【昭和プロレス】訃報◆モンゴリアン・ストンパー死去/馬場、猪木、木村と因縁深いラフファイター
元プロレスラーのモンゴリアン・ストンパーが1月23日に亡くなりました。
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml
生年は1936年説と1944年説がありましたが、海外サイトでは1936年説が優勢のようです。
だとすれば、79歳ということになります。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ラッシャー木村ら、昭和期の日本のエースレスラーと因縁深い男です。
ザ・モンゴリアン・ストンパー(The Mongolian Stomper)
アーチー・ゴルディー(Archie Gouldie、本名:Archibald Edward Gouldie) 1936年11月22日 - 2016年1月23日
カナダ・アルバータ州出身。
モンゴリアンはギミックで、「ザ・ストンパー」と名乗る事も多かったと思いますが、日本では「モンゴリアン」で知られます。
名前の通り、強い足から繰り出すストンビング・キックが主武器でガンガン攻め立てるタイプの直線的なラフファイター。
日本では「踏みつぶし野郎」などと呼ばれました。私は「踏み殺し屋」の方がいいと思いましたが。
評価としてはB級悪役というところですが、北米での実績もそれなりで、日本とも縁の深いレスラーでした。
本項では、日本での足跡、日本人レスラーとの関わりを中心に記します。
1964年 猪木の渡米修行時代のパートナー
ストンパーはアントニオ猪木の米国修行時代のパートナーとして知られており、wikipediaでも強調されています。
ただ、ごく短期間ではありましたが。
1960年代初頭にカナダでデビューしたストンパーはアメリカに移り、1963年にカンサスに入ってモンコリアンを名乗ります。
翌1964年4月、日本から武者修行に来た21歳のトーキョー・トムことアントニオ猪木とアジア人悪役コンビを組むのです。
猪木はその後の米国転戦では、最終地のテネシー以外ではベビーフェイス(善役)だったようですが、
カンサスではヒールで、ストンパーとのチームではパット・オコーナー&サニ―・マイヤースの超一流チームとの
対戦記録も残っており、いきなりヒールのトップクラスのポジションに就いています。
猪木は二ヶ月余りでロサンゼルスに転戦してしまうのですが、ストンパーとは公私共に良い関係だったようです。
1971年 日本プロレスに初来日
その後もアメリカ・カナダで実績を積んできたストンパーは
1971年、ジャイアント馬場と猪木のBI砲がエースとして君臨する日本プロレスの新春シリーズに初来日します。
ここでは外人側エースとして馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦するという抜擢を受け、しかも引き分けます。
他にもノンタイトルで猪木と大木に勝ち、ザ・ケンタッキアンと組んでBI砲に挑んだインタータッグ戦では敗退しますが、
ビル・ドロモと組んでのノンタイトルでのBI砲戦では引き分けと、実に立派な戦績を残しました。
翌1972年秋、猪木に続いて馬場も抜けた混乱期の日プロに再来日しますが、この時はあまり良い戦績を残していません。
1979年 国際プロレスに登場
次の来日は7年後、1979年11月国際プロレスでした。
この時はアレックス・スミルノフ、ジプシー・ジョー、上田馬之助ら当時の国際のエース級外人を揃えたシリーズでしたが、
ストンパーは彼らを差し置いてトップとして迎えられます。日プロでの実績がものを言いました。
テレビ登場初戦では、グレート草津を猛烈な踏みつけ攻撃から変形スリーパーで失神KO、久々の再来日を飾りました。
ただ、超大物のパーン・ガニアが中盤に特別参加した為、ラッシャー木村のIWA王座の挑戦枠が残りひとつとなり、
外人勢はストンパー軍団とスミルノフ軍団に別れて抗争を展開、6人タッグ戦に勝利したストンパーが挑戦権を獲得します。
タイトルマッチは最終戦で行われ、一度は木村をフォールしてベルトを巻くも、ミスジャッジという事で試合再開、
そこに挑戦権争いで敗れたスミルノフが手出しをして痛手を負い、フォール負けしてしまいました。
それならば怒り狂ってスミルノフに食ってかかるかと思えば、意外にもすごすご引き下がってしまったのです。
ダメージが大きかったという事なのでしょうが、あまり良い印象ではなく、今後どういう使い方をするのか、
疑問に感じていたのですが、1シリーズだけ間に入れて、翌1980年2月に再来日します。
1980年 国際プロレスに再登場
この時は単独エース。
しかし、終盤にこれまた超大物ディック・ザ・ブルーザーの来日が急遽決定したので、
ストンパーの木村への挑戦は中盤で1回だけ実現しますが、3本勝負で2本フォールを取られて敗退します。
ただ、3本目が一瞬の抑え込みで、まだ余力充分という感じで消化不良の内容でした。
どうも国際プロレスはストンパーを本気で売る気があるのか、よくわからないマッチメイクですが
その答えを出すべく、この年の秋、自ら編成したというストンパー軍団を率いての来日が決定します。
日プロの来日で一緒だったピル・ドロモも含まれていたのですが、肝心のストンパーが気管支炎を発症して、
来日が中止になってしまいました。 国際とはここまで。
ストンパーは12チャンルネル時代の国際プロレスの常連との言われ方をしますが、実は2回だけの来日なのです。
しかし、タイプの似た木村とは手も合い、国際のエース外人との印象は強いです。
1982年 全日本プロレスに参戦 最後の来日
次の来日は国際プロレスの活動停止後、1982年春の全日本プロレスのチャンピオンカーニバル。
因縁のスミルノフも一緒でした。
この来日ではノーTVのブルーザー・プロディ戦で2分ちょっとでKOされるなど、優勝戦線には加われませんでしたが、
テレビ放送された馬場戦ではプロディらの乱入に助けられて引き分け、
同じく放送されたビル・ロビンソン戦では暴走として痛めつけての反則負けと、そこそこの存在感は示しました。
TVマッチで馬場に完敗したスミルノフよりは良い扱いだったようにも思えます。
ところが、このシリーズ終了後インターバルなしに開催されたグランド・チャンピオンシリーズにも残留参加したのですが、
カーニバル中は勝っていた日本勢の中堅どころに連戦連敗してしまいます。
テレビではまったく放送されず、記録が残るのみですが、不可解なマッチメイクでした。
尚、スミルノフとの公式戦は最終戦で予定されていましたが、スミルノフの棄権・帰国により行われませんでした。
これもまた、不可解な事情があるのですが・・・。
こうして見ると、どうも参加した三団体でいずれも不可解なマッチメイクをされているようにも思えます。
1983年 カナダで猪木と邂逅
全日本参戦が最後の来日になるのですが、実はもう一度日本のファンの前に姿を現しているのです。
1983年12月、猪木をはじめとする新日本プロレス勢のカナダ・バンクーバーへの遠征が行われ、テレビ放送もされました、
猪木はケリー・ブラウンと戦うのですが、ベビーフェイスに転向していたストンパーが、旧友猪木の救援に現れたのです。
そして、翌1984年には新日本への来日も発表されましたが、残念ながらキャンセルとなりました。
その後も、90年代初頭までは現役を続けたようです。
気弱な男?
ストンパーは気が弱いとする説があります。
その根拠となったのが某書に書かれたエピソード。
前述のチャンピオン・カーニバルの際、一緒になったプロディに気兼ねして、
トレードマークの毛皮付シューズの使用を自発的にやめてしまったという話です。
しかし、ストンパーはその少し前の国際への来日では毛皮シューズを履いてはいません。
アメリカやカナダではわかりませんが、ストンパーの試合は時々日本の専門誌にも紹介されましたが、
少なくともこの頃は、毛皮シューズは使っていなかったと思います。
だとすれば、この件は事実誤認にということになります。
単調との評価もされますが、直線的に攻め込むスタイルはブルファイターの典型ともいえ、
また末期国際プロレスを彩ったヒールでもあり、忘れ難いレスラーです。
謹んで哀悼の意を表し、追悼文を記させてもらいました。
Old Fashioned Club 月野景史
以下、デイリースポーツのサイトより、訃報記事を引用
http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2016/01/24/0008748248.shtml
☆☆☆
名悪役レスラー、ストンパーさん死去
2016年1月24日
プロレスラーのモンゴリアン・ストンパー(本名アーチー・ゴルディー)さんが現地時間の23日、米国テネシー州の病院で死去したと現地メディアが報じた。71歳だった。報道によると、人工股関節置換手術を受けたが回復せず、睡眠中に亡くなったという。
カナダ出身のストンパーさんはモンゴリアンスタイルの名悪役として知られ、60年代から90年代にストンピング(踏みつけ)を得意とした荒々しいファイトで活躍。米国修業時代のアントニオ猪木とタッグを組んだ経験もあり、日本でも日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体に参戦した。
★★★
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