き締まった体で「ウルフ」と呼ばれ、
次代を担うホープとして人気を集めました。
小兵ながら腕力とバネの強さは素晴らしく、その素質は素人目にも突出していたのですが、
その身体能力に頼っての強引な投げを中心とした相撲が災いして肩の脱臼を繰り返し、
番付は乱高下しました。

この時期は本気でプロレス転向を考えたこともあるようで、
近年、やはり大相撲からプロレスに転じた大位山勝三がプロレス専門誌等で、
その詳細な状況を明らかにしています

しかし、プロレスの方は断念したようで、相撲道に専心。
筋トレにより肩・腕に筋肉を付けることで脱臼癖を克服すると共に、
相撲内容も強引さが影をひそめ、手堅いものに変わっていきました。
新十両から5年以上達ち、25歳になっていた1980年頃にはようやく安定した成績を残すようになりました。

そこからは早かったです。
翌1981年3月場所で大関昇進。
3場所で通過して同年9月場所には新横綱。

当時は2歳年上の横綱北の湖の全盛期。
激しい優勝争いが繰り広げられる・・・かと思ったのですが、
この7年前の1974年に横綱に昇進、千代の富士の横綱昇進まで22回の優勝を重ねていた北の湖は、
この年の夏巡業で負傷して以降急激に失速し、時代は一気に北の湖時代から千代の富士時代に転換します。
以来、昭和から平成へ、1991年5月場所まで、大横綱として君臨しました。
本当に安定していた圧倒的な強さでした。
国民栄誉賞も、このような実績を踏まえてのものです。


引退後
千代の富士は部屋の師匠としての実績も立派でした。
大鵬や北の湖、後輩の貴乃花らと同様に一代年寄の資格があるのですが、それを行使せず、
年寄陣幕を経て師匠の元横綱北の富士から1992年に九重部屋を継承し、
大関千代大海(現在は九重部屋付の佐ノ山親方)ら多くの力士を育てました。

最新の本年7月場所の九重部屋所属の関取は幕内2人、十両4人の計6人。
これは、ざったみたところ全部屋で最多、5人は何部屋かありますが、6人は九重部屋だけのようです。
それも他の部屋からの移籍者はなく、一から育てた直弟子ばかり。
しかも、みな20代と若く、将来性もあります。
この人数は7月場所の星取表を見る限り来場所もキープできそうで、十両から幕内への昇進者も出そうです。

一方で、今年初めに行われた相撲協会の理事選に当選の見込みが立たず出馬を断念するなど、
現役時代、及び師匠としての実績からすれば、そぐわない立場だったともいえます。
今年の理事選については、↓こちらを参照。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4136.html


61歳の若すぎる死は無念だったでしょうが、その輝かしい実績は相撲史に残ります。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2016年1月29日 (金)

【相撲】九重親方(元千代の富士)落選確実で理事選回避/現役時代も引退後も実績抜群なのにこの不遇

大相撲人気は回復基調のところにもってきて、
初場所は大関琴奨菊が日本出身力士として10年ぶりに優勝といい事づくめ。
その日本相撲協会では2年ぶりに理事選が行われ、新理事が決まりましたが、
八角理事長(元横綱北勝海)と貴乃花親方との対立が伝えられるなど、運営面はまだ波乱含みです。

その理事選の前に気になるニュースが伝えられました。
元横綱千代の富士の九重親方が、当選が見込めず、理事選出馬を断念したというのです。
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1597977.html


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※追記:九重親方は2016年7月31日に死去しました。以下に追悼文を記しています。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-8961.html


もちろん、現役時代の実績が凄いからといって協会の要職に必ず付けるものでもなく、
一門等、相撲界には派閥、数の論理がありますが、これも世の組織の常です。
九重親方は前回の理事選でも落選しており、今回もその情勢を挽回できませんでした。
自身を取り巻く勢力図は、前回と変わってなかったということでしょう。
また、病気も抱えていると聞きます。

とはいえ、九重親方は相撲界初の国民栄誉賞受賞者。
現役時代の図抜けた実績に加えて、師匠・親方としての弟子の育成実績も申し分ありません。
それが、本人に理事への意志がありながらこの状況とは、やはり驚かざるを得ないし、さすがに残念にも思います。


過去の大力士達
戦前の大横綱双葉山。
戦後最初の黄金期、栃若時代を築いた栃錦と若乃花。
いずれも引退後は理事長を務めています。

戦後昭和期最大の横綱大鵬は若くして脳梗塞に倒れて後遺症が残った為、
理事長にはなれなかったものの、長く理事・役員待遇を務め、定年後は相撲博物館館長と厚遇されてきました。
そして、昨年亡くなった北の湖も理事長を務めました。

主流・非主流でいえば、出羽海一門の栃錦と北の湖以外は非主流派になります。
それでも歴史に残る大力士達は、それなりの扱いを受けてきたのです。


相撲史に残る偉大な横綱 千代の富士
大鵬の32回に続く、31回の優勝は昭和期2位、歴代3位の記録。
現役時代に相撲界初の国民栄誉賞を受けるなど、現在の協会人の中でその実績は突出しています。
角界での同賞受賞者は、他には大鵬が没後に受けただけです。
圧倒的な才能・身体能力で若くして横綱に駆け上がった大鵬や北の湖に比べ、
小兵で度重なる負傷に泣かされながら大横綱となり、36歳の年まで務めた千代の富士は、
現役時代から偉人のような存在でした。
国民栄誉賞授受も、このような実績を踏まえてのものでしょう。

ただ、いかに現役時代の実績が凄くても、引退後に親方として、特に力士育成に成果が残せないと、
協会での出世は望み難いといのはわかります。
しかし、九重親方は部屋の師匠としての実績も立派です。

過去にも大関千代大海(現在は九重部屋付の佐ノ山親方)を育てていますが、
今年初場所の九重部屋所属の関取(幕内・十両力士)は6人。
これは、ざったみたところですが、全部屋で最多です。
5人は何部屋かありますが、6人は九重部屋だけのようです。
それも他の部屋からの移籍者はなく、一から育てた直弟子ばかり。
しかも、みな20代と若く、将来性もあり。

新、及び帰り十両の二人は勝ち越し。負け越した十両力士もいますが、おそらく来場所もこの人数をキープするでしょう。
更に、三段目優勝を果たしたホープもいます。
部屋としては順風満帆なのに、師匠がこの状況です。


もちろん、こういった目に見えるものだけでは、推し量れない面もあるのでしょう
それにしても、これだけの実績です。
相撲協会はひとつの組織。プロ野球とは違います。
大看板に傷をつけるのが得策とは思えません。
もう少し、なんとか形をつけられないものかと思ってしまいます。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、日刊スポーツのサイトより引用
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1597977.html
☆☆☆
九重親方が理事選断念 票「そろわなかった」
[2016年1月29日9時28分]
日本相撲協会は28日、東京・両国国技館で役員候補選挙(29日投開票)の立候補を受け付け、定員10人の理事候補に八角理事長(元横綱北勝海)や4期目の当選を目指す貴乃花理事(元横綱)ら11人が届け出た。立候補を表明していた九重親方(元横綱千代の富士)は出馬を断念し「出さなかった。(票が)そろわなかったということで…」と説明した。

九重親方は協会NO・2の事業部長だった前回、最下位5票で落選。「不徳の致すところです」と漏らした。親方99人が投票する今回は当選に10票ほどが必要で、昨夏に早期の膵臓(すいぞう)がんで手術を受けた同親方は、理事復帰を目指してほかの一門との協力を模索していた。

2年に1度の役員改選で、今回は4期連続の投票。関係者の話では、伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)高島親方(元関脇高望山)の伊勢ケ浜一門2人と山響親方(元前頭巌雄)の3人で最後の2枠を争うとみられる。定数3人の副理事も4人が届け出て投票となった。当選者は3月28日の評議員会の承認を経て就任する。理事長は、新たな理事の互選で決まる。
★★★

2016年1月28日 (木)

【相撲】大関琴奨菊 32歳間近14勝1敗の優勝は先代佐渡ヶ嶽(横綱琴櫻)を彷彿とさせるが

大相撲初場所は大関琴奨菊の10年ぶりの日本出身力士優勝で幕を閉じました。
14勝1敗の立派な成績でした。
当然、次は横綱との期待がかかります。

琴奨菊は1984年1月30日生まれなので、まもなく32歳。
相撲取りとしては決して若くありません。
大関26場所目でしたが、過去の25場所で、大関の合格点とされる二桁勝利は僅か7回。
途中休場や皆勤での負け越しも目立ち、大関として、立派な数字を残してきたとはいえません。

ところで、このキャリアによく似た力士を思い出しました。
他でもない、琴奨菊にとって入門時の師匠、元横綱琴桜の先代佐渡ヶ嶽親方です。

琴桜もまた、大関を30場所務めて32歳となり、“万年大関”のような言われ方をしていました。
下からは若い世代が追いかけてきていました。
それが14勝1敗での優勝を二場所連続で勝ち取り、一気に綱とりを果たしたのです。

果たして、先代師匠にあやかり、一気に横綱へと上れるでしょうか。
今までの成績を考慮しての厳しい見方もされます。
ただ、師匠と同じ、14勝以上での連続優勝ならば可能性はあるでしょう。

もちろん、簡単な事ではありません。
先代師匠のような例もありますが、
同郷福岡の先輩魁皇のように、大関として4回(通算5回)の優勝がありながら、
直後の場所に成績が繋がらず、横綱になれなかった人もいます。

まずは次の春場所が注目されます。

Old Fashioned Club  月野景史

2015年11月20日 (金)

【訃報】昭和の大横綱北の湖死去/相撲ファンがリアルタイムで見た強さの履歴

第55代横綱で、現㈶日本相撲協会理事長・北の湖敏満氏が11月20日に亡くなりました。62歳
http://news.livedoor.com/article/detail/10857314/

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戦前の双葉山、戦後の大鵬、北の湖、千代の富士が「昭和の大横綱」。
「20世紀の大横綱」なら、これに貴乃花が加わるでしょう。

現役時代、「憎らしいほど強い」と言われた・・・と、盛んに語られています。
北の湖がまさに横綱に駆け上がった時期、私は熱心な大相撲ファンでした。
今日はその“憎らしいほどの強さ”の実態を、リアルタイムで見たファンの目で記します。


北の湖 敏満
(きたのうみ としみつ、本名:小畑敏満 1953年5月16日 - 2015年11月20日)

北海道有珠郡壮瞥町出身。
中学1年生で三保ヶ関部屋に入門し、1967年1月場所で初土俵。
当時は中学に通いながら、力士になることができたのです。

1971年5月場所に当時史上最年少の17歳11ヶ月で十両に昇進。
これは大関貴ノ花の18歳0ヶ月の記録を破ってのもの。
(ただし、貴ノ花は中学卒業後の入門なので、スピードでは貴ノ花が上。)
1972年1月場所には新入幕(18歳7ヶ月)。
その後の2年間で順調に番付を上げ、そして一気にトップに立つ快進撃が始まります。

新関脇として迎えた1974年1月場所。14勝1敗で初優勝。
この場所はベテラン横綱の北の富士と琴桜が途中休場し、二人とも7月場所までに引退。
時代の転換を強く思わせる年になりました。
更にこの場所では第一人者となるべき横綱輪島も前場所の負傷の影響で調子が上がらず、
その状況下で二十歳の新星が台頭したのです。
この優勝で大関昇進を決めた北の湖ですが、その地位も三場所で通過、同年9月場所で第55代横綱となりました。

強くて巧い
当時の北の湖は身長は180cm足らずで、この時代の幕内の中でも大きい方ではありませんでしたが、
150キロ超の体から繰り出すパワーを生かし、立ち合いのかち上げ から相手を圧倒しました。
その反面なのですが、差し手でも喧嘩四つの相手には確実に得意の左四つに持ち込む堅さ、器用さを併せ持っていました。
一方、不得手の右四つでも確実に勝てる相手は、最初から右四つに組み止めて仕留めるような、
自分の力、相手の力量を計りきった上で狡猾に対処する面もあり、実に隙がなく強く、そのあたりも憎らしいと言われる所以でした。

元々日本人は判官贔屓で、この時代の人気No.1は軽量大関の貴ノ花。
強過ぎる横綱にはアンチが増えるのは当然なのですが、北の湖の場合は今書いたようなどうしようもないほどの強さでしたね。



花のニッパチ組
北の湖に続き、同じ1953年=昭和28年生まれの、大錦、若三杉(後の横綱二代目若乃花)、
麒麟児、金城が1974年までに幕内に昇進、昭和28年生まれなので「花のニッパチ組」と呼ばれました。
当時21歳、昭和50年代を迎え、ヤングパワーの象徴となったのです。
二十歳から21歳の力士がの幕内に5人揃うのは、なかなかフレッシュでそうそうない事でしょう。
その後の相撲人生、更に引退後もそれぞれ色々ありましたが。


輪湖時代 そして北の湖時代へ
さて、横綱に駆け上がった北の湖ですが、昇進当時は毎場所優勝というほどではありませんでした。
1974年は輪島の巻き返しに合い、優勝は輪島3回、北の湖は2回。
翌1975年は輪島が不振で優勝ゼロだったにも関わらず、大関貴ノ花に二度の優勝を許すなどして自身は2回。
その貴ノ花戦も含め、2年間で優勝決定戦に4連敗し、ここ一番に弱いなどと言われました。
(逆にいえば、ここ一番には弱いが、普段は滅法強い、そんなイメージでした。)

翌1976年には輪島も復調。
北の湖も安定感を増し、毎場所のように両者で優勝争いを繰り広げ「輪湖(りんこ)時代」と呼ばれました。
輪島28歳、北の湖23歳で5歳差。共に左四つ得意で左下手がほしい輪島と右上手がほしい北の湖ですから、合い口がぴったりだったのです。
Wikipedeqには「がっぷり四つ」との記述がありますが、それは少なく、北の湖が右上手を取り、
輪島がは左下手を取って右から絞るという形が定番でした。
お互いに得意の体勢であり、大相撲が繰り広げられました。

しかし、1978年になると輪島を突き放し、81年までは独走状態で通算22回の優勝を記録、大横綱への道をひた走ります。
当時28歳。圧倒的な強さ。怪我にも強く、入門以来一度の休場もなし。
27歳頃から休場の目立っていた大鵬(優勝32回)と比べても、どこまで記録を伸ばすのかと思われていました。


千代の富士との不思議な関係
北の湖 1953年生まれ 優勝24回
千代の富士 1955年生まれ 優勝31回
二歳差、この優勝回数を見れば、二人で随分と優勝争いを繰り広げたかと思いますが、意外にもその印象はほとんどありません。

千代の富士も若手時代からホープといわれてきましたが、肩の脱臼を繰り返して一進一退。
横綱昇進は26歳になる1981年9月場所でした。
対照的に怪我に強かった北の湖ですが、この年の夏巡業で負った負傷が原因となり、
11月場所で初の休場となりました。
以後、北の湖は休みがちになり。1985年1月場所まで現役を続けますが、82年~85年の優勝は2回だけ。
時代は急激に千代の富士時代に転換し、「湖千代時代」は到来しなかったのです。

本当に、二人の全盛期は入れ違いでした。これはやはり残念でした。
千代の富士は右四つ左上手を取っての相撲。輪島と違って真っ向のケンカ四つです。
北の湖の全盛期がせめて後1~2年続いていれば、更なる伝説が生まれていたろうと思うと、やはり残念です。


それはともかく、衰えは急速だった北の湖ですが、それでもほぼ丸8年間、圧倒的強さで相撲界のトップに君臨し、
「憎らしいほど強い横綱」として記憶にも、もちろん記録にも残る大横綱でした。
謹んで哀悼の意を表し、追悼文を記させていだきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、スポニチアネックスより引用
http://news.livedoor.com/article/detail/10857314/
☆☆☆
北の湖理事長が多臓器不全で死去、62歳 第55代横綱 優勝24回で一時代
2015年11月20日 20時29分
スポニチアネックス   

日本相撲協会の北の湖敏満(きたのうみ・としみつ、本名小畑敏満=おばた・としみつ)理事長(元横綱)が20日午後6時55分、死去したことが分かった。玉ノ井広報部副部長が発表した。62歳だった。北海道出身。

同広報部副部長によると死因は直腸がんによる多臓器不全だという。「急変だった。きのうも元気に公務されていたのに、いきなりこういうことになって。何ともいえないです」と神妙に話した。日本相撲協会は理事長代行を八角親方(元横綱北勝海)が務めると発表した。

この日朝、貧血で救急搬送され、開催中の九州場所を休場することが発表されていた。今年7月の名古屋場所では腎臓に尿がたまる両側水腎症で途中休場。体調面に不安を抱えているが、九州場所は初日から勤務して報道対応などを連日こなしていた。

北の湖理事長は1953年(昭28)5月16日、北海道生まれ。中学時代の67年初場所で初土俵、18歳の72年初場所で新入幕するなどスピード出世し、74年名古屋場所後には21歳2カ月で第55代横綱に昇進した。優勝は24回を重ね、輪島、初代貴ノ花らと一時代を築いた。

85年の引退後は一代年寄として「北の湖」部屋を興し、2002年には理事長に就任した。就任後は07年の朝青龍騒動や時津風部屋力士暴行死事件、08年9月8日、ロシア人力士の大麻問題と立て続けに不祥事に見舞われ辞任に追い込まれた。12年1月に理事長に復帰し、13年には還暦土俵入りを行った。同年12月には大腸のポリープを除去手術を受けるなど病気と闘っていた。 
★★★

2014年2月12日 (水)

【ソチ五輪】平野 平岡 若い二選手が快挙/スノーボードの過去と今

日本勢が苦戦気味のソチ冬季オリンピックですが、若い二人の選手が快挙を達成しました。

日本時間12日に行われたスノーボード・ハーフパイプ男子で、
決勝に進出した平野歩夢選手(ひらの・あゆむ 15歳)が2回目に93・50点を出して銀メダル、
平岡卓選手(ひらおか・たく 18歳)も92・25点で銅メダルを獲得しました。

Photo
平野選手については開幕前のニュースで有望と伝えられていたので期待していましたが、
若い選手がプレッシャーに負けず、結果を残しましたね。
日本がスノーボードでメダルを獲得したことに、時代を感じます。


1980年代  スキー全盛の時代
バブル最盛期に向かう1987年、
『私をスキーに連れてって』という映画がヒットしました。
バブル時代を象徴する作品として、
またレジャースキーをテーマとした映画の代表作として、伝説的です。

この時代、スキ―は若者達のレジャー文化として、ウィンタースポーツの象徴でした。
ブームであったといってもいいかも知れません。
一方、スノーボードはまだ一般には存在すら知られていなかったと思います。

実は、日本では1983年 世界初の国協会として「日本スノーボード協会」が発足し、
「第一回全日本スノーサーフィンチャンピオンシップ」開催されています。
ヨーロッパと北アメリカでスノーボード協会が発足したのは1985年なので、
日本はスノーボードの先進国ではあったのです。
それでも、1980年代は、一般的に認知度は低かったのです。

90年代 スキーからスノボへ
それが1990年代に入り、レジャーとしてのスノーボードが若者中心に急速に普及します。
「スノボー」「スノボ」の略称も定着しました。
既に人気のあったスケートポードの影響で、若い層に受け入れられたとの見方もされます。
このブームにより、実に短期間でスキーと関係が逆転してしまいました。

一方で、ゲレンデではスキーヤーとスノーボーダーとの軋轢があったり、
スキーと違い両足を同じ板に固定するスノーボードは、転んだ時に頭を打つ危険性も指摘されました。
元々スキーも下手な私などは、手を出す気にはなれませんでした。

しかし、スノーボードはすっかり定着し、
90年代終盤を迎える頃には、若者はみなスノーボードから入るのが常識となりました。
学校行事として行われる場合も、昔は好スキー教室だったのが、スノボー教室になりましたね。

時代が生んだ世代
今回の若い二人の選手は、まさにそのスノボー全盛時代に生まれ育った世代です。
平野選手は1998年生まれ、平岡選手は1995年生まれ。
平野選手は新潟県村上市でスケートパークを運営する家の生まれ、
平岡選手は奈良県出身ですが、父親が元モーグルスキーの選手ということで、
ウインタースポーツに取り組む上では元々恵まれた環境にはあったのですが、
それにしても、スノボーブームが生んだ世代といえるでしょう。

競技スポーツとしてのスノーボード
さて、スノーボードが季オリンピック正式種目となったのは1998年の長野五輪から。
レジャー文化としては定着していても、
競技としての一般的関心度は、それほど高くはありませんでした。

前回2010年のバンクーバー五輪では出場選手のファッション(腰パン)や、
会見での態度が悪評を集めたのが記憶にあるくらいです。
今回のソチ五輪でも、注目は他の競技に集まり、
開幕前にはスノボーのことはあまり語られていなかったと思います。
しかし、この快挙で一気に注目は高まるでしょう。

一方で、スキ―もスノボーを含めた、
ゲレンデにおけるレジャーとしてのウインタースポーツは、
長期低迷傾向にあるとされます。
今回の快挙が起爆剤になるのかもまた、注目されるところです。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、MSN 産経ニュースより引用
http://sankei.jp.msn.com/sochi2014/news/140212/soc14021203310017-n1.htm
☆☆☆
平野が銀、平岡が銅 男子ハーフパイプ
2014.2.12 03:31 [スノーボード]

スノーボード・ハーフパイプ男子は日本時間12日、日本から決勝に進出した平野歩夢(15)が、2回目に93・50点をたたき出し、銀メダルを獲得した。平岡卓(18)も92・25点で銅メダル。優勝は94・75点を獲得したスイスのユーリ・ホドラドチコフ。五輪2連覇中の王者、ショーン・ホワイトは細かいミスがあり、90・25点で4位にとどまった。

12人で争う決勝で1回目に90・75点を出し、首位となった平野は、2回目も積極的に攻め、高いエアから難易度の高い連続技を次々に成功させた。

1回目に尻餅をつき、45・50点にとどまった平岡も2回目に難易度の高い技を続け、高得点を得た。

五輪2連覇中の王者、ショーン・ホワイトは途中転倒するなどミスが続き、35・00点で11位。2回目に挽回(ばんかい)したものの、メダルには届かなかった。
★★★

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