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2018年7月18日 (水)

【昭和プロレス】マサ斎藤死去/アメリカで最も活躍した日本レスラー

訃報 元プロレスラーのマサ斎藤さんが7月14日に亡くなりました。75歳。


Masa_saito
マサ斎藤
(本名:斎藤 昌典  1942年8月7日 - 2018年7月14日)



アメリカで最も活躍した日本人レスラーの1人。
いや、この点について本当のNO.1かもしれません。

グレート東郷に代表される日系人ヒールと呼ばれる悪役レスラー達は戦後の米国マットで多く活躍しました。
実は日系ではない、つまり日本人の血の入っていない、ギミックとしての日系ヒールもいます。

その人達は別にして、日本出身で、日本のプロレス団体に入門して、
それからアメリカに渡って戦ったレスラーも無数にいます。

昭和の時代、日本のプロレス団体に入門したレスラー達は前座での修業を経ると、
海外武者修業に出て、箔をつけて凱旋帰国するのが一般的でした。
日本プロレス界の始祖力道山も、日本にプロレス団体がなかったから前座修業はしていませんが、
ハワイやサンフランシスコでプロレス修業し、実戦のキャリアを積んで日本デビューしました。
その弟子であるジャイアント馬場やアントニオ猪木らも皆そうです。

行き先はアメリカ、カナダの北米地域が主ですが、欧州、メキシコルートもありました。
だから多くの日本人レスラーは海外マットを経験しています。
中には日本に戻らず長期間海外に定着するレスラーもいました。

米国で「ミスター・サイトー」、「マサ・サイトー」等を名乗り、一匹狼の悪役として戦ってきた斎藤は、
その期間の長さ、活躍した地域の広さ、それも大変レベルの高い地域を回り、どこに行ってもトップを張り、
各地のチャンピオンベルトを巻いてきた、その実績は比類ありません。

今回はそのあたりを中心に少し紹介します。


元アマレス日本一
マサ斎藤は明治大学のアマチュアレスリング部出身。
全日本選手権優勝、東京オリンピック日本代表の経歴を持ち、
1965年に力道山没後の日本プロレスに入門します。
後にプロレス入りする柔道日本一の坂口征二とは明治の同期です。

ただ、それほどエリート扱いされてはいなかったようです。
身長の低さも一因かも知れません。

1966年、日プロを離脱して豊登が作りアントニオ猪木らも参加した東京プロレスに参加。
しかし翌1967年、東プロはあえなく潰れ、猪木ら一部のレスラーは日プロに復帰し、
豊登ら大半は新興の国際プロレスに合流しますが、斎藤は日本を離れアメリカに活路を見出すのです。


米国西海岸都市でトップに
斎藤は日本マットとも縁の深いアメリカ西海岸に定着、
日系のキンジ渋谷とタッグを組み、サンフランシスコ、ロサンゼルス等でトップヒールとなり、
更に北のオレゴンやワシントン、国境を越えてカナダのバンクーバーまで活躍の場を広げます。

当時のロスやシスコは米マットの中心とまではいえませんが、
共に大都市の繁栄マーケットで、斎藤はここでゆるぎない地位を築き数々のタイトルを獲得、
1970年代半ば過ぎまで約10年、トップとして活躍ました。

この間に古巣の日プロ、そして因縁深い猪木と坂口が興した新日本プロレスにも時折参加しています。
主に日本陣営の助っ人格でのスポット参戦で、ヒールではありませんでした。


南部の繁栄地フロリダへ
ところが1970年代後半になると、西海岸マットは斜陽期を迎えます。
斎藤は1977年に西海岸を離れ、米国南部のフロリダに転戦します。
(実は最近知ったのですが、1970年頃にも一時期フロリダをサーキットしたことがあるようです
今はネットでこういう情報も得やすくなりました。)

70年代末のフロリダは繁栄マーケットで、日本のプロレスメディアにもよく情報が載っていました。
斎藤はここでもイワン・コロフ、そして後にグレート・カブキとなる高千穂明久とのタッグでトップを張ります。


ヒールとして新日本再登場
そしてフロリダにはフリーで成功した日本人レスラーの先輩であるヒロ・マツダがいました。
マツダはベビーフェイスなので、フロリダではタッグを組まなかったようですが、
マツダをリーダーに上田馬之助らを巻き込みフリーの日本レスラーのチーム「狼軍団」を結成、
1978年暮れに開催された新日プロのブレ日本リーグ戦に殴り込み、ヒールとして旋風を巻き起こしました。

そこから斎藤はヒールとして1980年初頭まで新日に連続参戦します。
1979年春にはマツダとのコンビで坂口・ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。
続いてすぐに上田と共に国際プロレスにも参戦。

北米タッグは坂口・長州力の新コンビに古巣のロスで奪回されますが、
その後も外国人サイドの参謀格として、北米タッグにもパートナーを変えて何度も挑戦。
個性の強い外国人レスラーを上手くコントロールし、あのタイガー・ジェット・シンとも息の合ったチームを組みました。
猪木、坂口、藤波辰巳らともですが、特に同じアマレス出身でタイプの似ている長州とは
北米タッグ王座をめぐって好勝負を展開しました。


斎藤の実力
1980年春、外国人側の参謀格のバッドニュース・アレンに譲った斎藤はフロリダに戻ります。
フロリダでは早々にTVタイトルを取ると、その後はジョージア、アラバマ等南部を転戦して
アラバマヘビー級王座を獲得と、帰米後も行く先々でトップを張りました。
当時熱心なプロレスファンだった私はプロレス誌でこの活躍ぶりを知り、
やはり斎藤は凄い、どこに行っても必ずトップを取る、格違いだと実感しました。

斎藤はなぜこんなに凄いのか?
斎藤の試合スタイルは伝統的な日系スタイルの卑怯な試合運びをベースにしていますが、
アマレス仕込みのテクニックと鍛え上げられた身体から繰り出すファイトはスピードと切れ、
パワーに溢れたもので、バックフリップやスープレックスなど大技の迫力も文句なく、
比類ないものでした。


WWF AWA参戦
そして1981年、ついにWWF(現WWE)に参戦。
西海岸でも組んでいたことのある日系のミスター・フジとのコンビでWWFタッグ王座を獲得。
ニューヨークMSGの檜舞台でもトップを取りました。

1983年には長州力の革命軍(→維新軍)の大御所格として久々に新日本参戦。

同年後半にはAWAに転戦し、ここではいきなりハルク・ホーガンと抗争を展開します。
ホーガンはWWFでヒールとして活躍した後、他地区を経てAWAでベビーフェイスとして人気を得ており、
WWFに復帰して王者となる直前の時期でした。
斎藤はその後もAWAでニック・ボックウインクルらと組み、ヒールのトップクラスに君臨します。


ざっと斎藤のキャリア概略を紹介しました。
この他に書き洩らしている地域もあります。
まさに全米各地、どこに行ってもトップを張ってきたことがわかります。

その後、AWA参戦中の1984年にケン・パテラが起こした器物破損事件に巻き込まれ服役し、
刑期終了後は新日本プロレスを主戦場とし、猪木との巌流島決戦でも話題を呼びました。
後にはテレビ朝日の中継での解説も務めました。これはまぁ“迷解説”だったかも知れませんが。
1999年に引退。近年は闘病を続ける様子が伝えられていました。


昭和の名レスラーに、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

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