【アントニオ猪木】移民として渡ったブラジルで力道山にスカウトされプロレス入り
このブログでは昔のプロレス、“昭和プロレス”について時々書いており、
ページによっては、それなりのアクセスをいただいております。
その昭和プロレスの象徴ともいうべき、アントニオ猪木さんが死去しました。
アントニオ猪木 ※本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉
1943年〈昭和18年〉2月20日 - 2022年〈令和4年〉10月1日 79歳没
ここでは今まで、猪木さんのことをあまり書いていませんが、
私は、一番好きなプロレスラーは誰か、と訊かれたら、迷わず「アントニオ猪木!」と答えるファンです。
ただ、レスラーとしては最高だけど、それ以外、
経営者、プロモーター、政治家、あるいはタレント的な部分など、猪木さんは様々な顔を持っていましたが、
それらはあまり好きではなかったりと、少々複雑な感情があったりもします。
それはともかく、猪木さんの訃報に接し、何か書きたいと思いましたが、
プロレスラーとしてに絞るとしても、簡単に書き切れる人ではありません。
そんなこんなで、時間が経ってしまいました。
猪木さんについては、ポイントを絞り、小出しにして書いていきたいと思います。
今回はまずプロレスラーとしてのスタートの頃の話を。
猪木さんは1943年(昭和18年)生まれ。
プロレスデビューは1960年ですので、17歳の年です。
当時、猪木さんはブラジル在住で、興行で同国を訪れた力道山の目に止まってスカウトされ、
力道山率いる日本プロレスに入団しました。
しかし、猪木さんはなぜブラジルにいたのか?
猪木さんは横浜の鶴見出身。日本生まれ、日本育ちです。
それが1957年(13~14歳)頃、移民として家族揃って船でブラジルに渡り、農園で働いていたのです。
南米への移民というと、私には明治時代の話のように思えるのですが、
昭和18年生まれの猪木さんが13~14歳頃、1957年とのことで戦後も戦後、昭和30年代初頭、
GHQによる占領も解かれ、高度成長期に歩み出し、特に都会では、華やかな戦後文化が隆盛となる時代です。
この時代に、首都圏在住だった一家が、移民船でブラジルに渡るようなことがあったとは、
日本の近現代史にも、想像の及びつかないことがあります。
それから数年後、遠征に来た力道山との運命の出会いがあったわけです。
ただ、猪木をデビューさせるにあたり、力道山はひとつの仕掛けをしました。
日本で育ち、13歳でブラジルに渡ったことを隠し、
親の代にブラジルに移住し、同地で生まれた日系ブラジル人二世だと詐称させたのです。
日系二世という設定なので、最初は日本語がろくに話させないふりをしていたようです。
また、デビュー後に幼馴染が観戦に来て声をかけられたが、知らんぷりを通した、というエピソードも聞きます。
まさに虚々実々、ファンタジーにまみれた昭和プロレスらしい話です。
本音をいうと、そうなると13歳での移民というのも本当だろうか、と疑いたくなってしまいます。
日本で見つけた猪木少年をブラジル遠征に同道し、現地で見つけたようにして連れて帰ってきたとか・・・。
まぁブラジルでの写真も残っていますし、さすがにそれはないでしょうけど。
ただ、力道山がそんな仕掛けするに至ったのも、
猪木少年の日本人離れした身体に加え、
エキゾチックさを感じさせる風貌にスター性を見出したからかと思います。
こうして、18歳の猪木寛至のプロレスラー人世はスタートしました。
※話が広がってややこしくなるので、今回は同時デビューのジャイアント馬場についてはふれませんでした。またいずれ。
Old Fashioned Club 月野景史
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