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2019年2月

2019年2月24日 (日)

【ドラマ】『刑事ゼロ』(沢村一樹主演) 『科捜研の女』の木曜ミステリー枠 6年ぶりヒットの新作

『科捜研の女』と同じテレビ朝日木曜20時からの木曜ミステリー枠。
2019年1月クールは沢村一樹さん主演の新作『刑事ゼロ』が放送中です。
東映京都制作で京都を舞台としたシリーズとしては3年ぶりの新作。

Top

初回視聴率14.7%の好スタート。
その後はやや落としていますが、2月21日放送の第7話まで二桁をキープしており、
同じテレビ朝日・東映制作で昨年10月から放送されている『相棒17』には及ばないものの、1月スタートの連続ドラマでトップの位置におり、大河ドラマ『いだてん』も僅かながらリードしています。

テレビ朝日のドラマは最近好調なので、特に意外にも感じませんが、
このまま平均二桁視聴率を守ったとすれば、
木曜ミステリー枠で京都舞台の新作としては実に約6年ぶりの快挙ということになります。

木曜ミステリーでは1999年のスタート以来、京都を舞台にしたドラマを作り続けていますが、
実はここ数年は存亡の危機ともいえる事態にありました。
少し振り返ってみます。


木曜ミステリーの苦境
前述の6年前のドラマとは2013年4月クールに放送された『刑事110キロ』
この時期の木ミスは『科捜研』と並ぶ人気シリーズだった『おみやさん』と『京都地検の女』が
12~13%台を守っていた視聴率が11%台に落ち込み、相次いで休止となりました。
代わって登場した『刑事110キロ』が第1シーズンが12%台を確保したのです。

ところが翌2014年は第2シーズンは7%台まで急落して、あえなく終了。
続く2015年は1月から7月クールまで3本の新作を連発しますが、いずれも6~7%台に低迷と、
2年前まで11%台に落ちた長寿シリーズを打ち切っていた枠とは信じられないくらいの凋落ぶりでした。

その中には『京都迷宮案内』の橋爪功さんと『京都地検の女』の名取裕子さんという
かつての木ミス人気ドラマの主演2人をW主役とした『最強のふたり』という切り札的な作品もあったのですが、
視聴率的には完敗でした。

他にも高橋克典さん、松下由樹さんに松平健さんを加えた『京都人情捜査ファイル』なども
この枠なら強いかと思いましたが、惨敗といっていい数字。
この2本については内容も悪くなかったと思いますが、
とにかく最初から数字が悪いのですから、『科捜研』以外は何をやってもダメという印象でした。

この2015年当時の木ミスの苦境についてはこのブログでも当時記しました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-8767.html



相次ぐ掟破りで二桁確保

そして2016年、それまでの禁じ手を破ります。
京都ではなく、東映東京制作で二時間ドラマとして作られてきた『警視庁・捜査一課長』を
4月クールで連続ドラマ化し、ギリギリ二桁を確保します。

次の7月クールで京都舞台の新作『女たちの特捜最前線』で勝負をかけますが、
これがまた主要キャストの身内のスキャンダルなどもあり、数字的にも惨敗と本当に踏んだり蹴ったり。

翌2017年には第2の禁じ手解禁。
東京を舞台に3期まで作られ、好視聴率を記録していた『慰留捜査』を
舞台を京都に移して制作し、なんとか二桁を確保しました。

こうして2017年、そして翌2018年も『科捜研』2クールと『一課長』『慰留捜査』のローテーションで
なんとか全クール二桁を達成したのでした。


この流れだけを見ると京都での新作はどうやってもダメという感じで、
『刑事ゼロ』も無謀な挑戦に思えます。

しかし、他局のドラマが苦戦する中、ここのところテレ朝ドラマは好調で
2017年4月期以降、2018年10月期まで三つあるゴールデンタイムのドラマ枠の
すべてで二桁視聴率を記録しています。

その多くは警察ドラマなのですから、3年前までの苦戦の記憶も薄れ、
警察ものなら何をやっても失敗しそうにない気もしていました。
『ゼロ』はまだ中盤なので断定もできませんが、数字だけでなく内容もまずまず好調で、
二桁視聴率は確保しそうな流れです。



改めて『刑事ゼロ』
主演の沢村一樹さんは51歳。
『相棒』の水谷豊さんや『一課長』の内藤剛志さんより一回り年少なので、
シリーズ化の可能性もあるでしょう。

主演の沢村さん、ヒロインの瀧本美織さんは本格的には木ミス初登場ですが、
寺島進さん、渡辺いっけいさんは『京都地検の女』でレギュラーを務めたおなじみの顔。
渡辺さんは『科捜研の女』第1シーズンでは榊マリコ(沢口靖子)の元夫を演じました。
脇役陣は万全。


刑事としての20年の記憶を失った刑事
ユニークなテーマですが、近いところでは渡部篤郎さんの『警視庁いきもの係』に似ています。
このドラマには寺嶋さんや、『ゼロ』に刑事役で出ている横山だいすけさんも出演していました。
また警察ものではないですが、記憶を失った故に別の人間味ある人格が現れて・・・という点は
木村拓哉さんの『アイムホーム』を思わせる面もあります。

まぁテーマが被るのは仕方ない面もあります。
木曜ミステリーらしい肩の凝らないドラマだし、沢村さんの雰囲気もあっています。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月17日 (日)

【美の巨人たち】 2/16放送 アンリ・ルソー作『戦争』 /あまり「下手」と言わないで

2月16日放送のテレビ東京『美の巨人たち』のテーマは
アンリ・ルソー作『戦争』』(1894年頃)でした。

Photo




アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー
(Henri Julien Félix Rousseau、1844年5月21日 - 1910年9月2日)


19世紀末から20世紀初頭にかけて活動した画家。
技術的には未熟で、つまり“下手”なのだが、
魅力的で人気の高い画家として知られます。


今回の番組ではまずその下手さが徹底的に強調されていました。
「美術史上これだけ欠点の多い画家はいない」
“世界一下手と言われた画家”だと。

元々長く税務署に勤めた人で、専門教育も受けておらず、
人生も終盤に差しかかって本格的に描き始めた素人画家。
キャリアからしても下手なのは当たり前。

しかし、ルソーの下手さは現代人の素人にとっては、
言われなければわかりません。

ルソーと同時代からそれ以降、あまりに多種多様な絵画が生まれ、
何が描かれているのかわからない抽象画もたくさんあるのに、
何が描かれているかはだいたいわかるルソーが下手だと判断するのは難しい。

例えば、番組でも指摘されていましたが、遠近法を使い切れず、
主題に対して極端に小さく描かれた人や動物、建物などについても、
そういう表現方法なのかと理解してしまうでしょう。

また、アカデミズム絵画のブグローやカバネルにあこがれ、
彼らの絵画を模写しようとしても、こんな風になってしまうとも紹介されました。
たしかに模写だと比べて見せられれば、全然違う、ああ下手だなと思いますが、
何も言わず見せられたら、こういう画風なのかと思うでしょう。

だから、ルソーについてあまり「下手だ」と強調されるのは違和感があります。
しかし「下手だけど魅力的な絵」が有名画家ルソーの代名詞となっているのだから、
いいのかも知れませんが。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月16日 (土)

【相棒17】「容疑者 内村完爾」 初の“内村刑事部長回”/片桐竜次の軌跡 水谷豊との関わり

次回2月20日放送の『相棒seazon17』第16話の「容疑者 内村完爾」。
警視庁刑事部長 内村完爾役の片桐竜次さんをメインとしてフィーチャーした回になるようです。
https://www.tv-asahi.co.jp/aibou/story/0016/



Uchimura


内村は2000年の土曜ワイド劇場版『相棒』第1作から登場しているキャラクターですが、
これまで“内村回”といえる話が放送されたことは一度もないと思います。

私は長年の片桐竜次ファンなので、あまりに遅すぎた初の内村回=片桐竜次回の放送は
嬉しくて楽しみですが、片桐さんは1947年生まれで今年72歳。
最近はさすがに風貌や台詞回しにも年齢を感じさせる面もあり、
また今回は内村が殺人容疑者として神奈川県警に拘束されるという話のようで、
もしかしたら『相棒』卒業・降板ではないかと不安も感じています。

今回は俳優・片桐竜次の足跡をごく簡単にですが、紹介します。


片桐竜次
(かたぎり りゅうじ、1947年8月14日- )  

片桐さんは現在も東映マネージメントに所属する東映生え抜きの俳優です。
1969年入社、1971年映画デビュー。
多くのやくざ映画、アクション映画に端役で出演し、
出世作となったのは渡瀬恒彦さん主演で川谷拓三さんらと共演した1976年の『狂った野獣』。

以降はテレビの刑事ドラマや時代劇にもメイン級の悪役で出演するようになり、
松田優作さんの『探偵物語』(1979-80年)には半年の放送期間中に別々の役で3度出演しました。

そして1980年、『探偵物語』の後番組である東映制作のアクションドラマ
『大激闘マッドポリス'80』(途中で『特命刑事』に改題)では初の本格レギュラーを務めました。


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ドラマ『特命刑事』(1984年 日本テレビ系)オープニングより
片桐さん若き日の雄姿

このドラマや『狂った野獣』主演の渡瀬恒彦さんも生涯東映の人で
片桐さんとは共演作も多い。
また容貌の少し似ている松田優作さんとの共演もその後もありました。

ただ『特命刑事』はハードなアクション、スリリングでダイナミックな展開の傑作だったのですが、
ヒット作とはならず、片桐さんもしばらく悪役が続きます。


水谷豊と片桐竜次
水谷さんと片桐さんは、古くは1977年に渡哲也さん主演で石原裕次郎さんや松田優作さんも出演していた
『大都会Ⅱ』の同じ回に共に犯人役で出演したこともありましたが、
(水谷さんは若い頃、刑事ドラマに何度も犯人役で出ていますが、
この時点ではかなりメジャーになっていたので、ここでの犯人役ゲストはレアです)

本格的な共演といえば水谷さん主演の連続ドラマ『気分は名探偵』(1984-85年)です。
水谷さんは探偵、片桐さんは刑事役でレギュラー。
連続ドラマのレギュラー自体、『特命刑事』以来かと思います。
『探偵物語』における松田優作さんと山西道広さん(成田三樹夫さんの部下の刑事)の関係に近いイメージでした。

ここから水谷さんとの共演も増えていきました。
1990年代には水谷さん主演の2時間ドラマ『地方記者・立花陽介』シリーズにレギュラー出演しています。
悪役にしても年齢に応じてアウトロータイプから、風格ある大物風が増えいていきます。


そして前述のように2000年代には水谷さんの『相棒』では内村刑事部長(警視長)。
2002年からは渡瀬恒彦さんの『おみやさん』で京都府警鴨川東署刑事課の村井課長。
共に水谷さん、渡瀬さんの直接の上司であるかは微妙なのですが、
警察ドラマの二大人気シリーズで主人公の嫌われ者の上役的な警察幹部役を務めました。

最近は『相棒』以外の出演は稀で、
上でもやや年齢も感じるようなことも書きましたが(ネットでも同様の意見は散見されます)、
実は片桐さん、2016年には俳優45周年記念の初主演映画『キリマンジャロは遠く』が
制作されたりもしています。

ここは『相棒』も退場・降板など寂しい話ではなく、初の“内村回”で健在ぶりを見せてほしい。
そして私が一番観たいのは、“水谷豊と片桐竜次の『相棒』”・・・というか、バディ物だったりもします。

まぁ実はこの回の脚本が『相棒』書くの初めての人なので、
ここでの退場はないだろうとの読みもあるのですが。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、番組公式サイトより引用
☆☆☆
2019年2月20日(水)よる9:00~9:54
相棒 第16話「容疑者 内村完爾」

警視庁震撼!! 弁護士殺人の容疑者は内村刑事部長!?
特別に捜査権を与えられた特命係が真相解明に走る!!

神奈川県内の河川敷で、人権派として知られる弁護士の他殺遺体が発見され、現場にいた内村刑事部長(片桐竜次)が容疑者として拘束される。捜査に乗り出した右京(水谷豊)と亘(反町隆史)は、遺留品を手掛かりに、近くの線香工場で聞き込みを。すると従業員の中に、12年前に女子高生を殺害した罪で懲役刑を受け、最近出所したばかりの男が、殺害された弁護士の紹介で働き始めていることが判明。しかも、男はこの日、無断欠勤しており、行方が分からなくなっているという。右京と亘は、12年前の事件と今回の一件の関係を調べるため、娘を殺害された被害者遺族の元へ。しかし、母親の由美(あめくみちこ)とは会えたものの、父親の笹山(江藤潤)は海外出張中とのこと。ただ、内村と笹山は大学の同期で、12年前の事件の際も、内村は遺族の便宜を図っていたことが分かる。

完全黙秘の内村刑事部長の真意とは…
そして弁護士殺害と12年前の通り魔事件に関連が…!?
交錯する正義の先に思わぬ真実が浮かび上がる!

ゲスト:江藤潤 あめくみちこ
脚本:児玉頼子
監督:内片輝
★★★

2019年2月15日 (金)

【プロレス】アブドーラ・ザ・ブッチャー引退 /日本でのブッチャー人気の理由と足跡

2019年2月19日に東京の両国国技館で「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が開催されます。
https://eplus.jp/sf/word/0000127237

昭和の大プロレスラージャイアント馬場が没して20年とは、昭和も遠くなるわけです。

この興行の中で「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」として、
ブッチャーの引退セレモニーがドリー・ファンクJr.、スタン・ハンセンらをゲストに行われるとのこと。
ブッチャーは長く日本で高い人気を誇った外国人レスラーで
馬場とは1970年の日本プロレスへの来日以来深い因縁がありますから、最高の舞台が用意されたと言っていいでしょう。


At
速報 アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニー(2019.02.19)より
https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20190219-OYT1T50215/


ブッチャーは2012年1月に試合に出場する予定で来日しますが、
体調不良で試合はできず、引退宣言しました。
この時に引退セレモニーの話もありましたが、実現しませんでした。

このブログではその際、日本で最も高い人気を誇った外国人レスラーとして、
ブッチャーの主に日本での足跡、人気の理由等をまとめました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019-64a5.html

このページには今まで25,000件を超えるアクセスがありました。

 

今回、引退宣言から7年越しでのセレモニー実現にあたり、
改めて増補改訂版として公開します。


At
アブドーラ・ザ・ブッチャー
(Abdullah the Butcher)
1941年1月11日生まれ。現在78歳。


初来日は1970年ですから、もう49年前。
実は以前は1936年生まれといわれていたこともあったのですが、
近年、本人がIDカードを公開して、41年生まれを実証したようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは日本マット史上最も知名度の高い外国人レスラーだったと思います。
とはいっても、日本で本格的にプロレスが行われるようになってから65年ほど経っています。
誰が一番有名か、人気があったか、比較するのも難しいですが、しかし…。

ザ・デストロイヤー、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
もっと古い時代から知っている方ならフレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
名前が挙げればキリがありませんが、一般的な知名度・認知度ではブッチャーが一番かと思います。

そんな、“スーダンの黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの超入門編。
ブッチャーがいかにして屈指の人気レスラーとなったか、その道程に関わる基礎知識です。


日本プロレスから全日本プロレスへ
ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”が二大エースとして並び立っていた時代です。
当時のブッチャーは無名とはいわないまでも、アメリカでトップレスラーとは言い難く、
さほど期待はされていなかったようですが、いきなりの大暴れを繰り広げ、
馬場の持つ日本プロレスの至宝インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦する活躍をしました。

私は当時の試合は観ていませんが、この扱いは来日前から決まっていたのか、
来日後の試合ぶりにより抜擢されたのか、興味深いところです。

その後、ブッチャーは日本プロレスに二度参加、
1972年12月より馬場が日本プロレスから独立して設立した全日本プロレスの常連となります。
全日本プロレスにはアメリカから時のNWAやWWWFのチャンピオンはじめ一流レスラーが多く来日しましたが、
ブッチャーは彼らに負けることなく、看板レスラー、ドル箱外人の地位を確立していきます。


ブッチャー人気の秘密
ブッチャーは反則三昧の凶悪ヒール、流血の悪役ファイターです。
その意味では人気といってもいわゆるヒール人気、嫌われてなんぼのように思えますが、
実は凶悪レスラーとしての全盛期から、会場にブッチャーコールが巻き起こるベビーフェイス的な人気もありました。

なぜか?
ひとつは、よく見るとどことなく愛嬌のある憎めない風貌。表情と体形。
そしてもうひとつ、ブッチャーは相手を凶器攻撃で血まみれにしますが、
それ以上に自分も血だるまになる、やられ上手なところがありました。
ここがもう1人の昭和を代表する外国人ヒールであるタイガー・ジェット・シンとの違い。
だから、馬場やジャンボ鶴田のような大型日本勢との戦いでは、コールを受けることも多かったのです。

1976年春、ブッチャーはリーグ戦形式で行われるチャンピオンカーニバルの決勝で、
馬場を反則勝ちながら下し、優勝を手にします。
日本プロレスのワールドリーグ戦以来、日本マットでは春にリーグ戦あるいはトーナメントが、
年間屈指のビッグイベントとして開催されるのが伝統でした。

その歴史の中で、早くに日本プロレスから分かれた国際プロレスでは外人が優勝したことがありましたが、
主流ともいうべき日本プロレス、新日本プロレス、そして全日本プロレスでは、外人レスラーの優勝は初めて。
もちろん、これは全日本においてそういうマッチメークがされたということなので、
いかに当時のブッチャーの評価が高かったがかわかります。

その後、1979年のカーニバルでは鶴田をフォールして完全優勝。
他にもPWFヘビー級、UNヘビー級、USヘビー級、インターナショナルタッグと、
全日本プロレスの主要タイトルを片端から獲得していきました。
まさに全日本を支える看板外人してのポジションを確立していきます。


ザ・ファンクスとの死闘
しかし、ブッチャーの真骨頂は馬場や鶴田ら日本勢との対決だけではなく、
他の外国人レスラーとの死闘にありました。
その中でも最も伝説的なのが、やはり凶悪ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークとタッグを組んで闘った、
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのファンク兄弟、ザ・ファンクスとの血の抗争でした。


世界王者兄弟 ザ・ファンクス
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク、共に米マットの頂点であるNWA世界ヘビー級王座に君臨した
超大物兄弟コンビ、テキサスの荒馬チーム。
そのファンクスと、ブッチャー&シークの史上最凶悪コンビが激突したのは、
1977年暮れのオープン・タッグリーグ戦でした。

それから2年後、1979年の第2回世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でのファンクスと試合、
ブッチャーとシークの同士討ちからの壮絶な仲間割れまで、長く語り継がれるこの闘いは続きました。

といっても、この2年間で4人が日本に顔を揃えて争ったのはほんの数週間に過ぎません。
ひとつには、ブッチャー以外の3人はアメリカでプロモーターやブッカーなども行っており、
そうそう長期間、日本滞在できないという事情もありました。
にも関わらず強烈な印象を残した、濃密な抗争でした。

このファンクスとの抗争が代表的ですが、ブッチャーはそれ以外にも、
日本陣営入りしたザ・デストロイヤーをはじめ、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラス、
ワフー・マクダニエル、仲間割れしたザ・シーク、そして外人側として全日本に参加していた大木金太郎と、
次々と抗争を展開して、人気を高めてきたのです。

1979年8月26日に開催された伝説のプロレスオールスター戦では、
新日本プロレスのトップヒール、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと史上最狂悪タッグを結成、
一夜限りの復活を果たした馬場&猪木のBI砲と闘いました。


高まるブッチャー人気
血まみれのリングの一方で人気は高まり、一般メディアに取り上げられることも増えていきます。
1979年、講談社『週刊少年マガジン』にブッチャーを模したキャラクター「ボッチャー」が活躍する
ギャグ漫画『愛しのボッチャー』(河口仁氏作)が連載開始、ブッチャー人気に拍車をかけます。

翌1980年にはサントリーの清涼飲料水「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演。
このCMにはかなり力が入っていたようで、結構な話題になりました。

*CMの映像です。春編と夏編。後はもう少し後にやった別のCMです



ただ、このCMiにはちょっと笑えないオチがついてしまいました。
このCMは続き物で、春編、夏編、秋(冬?)編が放映予定だった筈なのですが、
夏編のオンエア中に共演したモデルが大麻所持で逮捕され打ち切り、秋(冬?)編はお蔵入りとなってしまいました。
スチールで見た秋(冬?)編のブッチャーは白のタキシード姿だったかと思います。残念でした。



新日本プロレスへ

1981年春、日本マットに衝撃が走ります。
ブッチャーが電撃的に新日本プロレスへ移籍するのです。
これを契機に新日本と全日本はレスラーの引き抜き合戦を開始、プロレス界は混乱に陥ります。

さて、ブッチャーにとってこの移籍は失敗だったとの見方が一般的です。
もちろん私もそう思います。全日本であれほど輝いていたブッチャーは新日本で急激に色褪せていきます。

この件の評価は難しいところです。
ブッチャーは移籍時40歳、年々肥大化して動きは鈍くなっていました。
スピードに上回る新日本への、あの時点での移籍は無謀だった面もあります。

しかし、新日本の使い方もおかしかった。
上に散々書いたように、全日本でのブッチャーはシングル・タッグのリーグ戦にはほぼフル参加で、
次々と新しい抗争相手と出会い、人気を高めてきました。
しかし、新日本に登場していた4年間、遂に一度もリーグ戦に参加することはありませんでした。
そもそも、新日本が提唱したIWGPへの参戦が移籍理由だったのに、これにまったく絡ませなかったのです。
この件については色々な事情も語られていますが、これではブッチャーが生きません。
他にもおかしな扱い、マッチメークはありましたが。


再び全日本へ
1987年暮れ、ブッチャーは因縁深い世界最強タッグに参加、全日本プロレスへの復帰を果たします。
新日本への移籍から6年半、そしてその新日本への最後の登場から2年近くが経ち、
ブッチャーも既に46歳、さてどこまでやるかと思ったのですが、見事に復活を果たします。

翌1988年に行われたブルーザー・ブロディの追悼興行ではスタン・ハンセンとメインを闘いました。
オールスター戦以来のタイガー・ジェット・シンとのタッグも実現。
1990年に行われた馬場の30周年記念試合では遂に馬場とタッグを結成、
アンドレ・ザジャイアント&スタン・ハンセン組と闘います。仲間割れしてしまいますが。
その後は馬場と共にメインからは退き、ややコミカルな試合で中盤を沸かせました。

1996年には再び全日本を離れますが、馬場没後の2001年に復帰、
21世紀になっても時々日本に顔を見せていました。

そして2012年1月、ブッチャーは全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに出場すべく来日しましたが、
コンディションの不良により欠場を決定、
1月2日の後楽園ホール大会ではセコンドのような形で試合に参加し、
その後に近々の引退を宣言しました。

前述のようにこの際に引退セレモニーが行われるとの話もありましたが、実現しませんでした。
そして今回、7年越しのセレモニー開催となったのです。

ただ、7年前の時点でも歩行にだいぶ苦労しているようだったし、
本当に来れるのかという心配も多少はしています。
無事に行われますように。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月14日 (木)

【プロレス】ペドロ・モラレス死去/MSGの帝王として君臨したラテンの魔豹 20世紀後半の名レスラー

訃報  プロレスラーのペドロ・モラレスが2月12日に亡くなりました。76歳没。

プエルトリコ出身、少年期にアメリカに渡り、1960年代から70年代、80年代半ばまで
ベビーフェイス(善役)のトップスターとして長く活躍した名レスラー。



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ペドロ・モラレス
(Pedro Morales、1942年10月22日 - 2019年2月12日)
通称 ラテンの魔豹


70年代前半には2年10ヵ月にわたりWWWF世界ヘビー級チャンピオンに君臨しました。
WWWFとは後のWWF、現在のWWEのこと。
(モラレスが王者の時代にNWAに加盟して、一旦「世界」を外しています)

WWFのチャンピオンといえばニューヨーク、マディソンスクエアガーデン(MSG)の帝王。
昭和の時代、WWF王者として長期政権を築いたのはブルーノ・サンマルチノとこのモラレス、
ボブ・バックランドとあのハルク・ホーガンの4人です。
米マットを象徴する大スターだった人です。

そのファイトスタイルはスピーディーで軽やかでありながら、パワフルでダイナミック。
躍動感溢れるファイターで、私も大変好きなレスラーでした。
そして褐色の二枚目といった美貌で女性人気も高かった。

日本でも実績を残しましたが、日本で思われている以上にアメリカでは大物かと思います。
ドロップキックの名手で、ジャイアント馬場に32文ロケットを伝授したとして知られます。
ネットニュースでもそのことが書かれていますね。
諸説あるようですが。

後年はウェイトも増してパワフルなイメージを強め、
ハイアングルから叩きつけるビル・ロビンソンと同スタイルの(ワンハンド)バックブリーカー、
またブレーンバスターなどの大技も迫力満点でした。


若くしてMSGの帝王に
元々WWWFの前身団体で1958年というから16歳の年にデビュー。
若くして頭角を現して後、60年代半ばに西海岸のロサンゼルスのWWAに転戦。
ここでまずWWA世界ヘビー級王者となります。
この地区は日本とも縁が深く、1967年に日本プロレスに初来日。

そして東海岸に戻ると、1971年2月にMSGでイワン・コロフを倒しWWWF王者となりました。
この時28歳。コロフは短命の繋ぎ役で、実質的にはサンマルチノとの王座交代でした。

王者時代の1972年9月には元王者のサンマルチノを挑戦者に迎え、
ニューヨークのシェイスタジアムで珍しいヘビーフェイス同士のタイトルマッチが実現
75分の熱闘の末引き分け。この試合は70年代最高の名勝負ともいわれます。

1973年12月にスタン・スタージャックに敗れ王座転落。
このスタージャックも繋ぎ役で、WWWFは再びサンマルチノの時代となります。

モラレスはNYを離れ西海岸のサンフランシスコや、フロリダなどの南部など各地を転戦し、
どこにいってもベビーフェイスのトップスターとして活躍します。
ただ、とにかく若くして頂点に立ってしまったので、そこから落ちてちょっと寂しい境遇・・・
というような印象で日本のプロレスマスコミやファンの間では語られる面もありました。


全日本プロレスから新日本プロレスへ
WWWF王者転落からまもない1974年には僚友である馬場の全日本プロレスに初登場。
圧倒的な戦績を残しますが、馬場のPWFヘビー級王座挑戦では3本勝負で2フォール取られての完敗でした。
2本とも一瞬の返し技ではなく、完璧なピンフォール負け。
ここまで完全な馬場の勝ちだと次に繋がり難くなり、モラレスへのマッチメイクとしては勿体無く感じますが、
この翌々年の76年にはWWWFとの関係を強めていた新日本プロレスに登場します。
ちょっとひねくれた見方ですが、新日移籍を見越してのマッチメイクであったような気すらします。

新日本ではまず第3回ワールドリーグ戦に参加。
ここでもトップで優勝戦に進みますが、アリ戦を控えたアントニオ猪木が出場を辞退したため、
同点2位から勝ち上がった坂口征二と決勝戦を戦い、リングアウト負けしてしまいます。
これもなんとなく不遇なマッチメイクといえなくもない。

その後は78年と79年に新日本に2年連続で参加して猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
78年の猪木との試合は唯一テレビ放送のなかったNWF戦なのですが、
猪木が一方的かつ徹底的に追い詰められた試合としてファンの間では伝説的です。
放送がなかったからこそ伝説になったともいえますが、やはり強さを発揮した試合の放送がなかったとは不遇。

そして、78年も79年もシリーズ終盤に現役WWF王者のボブ・バックランドが特別参加し、
東京の大会場でのメインは猪木対ボブ戦に奪われており、ここもちょっと不遇感があります。


1980年にWWF復帰
猪木や藤波も出場した8月のシェイスタジアムではバックランドとの新旧王者コンビを結成し、
ザ・サモアンズにストレート勝ちしてWWEタッグ王を獲得すると
12月にはインターコンチネンタルヘビー級王座を獲得。
途中に一時転落もありましたが、83年1月まで保持し、再びWWFのトッブスターに君臨しました。
この時期が最後の全盛期と言えるのでしょうが、新日とWWFの蜜月時代だったにも関わらず
なぜか来日がありませんでした。

その後は故郷のプエルトリコでも戦い、1985年には新日への最後の登場が実現しますが、
当時の新日はモラレスを売る気はなく、寂しい内容でした。

アメリカでは1985年からのビンス・マクマホン・ジュニアによる新体制WWFの全米サーキットにも参加し
最後の一花を咲かすと、87年に引退。95年には早いタイミングWWF殿堂入りしています。


こうして振り返るとアメリカでのキャリアは本当に輝かしい限りで、30年近くトップスターとして活躍しました。
特にWWFにとっては、最初期に初代王者のバディ・ロジャースに20歳で挑戦し、全盛期には王者に君臨
80年代にもIC王座を長く保持し、晩年にも現役でビンス・ジュニアの全米侵攻にも参加するなど、象徴的な存在でした。

日本でも明石家さんまさんが昔からモラレスファンを広言するなど、よく知られたレスラーでしたが、
米国での実績からすれば、今いちの扱いだったと改めて感じます。

昭和の伝説の大レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2019年2月12日 (火)

【大河ドラマ】『いだてん』 第6話で視聴率一桁 狂言回しが多すぎる/策士策に溺れる的迷走

NHK大河ドラマ『いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~』は第6話の視聴率が9.9%。
わずか0.1%の差ながら二桁を割り、大河史上最速での一桁転落となったとのこと。
近現代大河は苦戦するとはいえ、初回は15.5%だったので、かなり下落傾向です。

このドラマについては私もだいぶ迷走していると感じていたので、これも致し方なしというところか。


宮藤官九郎さんの着想は上手いし面白いと思うのですが、
今回はそれが出来上がりに生きず、「策士策に溺れる」状態になっていると感じます。
とにかく話があちこちに飛んでわかり難い。
その最たる点、象徴的なのがビートたけしさん演じる古今亭志ん生のパートです。

日本初の五輪参加選手なる明治時代の金栗四三(中村勘九郎)を物語前半の主役として、
四三周辺をメインストーリーとして描き、
後世である東京五輪を控えた昭和の視点からの語りを、名人志ん生の噺という形で入れる、
この着想は悪くないと思いますが、いかんせんたけしさんの滑舌が悪くて聞き取り難い。
本来なら志ん生パートは明治時代の出来事についての、後の世の視点からの解説になるべきでしょうが、
返って話をわかり難くしています。

官藤さんはたけしさんのファンでこの出演を熱望したとも聞きます。
私もたけしチルドレンだったので気持ちはわかりますが、
今回は失策・ミスキャストだったといわざるを得ないか・・・、あくまで現時点ではですが。


狂言回しが多すぎる
しかし、問題はそれだけではない。
志ん生の役割はいわゆる狂言回しだと思いますが、
このドラマは狂言回し的キャラとその周辺人物が多すぎます。

例えば、志ん生の周囲の人々も、娘役の小泉今日子さんまではまだいいとしても、
弟子入りした若者やその彼女などはドラマの中でどのような役割があるのか。
オリンピックに深く関係してくるとも思えません。
主筋に絡まない狂言回しの周りに、更にわらわらと人が集まるって、どういう舞台構成?


しかも狂言回しは昭和の志ん生周辺だけではない。
明治の時代には若き日の志ん生こと美濃部孝蔵(森山未來) がいて、
これはこれで明治パートの狂言回しと語り役を務めている。

更に面倒なのは明治にもう一人、車夫の清さん(峯田和伸)なる人物がいて、
これなども典型的な狂言回し的キャラ。
私は最初、孝蔵と清さんを混同してました(笑)


第5話ではとにかく昭和の志ん生パートが長すぎでした。
その結果が第6話の数字になったのかも知れません。
といっても5話(10.2%)から6話(9.9%)はそんな下がってはいませんが。

それとこの第5話は第1話の出来事を別視点から描くという展開でした。
この手の手法は今までもなくはなかったとですが、
初回と5話の間隔が短かすぎて、同じものを二度見せられた感がある。


さて、第6話は昭和の志ん生パートは減り、前半部はまだ見易かったのですが、
後半部にはドラマ全編の後半の主人公となる田畑政治(阿部サダヲ)が出てきました。

これも・・・、後半では主役になるとはいえ、明治パートメインの今出てきたら、
田畑の役割も狂言回しです。

志ん生もやはり登場して、明治を軸に田畑パートと志ん生パートが交互に忙しく入れ替わるのですが、
田畑と志ん生は同時代だろうけど、接点を持ちそうにないし、ここもややこしい。

私も便宜上、“狂言回し”という言葉を使っていますが、
本来の「狂言回し=狂言廻し」とは視聴者・鑑賞者に物語をわかり易く説明し、共感を呼ぶ役回り。
しかしこのドラマでは逆効果、残念ながら現時点では失敗していると言わざるを得ません。


そもそも四三も田畑も歴史上の有名人物ではありません。
それに加えて、これだけ市井の狂言回し的な人物がたくさん出てきて話が転々とするのだから、
政治的なことはほとんどふれられません。そんな時間がある筈もない。
これは一概に悪いとはいえませんが、従来の大河ファンからすれば不評にもなるでしょう。

私は明治及び昭和30年代の庶民文化・風俗が描かれる点は面白いと思いますが、
やはりゴチャゴチャしていてわかり難く感じています。
金栗四三や嘉納治五郎(役所広司)、三島弥彦(生田斗真)など、
現時点での本来の主役である筈の人物たちの活躍がどうも頭に入ってこない。

それと、下ネタというかちょっと下品なネタを入れ込んでくるのも気になる。
大河には不要に思えるし、これも策に溺れるの例かも。


キャストでは、いかにも明治時代の地方のマドンナといった感じの綾瀬はるかさん、
そして富豪のメイドで、はっきりものをいう新しいタイプの女性というふうの杉咲花さん。
この女優二人はいいと思うのですが、主筋に大きく絡む感じでもないですね。

ともかく魅力はあるのだから、問題を解消すべく少し軌道修正をした方がいいかと思いますが、
撮影はかなり進んでしまっているようですし、修正がきくのかどうか・・・。
どうなりますか。

Old Fashioned Club  月野景史

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