25.スポーツ

2016年7月31日 (日)

【訃報】元千代の富士の九重親方死去/不撓不屈 大相撲史に輝く昭和の大横綱

元横綱千代の富士の九重親方が亡くなりました。61歳。
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1687678.html
昨年11月にはやはり戦後の大横綱である北の湖が亡くなっており、相撲界も大きな訃報が続いてしまいました。

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千代の富士 貢

(ちよのふじ みつぐ、本名: 秋元貢 1955年6月1日 - 2016年7月31日)
北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。


相撲史に残る偉大な横綱 千代の富士
大鵬の32回に続く、31回の優勝は北の湖の24回を大きく上回る昭和期2位。
歴代でも現役横綱白鵬(現在37回)、大鵬に次ぐ第3位の記録。
昭和で唯一、通算1000勝を達成した大横綱、大力士でした。

圧倒的な才能・身体能力で二十歳そこそこで横綱に駆け上がった大鵬や北の湖に比べ、
小兵で度重なる負傷に泣かされながら大横綱となり、36歳の年まで務めた千代の富士は、
現役時代の1989年に国民栄誉賞を受賞、当時から偉人のような存在でした。

遅咲きの横綱・・・とはいっても、大鵬や北の湖に比べれば遅くても、一般論なら充分なスピード出世で
1974年11月場所に19歳で関取昇進、整った精悍なマスクと引き締まった体で「ウルフ」と呼ばれ、
次代を担うホープとして人気を集めました。
小兵ながら腕力とバネの強さは素晴らしく、その素質は素人目にも突出していたのですが、
その身体能力に頼っての強引な投げを中心とした相撲が災いして肩の脱臼を繰り返し、
番付は乱高下しました。

この時期は本気でプロレス転向を考えたこともあるようで、
近年、やはり大相撲からプロレスに転じた大位山勝三がプロレス専門誌等で、
その詳細な状況を明らかにしています

しかし、プロレスの方は断念したようで、相撲道に専心。
筋トレにより肩・腕に筋肉を付けることで脱臼癖を克服すると共に、
相撲内容も強引さが影をひそめ、手堅いものに変わっていきました。
新十両から5年以上達ち、25歳になっていた1980年頃にはようやく安定した成績を残すようになりました。

そこからは早かったです。
翌1981年3月場所で大関昇進。
3場所で通過して同年9月場所には新横綱。

当時は2歳年上の横綱北の湖の全盛期。
激しい優勝争いが繰り広げられる・・・かと思ったのですが、
この7年前の1974年に横綱に昇進、千代の富士の横綱昇進まで22回の優勝を重ねていた北の湖は、
この年の夏巡業で負傷して以降急激に失速し、時代は一気に北の湖時代から千代の富士時代に転換します。
以来、昭和から平成へ、1991年5月場所まで、大横綱として君臨しました。
本当に安定していた圧倒的な強さでした。
国民栄誉賞も、このような実績を踏まえてのものです。


引退後
千代の富士は部屋の師匠としての実績も立派でした。
大鵬や北の湖、後輩の貴乃花らと同様に一代年寄の資格があるのですが、それを行使せず、
年寄陣幕を経て師匠の元横綱北の富士から1992年に九重部屋を継承し、
大関千代大海(現在は九重部屋付の佐ノ山親方)ら多くの力士を育てました。

最新の本年7月場所の九重部屋所属の関取は幕内2人、十両4人の計6人。
これは、ざったみたところ全部屋で最多、5人は何部屋かありますが、6人は九重部屋だけのようです。
それも他の部屋からの移籍者はなく、一から育てた直弟子ばかり。
しかも、みな20代と若く、将来性もあります。
この人数は7月場所の星取表を見る限り来場所もキープできそうで、十両から幕内への昇進者も出そうです。

一方で、今年初めに行われた相撲協会の理事選に当選の見込みが立たず出馬を断念するなど、
現役時代、及び師匠としての実績からすれば、そぐわない立場だったともいえます。
今年の理事選については、↓こちらを参照。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4136.html


61歳の若すぎる死は無念だったでしょうが、その輝かしい実績は相撲史に残ります。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2016年1月29日 (金)

【相撲】九重親方(元千代の富士)落選確実で理事選回避/現役時代も引退後も実績抜群なのにこの不遇

大相撲人気は回復基調のところにもってきて、
初場所は大関琴奨菊が日本出身力士として10年ぶりに優勝といい事づくめ。
その日本相撲協会では2年ぶりに理事選が行われ、新理事が決まりましたが、
八角理事長(元横綱北勝海)と貴乃花親方との対立が伝えられるなど、運営面はまだ波乱含みです。

その理事選の前に気になるニュースが伝えられました。
元横綱千代の富士の九重親方が、当選が見込めず、理事選出馬を断念したというのです。
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1597977.html


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※追記:九重親方は2016年7月31日に死去しました。以下に追悼文を記しています。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-8961.html


もちろん、現役時代の実績が凄いからといって協会の要職に必ず付けるものでもなく、
一門等、相撲界には派閥、数の論理がありますが、これも世の組織の常です。
九重親方は前回の理事選でも落選しており、今回もその情勢を挽回できませんでした。
自身を取り巻く勢力図は、前回と変わってなかったということでしょう。
また、病気も抱えていると聞きます。

とはいえ、九重親方は相撲界初の国民栄誉賞受賞者。
現役時代の図抜けた実績に加えて、師匠・親方としての弟子の育成実績も申し分ありません。
それが、本人に理事への意志がありながらこの状況とは、やはり驚かざるを得ないし、さすがに残念にも思います。


過去の大力士達
戦前の大横綱双葉山。
戦後最初の黄金期、栃若時代を築いた栃錦と若乃花。
いずれも引退後は理事長を務めています。

戦後昭和期最大の横綱大鵬は若くして脳梗塞に倒れて後遺症が残った為、
理事長にはなれなかったものの、長く理事・役員待遇を務め、定年後は相撲博物館館長と厚遇されてきました。
そして、昨年亡くなった北の湖も理事長を務めました。

主流・非主流でいえば、出羽海一門の栃錦と北の湖以外は非主流派になります。
それでも歴史に残る大力士達は、それなりの扱いを受けてきたのです。


相撲史に残る偉大な横綱 千代の富士
大鵬の32回に続く、31回の優勝は昭和期2位、歴代3位の記録。
現役時代に相撲界初の国民栄誉賞を受けるなど、現在の協会人の中でその実績は突出しています。
角界での同賞受賞者は、他には大鵬が没後に受けただけです。
圧倒的な才能・身体能力で若くして横綱に駆け上がった大鵬や北の湖に比べ、
小兵で度重なる負傷に泣かされながら大横綱となり、36歳の年まで務めた千代の富士は、
現役時代から偉人のような存在でした。
国民栄誉賞授受も、このような実績を踏まえてのものでしょう。

ただ、いかに現役時代の実績が凄くても、引退後に親方として、特に力士育成に成果が残せないと、
協会での出世は望み難いといのはわかります。
しかし、九重親方は部屋の師匠としての実績も立派です。

過去にも大関千代大海(現在は九重部屋付の佐ノ山親方)を育てていますが、
今年初場所の九重部屋所属の関取(幕内・十両力士)は6人。
これは、ざったみたところですが、全部屋で最多です。
5人は何部屋かありますが、6人は九重部屋だけのようです。
それも他の部屋からの移籍者はなく、一から育てた直弟子ばかり。
しかも、みな20代と若く、将来性もあり。

新、及び帰り十両の二人は勝ち越し。負け越した十両力士もいますが、おそらく来場所もこの人数をキープするでしょう。
更に、三段目優勝を果たしたホープもいます。
部屋としては順風満帆なのに、師匠がこの状況です。


もちろん、こういった目に見えるものだけでは、推し量れない面もあるのでしょう
それにしても、これだけの実績です。
相撲協会はひとつの組織。プロ野球とは違います。
大看板に傷をつけるのが得策とは思えません。
もう少し、なんとか形をつけられないものかと思ってしまいます。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、日刊スポーツのサイトより引用
http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1597977.html
☆☆☆
九重親方が理事選断念 票「そろわなかった」
[2016年1月29日9時28分]
日本相撲協会は28日、東京・両国国技館で役員候補選挙(29日投開票)の立候補を受け付け、定員10人の理事候補に八角理事長(元横綱北勝海)や4期目の当選を目指す貴乃花理事(元横綱)ら11人が届け出た。立候補を表明していた九重親方(元横綱千代の富士)は出馬を断念し「出さなかった。(票が)そろわなかったということで…」と説明した。

九重親方は協会NO・2の事業部長だった前回、最下位5票で落選。「不徳の致すところです」と漏らした。親方99人が投票する今回は当選に10票ほどが必要で、昨夏に早期の膵臓(すいぞう)がんで手術を受けた同親方は、理事復帰を目指してほかの一門との協力を模索していた。

2年に1度の役員改選で、今回は4期連続の投票。関係者の話では、伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)高島親方(元関脇高望山)の伊勢ケ浜一門2人と山響親方(元前頭巌雄)の3人で最後の2枠を争うとみられる。定数3人の副理事も4人が届け出て投票となった。当選者は3月28日の評議員会の承認を経て就任する。理事長は、新たな理事の互選で決まる。
★★★

2016年1月28日 (木)

【相撲】大関琴奨菊 32歳間近14勝1敗の優勝は先代佐渡ヶ嶽(横綱琴櫻)を彷彿とさせるが

大相撲初場所は大関琴奨菊の10年ぶりの日本出身力士優勝で幕を閉じました。
14勝1敗の立派な成績でした。
当然、次は横綱との期待がかかります。

琴奨菊は1984年1月30日生まれなので、まもなく32歳。
相撲取りとしては決して若くありません。
大関26場所目でしたが、過去の25場所で、大関の合格点とされる二桁勝利は僅か7回。
途中休場や皆勤での負け越しも目立ち、大関として、立派な数字を残してきたとはいえません。

ところで、このキャリアによく似た力士を思い出しました。
他でもない、琴奨菊にとって入門時の師匠、元横綱琴桜の先代佐渡ヶ嶽親方です。

琴桜もまた、大関を30場所務めて32歳となり、“万年大関”のような言われ方をしていました。
下からは若い世代が追いかけてきていました。
それが14勝1敗での優勝を二場所連続で勝ち取り、一気に綱とりを果たしたのです。

果たして、先代師匠にあやかり、一気に横綱へと上れるでしょうか。
今までの成績を考慮しての厳しい見方もされます。
ただ、師匠と同じ、14勝以上での連続優勝ならば可能性はあるでしょう。

もちろん、簡単な事ではありません。
先代師匠のような例もありますが、
同郷福岡の先輩魁皇のように、大関として4回(通算5回)の優勝がありながら、
直後の場所に成績が繋がらず、横綱になれなかった人もいます。

まずは次の春場所が注目されます。

Old Fashioned Club  月野景史

2015年11月20日 (金)

【訃報】昭和の大横綱北の湖死去/相撲ファンがリアルタイムで見た強さの履歴

第55代横綱で、現㈶日本相撲協会理事長・北の湖敏満氏が11月20日に亡くなりました。62歳
http://news.livedoor.com/article/detail/10857314/

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戦前の双葉山、戦後の大鵬、北の湖、千代の富士が「昭和の大横綱」。
「20世紀の大横綱」なら、これに貴乃花が加わるでしょう。

現役時代、「憎らしいほど強い」と言われた・・・と、盛んに語られています。
北の湖がまさに横綱に駆け上がった時期、私は熱心な大相撲ファンでした。
今日はその“憎らしいほどの強さ”の実態を、リアルタイムで見たファンの目で記します。


北の湖 敏満
(きたのうみ としみつ、本名:小畑敏満 1953年5月16日 - 2015年11月20日)

北海道有珠郡壮瞥町出身。
中学1年生で三保ヶ関部屋に入門し、1967年1月場所で初土俵。
当時は中学に通いながら、力士になることができたのです。

1971年5月場所に当時史上最年少の17歳11ヶ月で十両に昇進。
これは大関貴ノ花の18歳0ヶ月の記録を破ってのもの。
(ただし、貴ノ花は中学卒業後の入門なので、スピードでは貴ノ花が上。)
1972年1月場所には新入幕(18歳7ヶ月)。
その後の2年間で順調に番付を上げ、そして一気にトップに立つ快進撃が始まります。

新関脇として迎えた1974年1月場所。14勝1敗で初優勝。
この場所はベテラン横綱の北の富士と琴桜が途中休場し、二人とも7月場所までに引退。
時代の転換を強く思わせる年になりました。
更にこの場所では第一人者となるべき横綱輪島も前場所の負傷の影響で調子が上がらず、
その状況下で二十歳の新星が台頭したのです。
この優勝で大関昇進を決めた北の湖ですが、その地位も三場所で通過、同年9月場所で第55代横綱となりました。

強くて巧い
当時の北の湖は身長は180cm足らずで、この時代の幕内の中でも大きい方ではありませんでしたが、
150キロ超の体から繰り出すパワーを生かし、立ち合いのかち上げ から相手を圧倒しました。
その反面なのですが、差し手でも喧嘩四つの相手には確実に得意の左四つに持ち込む堅さ、器用さを併せ持っていました。
一方、不得手の右四つでも確実に勝てる相手は、最初から右四つに組み止めて仕留めるような、
自分の力、相手の力量を計りきった上で狡猾に対処する面もあり、実に隙がなく強く、そのあたりも憎らしいと言われる所以でした。

元々日本人は判官贔屓で、この時代の人気No.1は軽量大関の貴ノ花。
強過ぎる横綱にはアンチが増えるのは当然なのですが、北の湖の場合は今書いたようなどうしようもないほどの強さでしたね。



花のニッパチ組
北の湖に続き、同じ1953年=昭和28年生まれの、大錦、若三杉(後の横綱二代目若乃花)、
麒麟児、金城が1974年までに幕内に昇進、昭和28年生まれなので「花のニッパチ組」と呼ばれました。
当時21歳、昭和50年代を迎え、ヤングパワーの象徴となったのです。
二十歳から21歳の力士がの幕内に5人揃うのは、なかなかフレッシュでそうそうない事でしょう。
その後の相撲人生、更に引退後もそれぞれ色々ありましたが。


輪湖時代 そして北の湖時代へ
さて、横綱に駆け上がった北の湖ですが、昇進当時は毎場所優勝というほどではありませんでした。
1974年は輪島の巻き返しに合い、優勝は輪島3回、北の湖は2回。
翌1975年は輪島が不振で優勝ゼロだったにも関わらず、大関貴ノ花に二度の優勝を許すなどして自身は2回。
その貴ノ花戦も含め、2年間で優勝決定戦に4連敗し、ここ一番に弱いなどと言われました。
(逆にいえば、ここ一番には弱いが、普段は滅法強い、そんなイメージでした。)

翌1976年には輪島も復調。
北の湖も安定感を増し、毎場所のように両者で優勝争いを繰り広げ「輪湖(りんこ)時代」と呼ばれました。
輪島28歳、北の湖23歳で5歳差。共に左四つ得意で左下手がほしい輪島と右上手がほしい北の湖ですから、合い口がぴったりだったのです。
Wikipedeqには「がっぷり四つ」との記述がありますが、それは少なく、北の湖が右上手を取り、
輪島がは左下手を取って右から絞るという形が定番でした。
お互いに得意の体勢であり、大相撲が繰り広げられました。

しかし、1978年になると輪島を突き放し、81年までは独走状態で通算22回の優勝を記録、大横綱への道をひた走ります。
当時28歳。圧倒的な強さ。怪我にも強く、入門以来一度の休場もなし。
27歳頃から休場の目立っていた大鵬(優勝32回)と比べても、どこまで記録を伸ばすのかと思われていました。


千代の富士との不思議な関係
北の湖 1953年生まれ 優勝24回
千代の富士 1955年生まれ 優勝31回
二歳差、この優勝回数を見れば、二人で随分と優勝争いを繰り広げたかと思いますが、意外にもその印象はほとんどありません。

千代の富士も若手時代からホープといわれてきましたが、肩の脱臼を繰り返して一進一退。
横綱昇進は26歳になる1981年9月場所でした。
対照的に怪我に強かった北の湖ですが、この年の夏巡業で負った負傷が原因となり、
11月場所で初の休場となりました。
以後、北の湖は休みがちになり。1985年1月場所まで現役を続けますが、82年~85年の優勝は2回だけ。
時代は急激に千代の富士時代に転換し、「湖千代時代」は到来しなかったのです。

本当に、二人の全盛期は入れ違いでした。これはやはり残念でした。
千代の富士は右四つ左上手を取っての相撲。輪島と違って真っ向のケンカ四つです。
北の湖の全盛期がせめて後1~2年続いていれば、更なる伝説が生まれていたろうと思うと、やはり残念です。


それはともかく、衰えは急速だった北の湖ですが、それでもほぼ丸8年間、圧倒的強さで相撲界のトップに君臨し、
「憎らしいほど強い横綱」として記憶にも、もちろん記録にも残る大横綱でした。
謹んで哀悼の意を表し、追悼文を記させていだきました。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、スポニチアネックスより引用
http://news.livedoor.com/article/detail/10857314/
☆☆☆
北の湖理事長が多臓器不全で死去、62歳 第55代横綱 優勝24回で一時代
2015年11月20日 20時29分
スポニチアネックス   

日本相撲協会の北の湖敏満(きたのうみ・としみつ、本名小畑敏満=おばた・としみつ)理事長(元横綱)が20日午後6時55分、死去したことが分かった。玉ノ井広報部副部長が発表した。62歳だった。北海道出身。

同広報部副部長によると死因は直腸がんによる多臓器不全だという。「急変だった。きのうも元気に公務されていたのに、いきなりこういうことになって。何ともいえないです」と神妙に話した。日本相撲協会は理事長代行を八角親方(元横綱北勝海)が務めると発表した。

この日朝、貧血で救急搬送され、開催中の九州場所を休場することが発表されていた。今年7月の名古屋場所では腎臓に尿がたまる両側水腎症で途中休場。体調面に不安を抱えているが、九州場所は初日から勤務して報道対応などを連日こなしていた。

北の湖理事長は1953年(昭28)5月16日、北海道生まれ。中学時代の67年初場所で初土俵、18歳の72年初場所で新入幕するなどスピード出世し、74年名古屋場所後には21歳2カ月で第55代横綱に昇進した。優勝は24回を重ね、輪島、初代貴ノ花らと一時代を築いた。

85年の引退後は一代年寄として「北の湖」部屋を興し、2002年には理事長に就任した。就任後は07年の朝青龍騒動や時津風部屋力士暴行死事件、08年9月8日、ロシア人力士の大麻問題と立て続けに不祥事に見舞われ辞任に追い込まれた。12年1月に理事長に復帰し、13年には還暦土俵入りを行った。同年12月には大腸のポリープを除去手術を受けるなど病気と闘っていた。 
★★★

2014年2月12日 (水)

【ソチ五輪】平野 平岡 若い二選手が快挙/スノーボードの過去と今

日本勢が苦戦気味のソチ冬季オリンピックですが、若い二人の選手が快挙を達成しました。

日本時間12日に行われたスノーボード・ハーフパイプ男子で、
決勝に進出した平野歩夢選手(ひらの・あゆむ 15歳)が2回目に93・50点を出して銀メダル、
平岡卓選手(ひらおか・たく 18歳)も92・25点で銅メダルを獲得しました。

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平野選手については開幕前のニュースで有望と伝えられていたので期待していましたが、
若い選手がプレッシャーに負けず、結果を残しましたね。
日本がスノーボードでメダルを獲得したことに、時代を感じます。


1980年代  スキー全盛の時代
バブル最盛期に向かう1987年、
『私をスキーに連れてって』という映画がヒットしました。
バブル時代を象徴する作品として、
またレジャースキーをテーマとした映画の代表作として、伝説的です。

この時代、スキ―は若者達のレジャー文化として、ウィンタースポーツの象徴でした。
ブームであったといってもいいかも知れません。
一方、スノーボードはまだ一般には存在すら知られていなかったと思います。

実は、日本では1983年 世界初の国協会として「日本スノーボード協会」が発足し、
「第一回全日本スノーサーフィンチャンピオンシップ」開催されています。
ヨーロッパと北アメリカでスノーボード協会が発足したのは1985年なので、
日本はスノーボードの先進国ではあったのです。
それでも、1980年代は、一般的に認知度は低かったのです。

90年代 スキーからスノボへ
それが1990年代に入り、レジャーとしてのスノーボードが若者中心に急速に普及します。
「スノボー」「スノボ」の略称も定着しました。
既に人気のあったスケートポードの影響で、若い層に受け入れられたとの見方もされます。
このブームにより、実に短期間でスキーと関係が逆転してしまいました。

一方で、ゲレンデではスキーヤーとスノーボーダーとの軋轢があったり、
スキーと違い両足を同じ板に固定するスノーボードは、転んだ時に頭を打つ危険性も指摘されました。
元々スキーも下手な私などは、手を出す気にはなれませんでした。

しかし、スノーボードはすっかり定着し、
90年代終盤を迎える頃には、若者はみなスノーボードから入るのが常識となりました。
学校行事として行われる場合も、昔は好スキー教室だったのが、スノボー教室になりましたね。

時代が生んだ世代
今回の若い二人の選手は、まさにそのスノボー全盛時代に生まれ育った世代です。
平野選手は1998年生まれ、平岡選手は1995年生まれ。
平野選手は新潟県村上市でスケートパークを運営する家の生まれ、
平岡選手は奈良県出身ですが、父親が元モーグルスキーの選手ということで、
ウインタースポーツに取り組む上では元々恵まれた環境にはあったのですが、
それにしても、スノボーブームが生んだ世代といえるでしょう。

競技スポーツとしてのスノーボード
さて、スノーボードが季オリンピック正式種目となったのは1998年の長野五輪から。
レジャー文化としては定着していても、
競技としての一般的関心度は、それほど高くはありませんでした。

前回2010年のバンクーバー五輪では出場選手のファッション(腰パン)や、
会見での態度が悪評を集めたのが記憶にあるくらいです。
今回のソチ五輪でも、注目は他の競技に集まり、
開幕前にはスノボーのことはあまり語られていなかったと思います。
しかし、この快挙で一気に注目は高まるでしょう。

一方で、スキ―もスノボーを含めた、
ゲレンデにおけるレジャーとしてのウインタースポーツは、
長期低迷傾向にあるとされます。
今回の快挙が起爆剤になるのかもまた、注目されるところです。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、MSN 産経ニュースより引用
http://sankei.jp.msn.com/sochi2014/news/140212/soc14021203310017-n1.htm
☆☆☆
平野が銀、平岡が銅 男子ハーフパイプ
2014.2.12 03:31 [スノーボード]

スノーボード・ハーフパイプ男子は日本時間12日、日本から決勝に進出した平野歩夢(15)が、2回目に93・50点をたたき出し、銀メダルを獲得した。平岡卓(18)も92・25点で銅メダル。優勝は94・75点を獲得したスイスのユーリ・ホドラドチコフ。五輪2連覇中の王者、ショーン・ホワイトは細かいミスがあり、90・25点で4位にとどまった。

12人で争う決勝で1回目に90・75点を出し、首位となった平野は、2回目も積極的に攻め、高いエアから難易度の高い連続技を次々に成功させた。

1回目に尻餅をつき、45・50点にとどまった平岡も2回目に難易度の高い技を続け、高得点を得た。

五輪2連覇中の王者、ショーン・ホワイトは途中転倒するなどミスが続き、35・00点で11位。2回目に挽回(ばんかい)したものの、メダルには届かなかった。
★★★

2013年9月 8日 (日)

東京オリンピック 2020年の挑戦 “日本オリンピック”として

2020年の東京オリンピック開催決定、まずは喜ばしいことです。

私は前回の五輪招致にあたっては、あまり積極ではありませんでした。
日本でやること自体は悪いとは思わないけど、
東京でなくてもいいだろう、どこか他の都市でやれるなら、という気持ちでした。
これ以上、東京一極化を進めるようなことをしなくても、と思ったのです。

このことについては、実は今回も基本的には同じ気持ちです。
本当は東北でやれたら…、それは無理にしても、
例えば関西や、九州でやれればいいのに…と。
しかし、やれればいいのにといっても、都市に意図と準備がなければ出来ません。

東日本大震災を経て、また色々と閉塞感に日本が包まれる中、
日本で五輪を、という気持ちは私も含め、日本全般に強まったように感じます。
東京にその準備が充分にあるのなら、
実現すれば、国として良い目標になるでしょう。
この際、“日本五輪”として、開催できればいいかと感じています。


さて、投票では、結果は完勝でしたが、
マスコミ報道を見ても、事前に結果が予測し難かったです。
それでも、日本が不利だとは思い難かったですが。

もちろん、東京には原発問題というネックはあります。
他の候補国を見ると、イスタンブールは、イスラム国での初開催という歴史的意義がありますが、
一方で、まだリスクが高いようにも思えます。

マドリードは、経済状況の悪さが指摘されていましたが、
私はむしろ、同じスペインの1992年バルセロナ五輪から、
2020年の時点でも、28年しか経っていないことが気になりました。

今回の日本も含めて、戦後の同国開催は3度目。
東京は56年ぶり、昨年のロンドンが64年ぶり。
アメリカは、ロサンゼルスの12年後にアトランタがありましたが、
国土の広さが違うので、これはちょっと別にすれば、
異例の短いサイクルになります。
でも、この点はは特に問題にはならなかったのでしょうか。

ともかく決定しました。
やる以上、良いオリンピックに。


Old Fashioned Club  月野景史

2013年6月14日 (金)

【プロ野球】大石 辻 福良 西村 白井 1980-90 二塁手の黄金世代/巨人に“不動の正二塁手”が出てこない理由

巨人に“不動の正二塁手”が出てこない理由
こんな記事がネットで配信されています。
その理由を、かつてのジャイアンツの正二塁手仁志敏久が語っています。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/npb/2013/columndtl/201306130006-spnavi

しかし、最近の・・・というより、90年代後半以降のプロ野球に疎い私にとって、
巨人のセカンドといえば、土井、篠塚なのですが(笑)


というわけで、巨人をはじめ、
現在のセ・パ各チームの二塁手事情などさっぱり解りませんが、
しかし、二塁手といえば守備の要、
強いチームは、しっかりした正二塁手がいたと思います。

中でも、私が印象に残っているのは、
1980年代前半から90年代半ばのパシフィックリーグの各チームです。
ほぼ同世代の名二塁手が揃っていました。


近鉄 大石
西武 辻
ロッテ 西村
阪急→オリックス 福良
日本ハム 白井

年齢は1958年-61年生まれのまさに同世代。
タイプも好守・巧打・俊足の似たタイプです。
全員がベストナインを獲得しています。
福良以外はゴールデングラブ賞も獲得。
白井以外は1000安打以上です。

そして、二塁手のベストナインは83年から94年の12年間、
ゴールデングラブは82年~94年の13年間、
この5人以外は獲っていません。

実は、西村は89年途中から外野手にコンバートされ、
そちらでもベストナインとゴールデングラブも獲得しているですが、
全盛期は4年連続盗塁王も獲った二塁手時代でしょう。

それにしても、三歳差以内の同世代の5人で、
二塁手のベストナインとゴールデングラブを12-3年間独占したのだがら、
強い世代でした。
まあ、獲得数では同じ58年生まれの大石と辻が圧倒的なのですが。


さて、パ・リーグは6球団なのだから、ひとつ仲間外れがありますね。
そう、南海→ダイエーです。
当時はどん底の時代、他球団のような正二塁手がいないのが象徴的です。

しかし、少し下の年代にがんぱった選手がいます。
1966年生まれの湯上谷。
ダイエー身売り後の90年から92年までは130試合フル出場しています。
まさに正二塁手。
ただ、この時代は特に辻が好守ともに強く、タイトル争いではかないませんでした。


Old Fashioned Club  月野景史

2013年4月 2日 (火)

【野球】長嶋茂雄氏、松井秀喜氏が国民栄誉賞同時受賞/唐突・強引感は拭えず

プロ野球の大スター、引退後は読売巨人軍を務めた監督長嶋茂雄氏(77歳)と
巨人や米大リーグのヤンキースで活躍した松井秀喜氏(38歳)両氏に、
プロ野球発展に貢献したなどとして、国民栄誉賞の授与が内定したようです。

ネット上でも議論百出のようですが、
それぞれの受賞についても、
共に日本のプロ球団としては読売ジャイアンツにしか在籍したことのない二人の
“同時受賞”についても、唐突な感じもするし、強引にも思えます。


長嶋茂雄氏
そもそも、国民栄誉賞受賞第一号として、創設のきっかけとなったのが、
長嶋氏の盟友であり、ライバルともいえた“ON”の片割れ、王貞治氏でした。

1977年、756号のホームラン世界記録達成に対しての授与でしたね。
この記録の時は世間的にも大きな話題になりましたし、
この新しい賞の受賞も違和感ありませんでした。
長嶋さんは既に引退しており、この時は巨人軍の監督を務めていました。

その後、野球界では連続出場世界記録の衣笠祥雄氏が受賞、
他に、盗塁世界記録達成の福本豊氏も内定したが、本人が拒否したといいます。
これをみると、こと日本球界については、記録重視、特に世界記録がキーワードになってきました。

長嶋さんは、もちろんすばらしい実績を残した選手でしたが、記録・数字という観点だと、
「上には上」の選手はいくらでもいる、ということになってしまいます。
世代の近い人だと、野村克也氏、張本勲氏、金田正一氏など。

しかし、戦後日本のヒーローとして、屈指の人であることはまちがいなく、
私は受賞そのものに異論はありません。
ただ、時期が…、もう少し説得力のあるタイミングならばよかったとは思います。

例えば、巨人監督勇退に合わせてとか、
戦後50年、60年の節目とか、本人の60歳、70歳の年とかに。

なんといっても、今回の松井氏の現役引退と同時の受賞は、
なにかバ―タ―のような印象もあり、しっくりきません。

今年、まさに同時代のスポーツ界のヒーローであった大鵬幸喜氏が亡くなり、
没後の受賞となったため、長嶋氏には元気なうちに、という意向が働いたのかも知れませんが。


松井秀喜氏
こちらは、まず当然誰もが思う通りで、
アメリカのメジャーリーグでの活躍という点だと、
イチロー選手の実績が上ということになってしまいます。

かつて、イチロー選手は現役であることを理由に拒否したといわれます。
それなら引退した松井氏が先になってもおかしくはないですが、
次に、比較対象として米大リーグに挑戦して成功したパイオニアである、
野茂英雄氏が受賞してないのに、おかしいという意見が出てきてしまいます。

この点については、私も松井氏は不利だと思います。
投手と野手なので、数字から実績を比較するのは難しいと思いますが、
やはり、その点でも野茂氏の方が上のように思いますし、
なにより、大リーグでの活躍が国民栄誉賞の受賞理由になる偉業なら、
野茂氏はそもそも、その大リーグへの挑戦、そしてを実現したことが大きいし、
当時の方が国民的関心も高かったと思います。登板の度に一喜一憂でしたよね。

また、の分野のスポーツで国際的に活躍している人との比較も難しいでしょう。

オリンピック招致に向けての盛り上げ、ともいわれますが、
野球から、それも同じ球団から同時に二人…微妙です。


再来年が戦後70年。
そのタイミングで長嶋氏に絞って、というのが理想だったかと思います。


以下、東京新聞のサイトより引用
☆☆☆
長嶋、松井両氏に国民栄誉賞 球界の2人同時授与へ
2013年4月1日 22時03分

政府は1日、プロ野球元巨人監督の長嶋茂雄(77)、巨人や米大リーグのヤンキースで活躍した松井秀喜(38)両氏に、プロ野球発展に貢献したなどとして国民栄誉賞を授与する方針を決めた。

長嶋氏は国民的スーパースターとして「ミスタープロ野球」と呼ばれた。菅官房長官は会見で「社会に夢と希望を与えた。野球界の発展に貢献した」と説明。団体受賞した「なでしこジャパン」の例を除き、初めて同じ分野の2人が「セット」の形で同時に授与される見通しだ。

安倍首相は長嶋氏について「戦後の最高のスーパースターだ。もっと早く決定すべきだった」と、松井氏は「日米で愛された」と述べた。(共同)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013040101001596.html?ref=rank
★★★


Old Fashioned Club  月野景史

2013年3月24日 (日)

【大相撲】白鵬24回目優勝で史上4位タイ 最多9度目の全勝 大鵬の32回越えは?/2013年春場所

大相撲春場所、既に24度目の優勝を決めている横綱白鵬は、
千秋楽も勝って、9度目の全勝優勝を果たしました。


Hakuho_001

この全勝優勝9回という記録は、昭和の大横綱である双葉山、大鵬の8度を抜いて、
史上単独1位という立派なものです。
他の大横綱では、全勝は北の湖と千代の富士が7回、 朝青龍5回、貴乃花が4回です。

そして、通算優勝回数も、北の湖現理事長と並ぶ24回、4位タイとなりました。
現時点での順位を見てみましょう。トップ10です。

1位  大鵬幸喜 32回
2位  千代の富士 貢 31回
3位  朝青龍明徳 25回
4位  北の湖敏満 白鵬翔 24回
6位  貴乃花光司 22回
7位  輪島大士 14回
8位  武蔵丸光洋 12回
9位  曙太郎 11回
10位 栃錦清隆 若乃花幹士(初代) 北の富士勝昭 10回

つまり、白鵬は後9回優勝すれぱ33回となり、先日亡くなった大鵬を抜いて、
単独史上1位となるのです。

Taihou
大鵬幸喜


もちろん、先に何があるかはわかりません。
怪我や病気、またものすごく強い後進が出てこないとも限りません。
例えば、朝青龍だって、白鵬が出てこなければもっと…、
いや、彼の場合は自分の問題だったでしょうが。

それはそれとして、現時点での可能性としてはどうでしょう。
単純計算で、年3回の優勝を3年続ければ達成です。

白鵬は1985年3月生まれ、28歳になったばかり。
過去6年間で優勝22回、年平均3.6回のペースです。
今のところ、怪我や病気の話も聞かないし、
特に強力な後進も見当たりません。
後輩横綱の日馬富士がいますが、ひとつ年上です(学年は一緒)。
充分可能に思えます。

しかし、ひとつ懸念点があります。
白鵬自身の成績が、一時ほどの勢いがないのです。
昨年2012年の優勝は2回。
横綱に昇進した2007年以降で、最少でした。
それ以前は年3回~5回のペースを続けていました。

八百長や賭博の問題で、中止になった場所とかあったからでしょうか?
いえ、それは一昨年なので、昨年は関係ありません。
実は全勝優勝も2010年秋場所以来で、結構久しぶりなのです。
一度、下降線に入ってしまうと、かつてのような勢いを取り戻せるのか?
微妙ではあります。


ともかく、今場所の全勝優勝で、健在ぶりを示したところですが、
来場所以降、持続出来るかどうかが鍵かと思います。

安定した手堅い相撲を取る力士なので、
逆に40回くらいまで伸ばすこともあり得ると思います。

私の現時点での予想としては、33回で史上一位、九割がた可能と見ています。


以下、時事ドットコムより引用
☆☆☆
大相撲春場所千秋楽(24日、大阪・ボディメーカーコロシアム)
24度目の優勝を決めていた白鵬が日馬富士を上手投げで退け、大鵬を抜いて歴代最多となる9度目の15戦全勝を遂げた。白鵬は歴代単独8位の幕内650勝。
日馬富士は、新横綱だった昨年九州場所以来の9勝6敗。稀勢の里、豪栄道、栃煌山が10勝を挙げた。旭天鵬が歴代5位タイの幕内出場1260回。
(2013/03/24-18:23)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201303/2013032400129&rel=&g=
★★★


Old Fashioned Club  月野景史

2013年1月20日 (日)

【相撲】元横綱大鵬死去/戦後高度成長期のヒーローの栄光と波乱の生涯

大相撲の戦後の大横綱、大鵬幸喜こと納谷幸喜氏が1月19日、
心室頻拍のため亡くなりました。72歳。
http://mainichi.jp/select/news/20130120ddm001060051000c.html

この訃報にさきがけて、大鵬の出身である二所ノ関部屋の初場所後の閉鎖も発表されており、
相撲界のひとつの時代の終焉を感じさせる出来事でもありました。


大鵬幸喜
(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)


私は横綱大鵬の現役時代の記憶はありませんが、少年時代に熱心な相撲ファンだった時期があります。
当時所有していた子ども向けの『相撲入門』に載っていた大鵬の半世紀を読み、感銘したものです。
昭和の大横綱、戦後のヒーロー、大鵬幸喜。
今回は大鵬の後半生を含め、その波乱の生涯をごく簡単に振り返ります。


生い立ち~横綱へ
大鵬こと納谷幸喜氏は北海道出身。
母子家庭で極貧の中、吹雪の中で納豆売りをして家計を支えた逸話が知られています、

1956年、スカウトされて高校を中退し二所ノ関部屋入門、9月場所で初土俵。
元々身長は高かったようですが、当時はガリガリといっていい細さだったといいます。
しかし、猛稽古で身体もどんどん大きくなり、一気の躍進が始まりました。

1959年5月場所新十両、その時点でまだ18歳、関取まで3年かからないスピード出世でした。
この時、師匠の二所ノ関親方により、中国の古典に登場する鳥の名から「大鵬」のしこ名が付けられました。

翌1960年1月場所に19歳で新入幕。
1961年1月場所新大関。同年11月場所に第48代横綱昇進。当時21歳、史上最年少でした。
相撲に詳しくない方はピンとこないでしょうが、とにかく凄い勢いの出世です。

同時に横綱に昇進した、二歳年上の柏戸と共に、相撲界は「柏鵬時代」の到来と言われました。
これはその前の時代、栃錦と若乃花が「栃若時代」と呼ばれたので、それに続く位置付けでした。
小兵で出世も早くはなく、共に30歳の年に横綱昇進、「小よく大を制す」が魅力だった栃若に対し、
若くて大きい柏鵬は、高度経済成長の60年代を迎え、新しい時代の象徴となったのです。


高度成長期の英雄(ヒーロー)
当時、野球は長嶋茂雄王貞治が登場する時代。
やがて、「巨人 大鵬 卵焼き」などといわれるようになります。
プロレスは、1960年はまだ力道山が日本のエースでしたが、まもなくその急死に伴い、
ジャイアント馬場アントニオ猪木が台頭する、そんな時代でした。

※参考
長嶋(1936年生まれ)
柏戸(1938年生まれ)
馬場(1938年生まれ)
大鵬(1940年生まれ)
王  (1940年生まれ)
猪木(1943年生まれ)

大鵬、ONと並び、プロレスでは力道山が戦後スポーツのヒーローと称されることも多いですが、
力道山は1924年生まれ、やはり大鵬とは馬場と猪木の“BI”が同世代ですね。
大鵬は特に馬場と全盛期が重なります。
力道山の同世代はやはり栃錦(1925年生まれ)、若乃花(1928年生まれ)です。


しかし、柏戸と大鵬は二人の対決では 互角に近い名勝負を続けますが、
柏戸は怪我が多く、角界は実質には大鵬の独走時代となります。
その大鵬にしても、怪我や病気での長期休場もあったのですが、
1971年5月場所の引退まで、積み重ねた優勝は32回、いまだ破られぬ記録です。

それ以前、戦前の大横綱双葉山は優勝12回。
これは年二場所の時代なので比較はできませんが、
戦後の名横綱栃若は共に10回ずつ。大鵬の記録がいかに破格かわかります。
(但し、年六場所制の定着は栃若の晩年なので、こちらも単純比較はできません。)

一方で、大鵬の全盛期を相撲人気の全盛期とするような言い方もされますが、これは少し語弊があります。
判官贔屓といわれますが、大きくて無敵の大鵬の独走時代、相撲人気はやや低迷しました。
人気という面では「小よく大を制す」の栃若時代が戦後の黄金期だったと思います。

大横綱となった大鵬の最後の相撲は、新進の貴ノ花相手の敗戦でした。
時代の変革期を象徴する出来事として、これも伝説的です。


引退後
大鵬はその功績により、いわゆる年寄株を必要としない一代年寄の資格を得ていました。
(後の横綱では北の湖、貴乃花が同様です。千代の富士は辞退)

引退後は二所ノ関部屋から独立して大鵬部屋を創立、後進の指導に当たりました。
部屋は弟子数40人の大所帯だったと思います。順風満帆のスタートでした。
…が、この後は波乱の多い人生となりました。

1975年、恩師の恩師の二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)が急死します。
大鵬は一代年寄の返上を念頭に、本家である二所ノ関部屋継承の意志を表明しますが、
事態が混乱の様相を示したため、早い段階で身を引きました。
この継承問題はいわゆる「押尾川騒動」の混乱を生み、後々まで禍根を残しました。
今回の二所ノ関部屋閉鎖も、元はといえばこの件が遠因といえるかと思います。
直接的な原因とするには、時間が経ち過ぎていますが。

プロレスラー天龍源一郎誕生の原因ともなりました。
これはプロレス界にとってみれば良かったのですが。

しかし、大鵬親方自身はこの継承問題に深く関わらなかったので、
大鵬部屋への直接的な影響はありませんでした。
1976年には35歳の若さで相撲協会の役員待遇に昇進。
系統でいうと、協会内では出世し難い一門なのですが、そこは実績も違いますし、
順調にいけば理事長まで進んだ可能性も高かったと思います。

しかし、1977年に脳梗塞で倒れました。
以降はその後遺症との闘いの日々となりました。
リハビリに励みながら、協会幹部としての仕事と部屋経営を務め、
大鵬部屋からは何人もの関取が育ちました。
しかし、三役以上は現役時代からの内弟子だった関脇巨砲のみで、
残念ながら横綱・大関は生まれませんでした。

2005年の定年退職後、大鵬部屋は娘婿の元貴闘力の大嶽親方が
「大鵬道場 大嶽部屋」として継承しました。
しかし2010年の貴乃花理事選立候補問題で、大嶽部屋は貴乃花に付き、事実上二所一問から破門、
更に同年、貴闘力は野球賭博問題で相撲協会から解雇され、
部屋は大鵬の弟子であった元大竜が大嶽部屋として継承しました。


大鵬氏はもちろん、引退後も定年まで師匠として、協会役員としての重責を務め上げ、
定年後も相撲博物館館長に就くなど、立派な足跡を残したのですが、
病気や部屋周辺の問題等、波乱の多い後半生でもありました。

現役横綱の白鵬は一門も違いますが、大鵬を父と慕っていたそうですね。
このネットの時代でも、昔の相撲を色々と観ることは難しく、大鵬の相撲ぶりもよくはわかりませんが、
おそらく白鵬と似たタイプだったのではないかと思います。
朝青龍、あるいは北の湖のようにパワーで圧倒するのではなく、
どっしり構えて絶対負けない、格違いの強さを見せるような相撲だったのではないかと。


謹んで哀悼の意を表します。


Old Fashioned Club  月野景史


毎日jpより引用
☆☆☆
訃報:納谷幸喜さん 72歳=大相撲元横綱・大鵬
毎日新聞 2013年01月20日 東京朝刊
大相撲史上最多の幕内優勝32回を記録、柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」を築いた第48代横綱・大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが19日午後3時15分、心室頻拍(しんしつひんぱく)のため東京都内の病院で死去した。72歳。葬儀の日程、喪主などは未定。

北海道弟子屈(てしかが)町出身。自伝によればウクライナ系ロシア人の父と日本人の母の間に樺太(現ロシア・サハリン)で生まれ、終戦直後に北海道に移り住んだ。中学卒業後に営林署に勤めていたところをスカウトされて二所ノ関部屋に入門し、1956年秋場所初土俵。59年春場所後に18歳10カ月で新十両、60年初場所には19歳7カ月で新入幕。その場所で12勝を挙げて敢闘賞を受賞した。

入幕4場所目に新三役の小結になると、三役3場所目の60年九州場所で初優勝し20歳5カ月で大関へ。大関5場所目の61年秋場所には、柏戸との優勝決定戦を制して柏戸とともに横綱に昇進した。新入幕から所要11場所での横綱昇進は歴代最速で、21歳3カ月は北の湖(現日本相撲協会理事長)の21歳2カ月に次ぐ史上2位。

横綱昇進時で身長187センチ、体重133キロというバランスの取れた体と、右、左どちらの四つでも取れる攻め手の豊富さで優勝を重ね、横綱5場所目の62年名古屋から63年夏場所まで6連覇、さらに66年春場所からも6連覇を達成。全勝優勝も8回記録した。その強さと人気から、子供の好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が生まれた。68年秋場所から69年春場所にかけては45連勝も記録した。

71年初場所で32回目の優勝。その翌々場所の同年夏場所5日目に貴ノ花(元二子山親方・故人)に敗れて引退、一代年寄「大鵬」を襲名し、大鵬部屋を起こした。77年に脳梗塞(こうそく)で倒れたが、再起して関脇・巨砲(おおづつ)らを育てた。80年2月から96年1月まで日本相撲協会理事。05年5月に協会を定年退職後は相撲博物館長を務めた。09年には相撲界で初めて文化功労者に選ばれた。【上鵜瀬浄】http://mainichi.jp/select/news/20130120ddm001060051000c.html
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