【国際プロレスの謎①】大木金太郎入団の経緯 独自推論
昭和の時代に存在した国際プロレス(1967-1981)については思い入れもあり、色々書いてきました。
この団体についてはいくつもの謎、不明点がありました。
2000年以降、雑誌の「Gスピリッツ」が多くの関係者を取材して証言を得たり、
またネットの普及で様々な情報が集まり、幾多の不明点が解明されました。
しかし、まだ残っている謎もあります。
また、一応解明されたかのように思われているが、まだ疑問のある面、
あるいは、事実とは違う形で伝説が通説になってしまったのではないか、そんな風に感じることもあります。
それらからピックアップし、軽めの検証をしていきたいと思います。
大木金太郎の入団
1980年2月、ベテランレスラーだった大木金太郎の入団が突如発表されました。
国際プロレスは1981年9月に解散となりますので、だいぶ末期の話です。
この入団については当時から、国際プロレスの吉原社長の頭越しに
放送していた東京12チャンネルが話を勧めて実現した、という見方が大勢だったと思います。
実際、近年も12chのスタッフ氏が大木からの依頼で話を進めたと証言しています。
一方で、プロレス記者の故菊池孝氏は12chの依頼で自分が斡旋したと、晩年語っています。
この二人の証言には食い違いもありますが、いずれにしろ、吉原社長を通さずに話が進んだという点は同じです。
大木のギャラも12chが支出していたといいます。
しかし、本当にそうなのだろうか?
なんで吉原社長を通さずに話を進めたのか、不自然ではないか。
ここが今回のテーマです。
当時の状況から考えてみます。
大木は1975年以降、フリーの立場で全日本プロレスに参戦してきました。
それなりの存在感を発揮していましたが、79年頃はちょっと微妙なポジションになってました。
大木が国際入団を望んだ、もしくは話があって乗ったとしても、おかしくはありません。
国際と大木は設立当時に少し因縁があるのですが、その後は疎遠でした。
ただ、77年頃に国際と全日の協調路線の中で、大木率いる韓国勢も含めた三軍対抗の図式が出来上がりました。
78年には全日は絡まず、国際の大半のレスラーが渡韓して、大木主催の興行に出場しています。
大木はこれ以前も以後も度々日本からレスラーを呼び、韓国で興行を打っていますが、
日本側の参加人数からすれば、この時が最大規模ではないかと思います。
そして79年春には大木の実弟の金光植(キラーキム)と弟子の梁承揮(後の力抜山)が
留学生として国際プロレスに来日、7月まで3シリーズほど試合にも出場しています。
二人はテレビマッチにも少し登場しましたが、大きく扱われてはおらず、この留学が12ch主導とは思えません。
吉原社長は経営についてはワンマンだったとも言われますし、
この留学は吉原社長と大木にそれなりの強い関係があったから実現したと考えるのが自然です。
二人にそれなりの関係があったとなると、大木入団の話が吉原社長抜きで進むのはかなり不自然です。
しかし、関係者の証言はだいたい一致しているし、不自然だろうと疑う余地はないのではないか。
それとも、何か考えられるのか?
以下、ひとつの推論です。
大木の国際入団の話は、吉原社長と大木の間で出た(どちらが言い出したかは別として)。
しかし、国際には大木にギャラを支払う余裕はない。
実は、当時の12chのスタッフ氏は通常の放映権料の他に、
局と折衝して国際の為に様々な特別予算を組んでくれていました。
大木の件も吉原社長から依頼され、12ch主導の企画として、局から予算取りをしてくれのたではないか。
そう考えるのが、一番自然に思えます。
あくまで、周辺事情からの傍証による推測です。
あまり深掘りしても微妙な面もあるので、この話はここまで。
Old Fashioned Club 月野景史