【昭和プロレス】ストロング小林死去 昭和の名レスラー/タレント ストロング金剛としても活躍
元プロレスラーのストロング小林氏が死去しました。
昨年の大晦日に亡くなっていたとのこと。81歳没。
「怒涛の怪力」で売った昭和期を代表するプロレスラーの一人。
引退後は「ストロング金剛」名義で俳優・タレントとしてもそこそこの活躍をしました。
ストロング小林
本名 小林省三(こばやし しょうぞう)
1940年12月25日 - 2021年12月31日)
プロレスラーとしてのハイライトは
・国際プロレスのエース
・国際を離脱してアントニオ猪木とプロレス史に残る名勝負
・新日本プロレスでも主力として活躍
小林についてはネット上でも意外なほどよく語られています。
いくつかポイントを挙げつつ、足跡を振り返ります。
どちらかといえばよく語られている点はさらっと流し、あまり語られてないことを書いていきます。
長い社会人経験
高校卒業後、1966年に旗揚げ興行前の国際プロレスに入門するまで、
おそらく7年半くらい国鉄職員として過ごしています。
特にスポーツ競技をしていたわけでもなく、ホディビルダーともいわれますが、
ジム通いでトレーニングはしていたが、ボディビル大会に出たことはないと本人が後年語っています。
この長い社会人経験は当時のプロレスラー、特に後にエースを張るようなレスラーには極めて珍しいキャリアです。
そして観戦に行ったボディビル大会でスカウトされ、1966年11月に入門。
覆面レスラーとしてデビュー
翌1967年に覆面レスラー「覆面太郎」としてデビュー。
これは1シリーズだけで、1968年1月に素顔で再デビュー。
格闘技経験のないグリーンボーイながら大物外国人レスラーと戦い引き分けるなど、破格の待遇でした。
エリート街道
その後ヨーロッパに遠征。
1969年5月にパリで行われたタッグトーナメントに豊登と組んで優勝し、
初代IWAタッグ王者として凱旋し、日本で防衛戦を重ねます。
当時の戦績は素晴らしく、おそらくこのままエースに据える予定だったと思います。
しかし想定外のことが起こります。
国際にとっては嬉しい誤算だったのですが、国際はアメリカのAWAと提携関係を結び、
アメリカから大物外国人レスラーの招聘が可能になったのです。
良いことなのですが、そうなると北米での試合経験のない小林がエースでは心もとない。
そこで、小林は1970年にAWAに出発、なかなか立派な成績を残します。
ここらは本格エース擁立に向けてきっちり手順を踏んでいると思います。
ただ、後になってみると、エース不在の期間が長すぎたという批判もあったりはします。
IWA世界王者としてエースに
1971年7月、小林は海外に流出していた国際プロレスの看板タイトル「IWA世界ヘビー級王座」をアメリカで奪還、
チャンピオンとして凱旋帰国を果たします。
国際のエースとして君臨したのはここから1974年2月までの約2年半なので、あまり長くはないのですが、
この時期はAWAとの提携で大物外国人レスラーが多く来日しました。
小林はそれら強豪を撃破してタイトルを守ったので、王者時代の実績は立派という評価がされます。
猪木との“昭和巌流島”決戦 表と裏
しかし1974年2月、小林は王者としての最後の防衛戦に勝った後、国際プロレスを離脱
翌3月には新日本プロレスのエース アントニオ猪木と戦い、ジャーマンスープレックスホールドで敗れます。
この試合はプロレス史上屈指の名勝負と言われ、蔵前国技館に空前の観客を集めたことでも知られます。
しかし、エースのまま離脱した小林が敗れたので「新日本>国際」を証明する形になってしまいました。
小林の離脱理由は、もちろん国際での扱いの不満があったとも言われますが、よそで書かれているし今回は言及しません。
ただ、昭和の時代、プロレスは基本的には真剣勝負とされていました。
勝負師として敢えてアウェイでの戦いに挑んだ小林、勝敗は時の運との見方も成り立ちました。
しかし、今はプロレスは(昔から)シナリオがあるものとの見方が定着しています。
となると、小林はいわゆる“負けブック”を飲んだということになる。
ここはちょっと微妙なところです。
新日本プロレス三強として
小林は猪木戦後にWWWF(後にWWF→WWEと改称)に遠征してそこそこ活躍。
74年末にもう一度猪木と戦い、こちらも好勝負でした。
75年は年初からフリーとして新日にレギュラー参戦し、やがて正式に入団します。
猪木、坂口征二、小林で、新日本は三大エース体制を形成します。
しかし、シングルのチャンピオンは猪木なので、やはり引き立て役に回ることも多くなります。
1976年には坂口とのパワーコンビで北米タッグ王者になりますが、
絶対エースは猪木、その下に坂口と小林がいるという形になりました。
凋落
この体制は一応3年間続きますが、やがて若手の藤波辰巳や長州力が台頭、
79年に小林は無冠の五番手に転落してしまいました。
たまにテレビに出ればジョバー(やられ役)みたいなこともありました。
新日本の世代交代戦略のためにランクを下げられたともいえますが、
当時の小林は見た目にも腰が悪そうで身体も落ちており、仕方ないようにも思えました。
かつてエース格だったレスラーがこのようにズルズルとランクを下げていくのは、それまであまりなかったと思います。
1981年には再度海外遠征をし、メキシコ、米国と回って帰国しますが、
それから間もない同年秋には腰の具合が悪化して欠場、結果的にそのまま引退します。
引退式は1984年でしたが、実際に試合をしていたのは81年秋までです。
復帰を匂わせる流れもなくはなかったのですが、実現しませんでした。
俳優・タレント ストロング金剛
欠場中の1982年に映画『伊賀忍法帳』に髪を剃りスキンヘッドにして悪役で出演します。
これを機にスキンヘッドのまま、俳優・タレントとして歩むことになります。
名前もこの映画の役名からとって「ストロング金剛」と改名しました。
私はこの改名は不要だったと思いますが、俳優・タレントとしてはそこそこに成功しました。
演技はハッキリ言って上手くはなく、用心棒的な役柄が多かったですが、それなりの存在感はありましたし、
タレントとしては『風雲たけし城」などビートたけしさんの番組等で活躍しました。
1992年は新日本の記念興行にて坂口とのタッグで一日だけプロレス復帰を果たしました。
これはまぁよかったかと思いますが、後年のインタビューによると、扱いには不満があったようです。
90年代半ばにバラエティ番組の収録中の負傷により、タレントも休業状態になります。
2000年代には昭和プロレスもブームとはいえなくも振り替えられる機会もあり、
小林も雑誌や書籍のインタビュー、DVDのコメンタリーなどで登場し、
昭和プロレスファンならば、しばしば目にすることも多かったです。
特にAWAやWWFでの海外の実績には自信と誇りを持っていること、
それだけに国際や新日本での扱いには不満を感じていることは感じられました。
最近では国際のグレート草津との確執が語られることが多いですが、
どちらかといえば、インタビュー等では新日本での扱いに対する不満が多かったように感じています。
81歳は昭和のプロレスラーとしては長命でした。
謹んで哀悼の意を表します。
Old Fashioned Club 月野景史
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