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2018年5月

2018年5月22日 (火)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る③ アイドルから大人の歌手へ

1970年代を代表するスーパーアイドルだった西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html

西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップする第3弾。
国民的ヒットソング『YOUNG MAN』に始まる1979年~84年、
西城さんか20代半ばから前半のヒット曲です。

20代だからまだまだ“ヤングマン”ですが、
1980年代に入ると田原俊彦さん、近藤真彦さんらが登場、
さすがにアイドルの座は明け渡し、大人のアーチストへと変貌していきます。




YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(1979年2月21日)

28枚目のシングル。オリコン5週連続1位。
日本中がこの歌に合わせて踊った国民的大ヒット。






愛の園 (AI NO SONO)(1980年3月21日)

32枚目のシングル
スティーヴィー・ワンダーのアルバム収録曲からのカヴァー。
編曲はYMOの坂本龍一。バックコーラスは子供たちが担当した。
あまり有名ではないかも知れませんが、しっかりヒットはしています。
好きな歌。






南十字星(1982年3月25日)

41枚目のシングル。






ギャランドゥ(1983年2月1日)

44枚目のシングル。
『ヤングマン』の後、1980年代以降の歌の中で、
一番ヒットしたわけではないのですが、最も有名なのはこれでしょう。
おそらく全曲の中でも『ヤングマン』『ローラ』に次ぐくらい知名度が高いかと思います。
やはりハードでアップテンポ、ノリの良さこそヒデキの身上か。






抱きしめてジルバ -Careless Whisper-(1984年10月15日)

49枚目のシングル。
これは大人のダンスナンバーという感じ。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月21日 (月)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る② 20代前半のヒット曲

1970年代を代表するスーパーアイドル西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html


西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップする第2弾。
1975年~78年の20代前半のヒット曲です。
20歳そこそこなのて、今から考えればバリバリの若者ですが、
10代の頃から大ヒットを連発しているので、その頃に比べるとだいぶ大人っぽく感じます。




ラストシーン(1976年12月20日)

19枚目のシングル。
まさに映画のラストシーンのような名曲。
スロー系の歌では一番好きです。





ブーメランストリート(1977年3月15日)

20枚目のシングル。
「ブーメラン ブーメラン」のフレーズは耳に馴染み深い。




.
ボタンを外せ(1977年9月5日)

22枚目のシングル。
この歌も繰り返される「ボタンを外せ!」のフレーズが印象的。





炎(1978年5月25日)

25枚目のシングル。
まさに炎のような熱情を歌い上げる。





ブルースカイブルー(1978年8月25日)

26枚目のシングル
局名とイントロは明るく爽やかなイメージですが、
悲しい歌詞とのコントラストがいい。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月20日 (日)

【音楽】西城秀樹の名曲を辿る① 鮮烈なる10代

1970年代を代表するスーパーアイドルだった西城秀樹さんは5月16日に亡くなりました。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-8a31.html


このブログでは西城秀樹さんの名曲を時代順にピックアップしていきます。
といっても、70年代から80年代初頭の西城さんのシングル曲はほとんど大ヒットしているので、
客観的に絞るのは難しいです。
ですので、個人的観点にはなりますが、とにかく耳に馴染みのある、秀樹さんらしい歌を選びました。

第1弾はデビューした1972年~1974年。
西城さん10代のヒット曲です。




チャンスは一度(1972年11月25日発売)

3枚目のシングル。動画なしの音源だけですが。
大ブレイクした5枚目のシングル『情熱の嵐』より前の4曲の中からひとつ、この歌を挙げます。
数字的には4曲の中で一番ヒットしたわけではないのですが、
後々まで秀樹さんの若い頃のヒット曲としてよく聴き、耳に馴染みのあるのがこれだと思います。




情熱の嵐(1973年5月25日)

5枚目のシングル。
オリコンチャート6位という数字以上に大ヒットしてブームを巻き起こした記憶があります。
個人的にはベスト。





ちぎれた愛(1973年9月5日)

6枚目のシングル。
初のオリコン1位獲得。





激しい恋(1974年5月25日)

9枚目のシングル。
これもヒデキらしい名曲。





傷だらけのローラ(1974年8月25日)

10枚目のシングル。
大ヒットを重ねて、ようやく紅白初出場。
『ヤングマン』に次ぐ知名度の高い歌でしょう。
激しくも歌い上げる、当時のアイドル歌謡としてかなり異質でした。


Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月19日 (土)

【特撮】『仮面ライダー』 本郷猛役の藤岡弘 負傷回前後編(コブラ男登場)を考察

先日のブログでも記したように『仮面ライダーシリーズ』の原点である
第1作『仮面ライダー』の東映特撮YouTube Officialでの配信が始まっています。
本日5月19日に第9話と第10話がアップされました。

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主人公本郷猛役の藤岡弘さん

この2話分こそ、藤岡さんが撮影中に負傷したいわく付きの回です。
※藤岡氏負傷の詳細を書いたブログには多くのアクセスがあります。以下を参照ください。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-dd2d.html


今日はこの回について、少し書いてみます。


異色の前後編
第9話「恐怖コブラ男」
第10話「よみがえるコブラ男」
タイトル通り怪人コブラ男が登場する前後編です。
といっても、特撮物でよくある、ヒーローがピンチに陥り、
さてどうなるか、というところで次回に続くようなパターンではありません。

前編でコブラ男は倒され、事件解決、ストーリーも一旦完結した上で、
後編ではそのコブラ男が再改造されてよみがえり、新たな事件を起こすという流れ。

コブラ男の復活・再登場以外はストーリーの継続性は希薄で、
第10話は後編というよりは続編、後日談といったイメージ。
少し間を空けて放送されてもよかったくらい。
とはいっても、撮影は2話同時進行で行われていたようです。

ビジュアルを若干変えてよみがえったコブラ男より、
そのコブラ男に再改造を施した人間体の女性幹部・綾小路律子の方がインパクトあったりします。


Photo
恐怖コブラ男
こちらは前編でのビジュアル


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綾小路律子(新井茂子) ショッカーの協力者 綾小路生物研究所
再改造されて蘇ったコブラ男は後頭部が変化しています。

綾小路律子は大幹部然とした態度で、コブラ男にも強圧的な姿勢ですが、
ショッカー首領から用済みて断定され、コブラ男の新兵器・火炎放射の餌食となってしまいます。
ショッカーの組織としての残虐さ、無慈悲ぶりを示すエピソードです。


撮影中に藤岡弘が事故で負傷
この第9話.10話撮影中に主演の藤岡さんがバイクの転倒事故で負傷してしまったのです。
『仮面ライダー』の放送開始は1971年(昭和46年)4月3日。
撮影は第9.10話まで進んでいましたが、まだ放送開始直前というタイミングでした。
左大腿部複雑骨折という重傷で、復帰のメドは立ちません。
そこで当面、藤岡氏抜きで撮影が続行される事になりました。

第9.10話については撮影済の映像をベースになんとか完成させました。
この作品では変身後のライダーによるアクションも基本的に藤岡さんが演じていましたが、
ここはスタントの人にまかせれば問題ありません。
後は未撮影の部分をなんとかやりくりしたのです。

ドラマの撮影は、今も昔もそうですが、ストーリーの順番通りに撮るわけではありません。
この前後編については、後編のラストであるスナック・アミーゴのシーンは撮影済でした。
観てもらえばわかりますが、前後編としての締めはきっちり本郷が出演して行っています。

一方、前編のラストであるペットの墓のシーンは仮面ライダーが登場していますが、
ここでのライダー姿はちょっと不自然。
本来は本郷の姿で出る筈だったのが、負傷で不可能になった、ということかと思います。


そして、初めて観た人は本郷猛の声に違和感を覚えるでしょう。
『仮面ライダー』の音声は、撮影終了後まとめて収録するアフレコ方式の為、
撮影中に負傷・入院した藤岡さんはこれに参加できません。
ですので、声優の納谷六朗氏が代演しています。
納谷六朗氏はショッカーや後続の悪の軍団の首領を長く務めることになる納谷悟朗氏の弟。
クレジットはされていません。

藤岡さんの声は太くて特徴的なので、どうしても違和感があります。
しかし、本放送当時の藤岡さんはまだ子ども達の認知度がそれほど高くはなかったし、
家庭用ビデオなどない時代で、前週と聞き比べることもてきないので、
それほど問題なかったかも知れません。


藤岡氏の転倒事故直前のシーンも放送されています。

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第10話のラスト、本郷のアップになる前の、この疾走シーンの直後だとされています。


さて、この後の第11~13話は藤岡さん完全不在で撮影されています。
むちろん無理があるのですが、
苦境における制作スタッフの工夫も垣間見えます。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月18日 (金)

【訃報】星由里子死去 『若大将』『ゴジラ』映画のヒロイン/『科捜研の女』『相棒』にも出演

訃報 女優の星由里子さんが亡くなりました。74歳。


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星由里子
(ほし ゆりこ、1943年12月6日 - 2018年5月16日)


西城秀樹さんに続き、大スターの訃報が重なってしまいました。



“最後の映画スター”
と呼んでははさすがに語弊があるかも知れません。
まだまだ健在の映画スターの方も多いですから。
しかし、星由里子さんは映画スターのイメージが強いです。

戦後の昭和30年代は日本映画の黄金時代。
東宝、東映、大映、松竹、新東宝の5大映画会社が大量の作品を作っていました。

星さんは東宝の専属女優として1960年(昭和35年)、17歳の年にデビュー。
またたくまに人気スターとなり、多くの映画で主役やヒロインを演じました。
そして昭和40年代に入り映画は斜陽、テレビドラマの時代になると、
星さんは1969年に結婚したこともあり、引退ではありませんが、
映画もドラマも寡作となります。

つまり日本映画全盛期の終焉と共に第一線から退いたイメージがあり、
だから“最後の映画スター”のイメージがあるのです。

その後は離婚・再婚などを経つつ、
ベテラン女優としてコンスタントにドラマや映画に出演するようになり、晩年まで活躍しました。

それでは、映画時代から少し振り返ります。


◆『若大将』のヒロイン
星さんは映画黄金期には主に東宝の文芸・青春路線で主演・ヒロインを務めましたが、
特に加山雄三さん主演の『若大将』シリーズが代表作です。
1961年の第1作『大学の若大将』から、
1968年の第12作『リオの若大将』までヒロインの澄子役で人気を博しました。



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第4作『ハワイの若大将』(1963年)のポスター

このシリーズは加山さん、星さん、田中邦衛さんら主要キャストは毎回同じなのですが、
『男はつらいよ』と違って基本的に一話完結スタイルです。

どういうことかというと、加山さん演じる若大将こと田沼雄一は、
澄ちゃん(すみちゃん)こと澄子と出会い、恋に落ちるも色々あり、
最後はうまくいって終わるのですが、
次の作品で若大将と澄ちゃんはまた初めて出会って・・・という感じで、
わかり易くいえば同じような展開の話を繰り返すのです。
その点が前作の続編であり、新しいマドンナとの恋に落ちる寅さんとは違うのです。

ともかく、映画黄金期から斜陽期に向かう難しい時期、
『若大将』はこの時代を代表するヒットシリーズとなりました。

実はシリーズ自体はこの後も続くですが、
『リオの若大将』までは大学生編、その後は社会人編となり、
星さんはここまでで降板し、マドンナ役は酒井和歌子さんに譲ります。

ただ、大学生→社会人は若大将だけの問題で、
澄ちゃんは第1作から社会人である場合が多いです。
つまり当時の女性はまだ高校を卒業して社会人となるのが一般的だったということかと思います。

若大将シリーズは1980年代にリバイバルブームがあり、私もテレビで何本も観ました。
星さんは加山さんより6歳年下で、シリーズに出演していたのは18歳から25歳までですが、
学生の若大将の対して社会人役が多いせいか、またそもそも大スターの貫禄かも知れませんが、
随分大人っぽい、落ち着いた印象がありました。


◆特撮ヒロイン
星さんは東宝特撮映画にも出演しています。
本格的な特撮ファンタジーは以下の2本。

・『モスラ対ゴジラ』(1964年4月公開 宝田明主演)
・『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年12月公開 夏木陽介主演)


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『モスラ対ゴジラ』では宝田明さんと共に新聞記者役

宝田さん、夏木陽介さんが主演で星さんがヒロイン。
東宝は怪獣映画にも美男美女の大スターが出演していたのです。
夏木さんも今年の1月に亡くなりました。


東宝特撮映画といえばなんといってもゴジラですが、
実はゴジラの出ない怪獣映画、
怪獣の出ないホラーテイストの怪人物、
また宇宙や海洋をテーマとしたスペクタクル物など、
多彩な種類があり、多くの作品が作られました。

その中で出演が2本だけとは少ないようにも思えますが、
この2本は共にゴジラが登場する東宝特撮全盛期の人気大作であり、
両作でヒロインを務めた星さんは特撮ファンからすれば、
間違いなくこの分野を代表する女優の1人といえます。

例えば、星さんより少し先輩の白川由美さんは特撮映画に5本出演しており、
怪獣・怪人・宇宙スペクタクル物の各分野のヒロインを制覇しているのですが、
ゴジラ映画にも1本も出ていません。
これはめぐり合わせですね。

※特撮が使われた映画という点ではもう1本『世界大戦争』(1961年)に星さん、白川さんとも出演しています。


もう1本、ちょっと面白い映画を紹介します。

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『暁の合唱』(1963年)
石坂洋次郎原作の文芸映画。星さんが主演です。
何が面白いかというと、特別出演格の宝田明さんの方が大きく載っていてわかり難いですが、
星さんの相手役(抱きかかえている青年)が『ウルトラマン』ハヤタ隊員で知られる黒部進さんなのです。

黒部さんはこれがデビュー作で、星さんの相手役としてW主演格。
逆にいえば、星さんは新人のスター候補生を引き立てて上げるようなポジションだったのですね。
黒部さんの方は残念ながら期待に応えられなかったようで、この後はしばらく悪役中心の生活が続きました。



◆『科捜研の女』と『相棒』
星由里子さんは晩年まで東宝芸能に所属して活動してきましたが、
特にこのブログ的に紹介しておきたいのはテレビ朝日の警察ドラマ『科捜研の女』です。
このドラマの主役・榊マリコを演じる沢口靖子さんは東宝シンデレラ出身、
東宝芸能所属の後輩です。


『科捜研の女』は1999年スタート

2017年10月~2018年3月にはシーズン17が放送された長寿シリーズです。
このドラマは東宝とは昔からのライバルともいえる東映の制作ですが、
沢口さんの繋がりからか、東宝の所属俳優もよくキャスティングされます。

星さんはマリコの母親・榊いずみ役で2001年のシーズン3に初登場。
新旧の東宝トップ女優が母娘で共演! というわけです。
いずみはシーズン3の第1~5話、シーズン4全8話に登場、
その後もセミレギュラーとして時折登場しており、
2014年の年末スペシャルが最後の出演となりました。

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最後の出演は横浜の榊家の実家にマリコが里帰りしたシーン。
仕事のついででしたが。

科捜研の女での星由里子さんについてはこちらも参照してください。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-d2aa.html



『相棒』にも出演

星由里子さんは『科捜研の女』と並ぶテレビ朝日の人気警察ドラマ『相棒』にも出演しています。
『相棒』についてもこのブログ的には避けて通れないので、最後にふれます。
こちらは1度だけのゲスト出演ですが、大変象徴的な、
それこそ星さん以外にいないだろうという役を演じました。

『相棒season5』第19話「殺人シネマ」(2007年3月放送)

この回で星さんが演じたのは往年の大女優。
引退後は一切表舞台には出ず、取材もすべて拒否。
郊外の屋敷に隠棲する元大スター。
それがテレビのインタビューに饒舌に答えていてビックリ。
なぜ?・・・という展開。

さて、少し古い映画に詳しい人なら、この女優のモデルが誰かはすぐわかるでしょう。
日本映画史上屈指、伝説の名女優・原節子さん(1920年6月17日 - 2015年9月5日)です。
この人も東宝を中心に活動した女優でした。

話としては別に原さんを掘り下げようというわけではなく、
引退した大女優のライフスタイルのモデルにしただけだと思いますが、
古き良き日本映画黄金期への思い入れの強い作品で、
星さんが演じるに相応しい役でした。


昭和の大女優に、謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月17日 (木)

【訃報】西城秀樹死去/最後まで貫いた 熱くワイルドなスーパーアイドル像

訃報 歌手の西城秀樹さんが5月16日に亡くなりました。63歳
1970年代を代表する男性スーパーアイドルでした。



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西城秀樹
(さいじょう ひでき、1955年4月13日 - 2018年5月16日)

1972年3月25日 シングルレコード『恋する季節』で歌手デビュー
キャッチコピーは「ワイルドな17歳」。


新御三家 圧倒的な存在
1970年代は“アイドル歌手”という文化が花開いた時代でした。
その中でも、こと男性アイドルについては野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹の“新御三家”が圧倒的な存在でした。
3人とも1970年代初頭にデビューし、その70年代が終わるまでトップの座を走り続けたのです。

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新御三家

「新」があるということは「元祖」の御三家があります。
橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さん。
1960年代半ばの歌謡界で人気を誇った3人です。
しかし、とかく移ろいやすい流行歌の分野で、
全盛期の長さでは新御三家が完全に上回りました。
ただ、旧御三家のお三方は健在。西城さんが先に逝ってしまいました。

新御三家の3人は学年でいうと1955年度(昭和30年)生まれの同期生。
(野口五郎さんは1956年の早生まれ)
デビューの順番では野口さんが一番早く1971年5月。
次が西城さんで1972年5月、郷さんが同年8月。

ただ、デビュー曲が大ヒットした郷さんに対し、
西城さんは最初は少し伸び悩みますが(あくまで郷さんに比べればですが)、
翌1973年5月発売の『情熱の嵐』がオリコン・ヒットチャートで初のベスト10入り(最高6位)を果たし、
大ヒットする頃には完全にトップスターの座をつかみ取りました。




『情熱の嵐』
数々のヒット曲、名曲を送り出した西城さんですが、マイベストはこれです。
最高6位と聞くとちょっと微妙に思うかも知れませんが、当時小学校低学年だった私の印象だと、
それこそ周りの子ども達すべてが口ずさんでいたと言えるほどの程の大ヒットでした。


激しくワイルドなアイドル
当時はまだ男性アイドルという概念がさほど根付いてなかったかも知れませんが、
その典型的なスタイルは郷ひろみさん、そして彼の先輩にあたるフォーリーブスのような
やや中世的な可愛らしさを持つ美少年であったと思います。

しかし、西城さんは明らかに違いました。
180cmを超える長身、男らしくワイルドでむしろ年齢よりも上に見えるルックス。
アクティブなステージもフォーリーブスのような綺麗な振り付け・ダンスというより、
それこそ嵐のように激しくダイナミック、まさにアクションでした。

元々、小学生の頃から故郷広島でお兄さんとロックバンドを組み、
ドラムを叩いていたという凄いキャリアを持つロックミュージシャンだったのです。
熱く激しいステージもロック少年だったと聞けば納得できます。

歌唱力は抜群で、当時の音源で聴いても大変上手なのですが、
その常識破りのダイナミックな歌唱、激しいステージスタイルはかなり異質に受け取られたか、
73年の時点で『情熱の嵐』に続く『ちぎれた愛』が新御三家初のオリコン1位を獲るなどの
大ヒットを連発しながら、紅白歌合戦出場は74年まで見送られました。
(野口さんは72年、郷さん73年より出場)




1974年 紅白初出場での『傷だらけのローラ』


70年代男性アイドル
秀樹さん達の後、当然多くの男性アイドル達がデビューしました。
一時的に人気を得ることはあっても多くは短命に終わり、
新御三家の牙城を崩すことはできませんでした。

他の1970年代の男性アイドルというと、
グループでは60年代末デビューで安定した人気のあったフォーリーブスが今に続くアイドルの典型という意を含めてと、
新御三家に少し遅れて爆発的な人気を呼んだフィンガー5が挙げられます。

ですので、新御三家にこの2組を加えたのが70年代男性アイドルトップ5だと思いますが、
この2組やその他のアイドルと比較しても、とにかく新御三家の人気・実績が抜けすぎていました。


その中でも西城さんは70年代を通じて失速せずにコンスタントにヒットを出し続け、
最後の年となる1979年には『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』がオリコン5週連続1位の大ヒット。
この歌はアメリカのヴィレッジ・ピープルのヒット曲のカバーで、
西城さん自身が見つけたきたという原曲は結構いわく付きなのですが、
日本では明るく健康的なイメージで、激動の70年代掉尾を飾る国民的ヒット歌謡となりました。
私は高校の運動会で1年生全員でこの歌で踊った記憶があります。




『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』
西城さんもこの大ヒットをもって、70年代をトップのままの走り抜けました。


では新御三家の中でトップは誰か?
難しいですが、70年代に限定すれば、やはり『ヤングマン』の存在が大きく、西城さんだと思います。


1980年代になるとたのきんトリオの田原俊彦さんと近藤真彦さん、更にシブがき隊らが台頭し、
さすがにアイドルとしてはトップの座を明け渡しますが、
大人の歌手として『ギャランドゥ』などのヒット曲を出し続けました。

ニュースで伝えられているように後年は2度の脳梗塞との闘病がありましたが、
最後まで歌手、アイドル、スーパースター西城秀樹であり続けた人だと思います。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史

2018年5月 1日 (火)

【美術展】「ターナー 風景の詩」損保ジャパン日本興亜美術館/英国を代表する風景画家の決定版回顧展

東京新宿の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館では7月1日まで
「ターナー 風景の詩(うた)」展を開催中です。 

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ターナー 風景の詩(うた)
会 期: 2018年4月24日(火)~7月1日(日)
会 場: 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館

        (新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン日本興亜本社ビル42階)
開館時間:午前10時~午後6時 ※入館は閉館30分前まで
        ただし5月9日(水)、16日(水)、6月26日(火)~30日(土)は午後7時まで
主 催: 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館、毎日新聞社、スコットランド国立美術館群
協 賛: 損保ジャパン日本興亜、大日本印刷
後 援: ブリティッシュ・カウンシル
協 力: 日本航空
美術館ホームページ:http://www.sjnk-museum.org/
展覧会公式サイト:https://turner2018.com/
※東京展終了後は7月7日より郡山市立美術館に巡回・開催


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(Joseph Mallord William Turner、1775年4月23日 - 1851年12月19日)

イギリス・ロンドン出身。
英国絵画史を代表する画家・芸術家の1人で、特に風景画の巨匠として知られる。

本展はそのターナーの回顧展です。
いわゆる“ターナーとその周辺作”の展覧会ではなく、
ターナー作品のみの約120点で構成された(ターナーの肖像画1点を除く)
決定版ターナー展とでもいうべき催し。


開幕前日の4月23日に行われたプレス内覧会に参加しました。
この日は主催団体のひとつであるスコットランド国立美術館群より
総館長のジョン・レイトン卿が来日、主要な作品の説明を行いました。

★このページの写真は内覧会にて特別の許可を得て撮影・掲載しています。


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来場者に挨拶するジョン・レイトン卿(左から3人目)


ターナーは穏やかな田園風景、嵐の海、聳え立つ山岳など、
自然の様々な表情を優れた技法で表現しました。

本展ではターナー絵画を以下の4つのテーマに分けて展示しています。

「地誌的風景画」
「海景-海洋国家に生きて」
「イタリア-古代への憧れ」
「山岳-あらたな景観美をさがして」


わかりやすく観やすい、いい分類だと思います。

実在の風景、建築物等を描いて地誌的価値を持ちながら、
古代風景をも思わせるファンタジックな画風。
日本と同じ島国のイギリスならではの迫力ある海洋風景。
水彩画、また版画へのこだわり。
ターナーの魅力や足跡が明確に伝わる展示スタイルです。

残念ながら内覧会では各絵画単体での撮影は許可されていなかかったので、
分類に沿って個々の作品を紹介することはできません。
展覧会の雰囲気のみ紹介します。



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ターナーの風景画は独特の光や空気感に包まれています。
フランスでの印象派登場より半世紀以上前に活躍した画家ですが、
印象派絵画へ影響を与えたことが見てとれます。

また、これはレイトン卿も強調していたのですが、
ターナーは水彩画の名手です。
その技術は日本においても明治初頭から多くの画家たちの関心を集めました。

ともかく、英国各地の多くの美術館、個人収集家、
そして日本の美術館からも集めた120点による
ターナー展決定版。
この機会はそうそうないと思います。
お見逃しなく。

Old Fashioned Club  月野景史


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損保ジャパン日本興亜美術館 エントランスからの夜景

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