【訃報】原節子さん死去/日本の「伝説の大女優」といえばこの人
元女優の原節子さんが9月5日に亡くなっていたことがわかりました。95歳でした。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1571283.html
俳優、特に映画スターには伝説的な存在の人は数多いでしょう。
しかし、「伝説」という言葉をどう捉えるにもよるかも知れませんが、
日本で「伝説の大女優」といえば、一番はこの方だと思います。
まずは、ごく簡単にその映画女優としてのキャリアを振り返ります。
原節子(はら・せつこ 本名:会田 昌江)
1920年(大正9年)6月17日-2015年(平成27年)9月5日 95歳没
神奈川県出身。1935年、15歳の年に日活入社、『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビュー。
同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とした。
翌1936年、日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢されて国際的スターに。
戦後は黒澤明監督『わが青春に悔なし』(1946年)や今井正監督の『青い山脈』(1948年)に主演。
更に小津安二郎監督『晩春』(1949年)以降6本小津監督の6作品に出演を果たすなど、
戦前から戦後の映画黄金期を通して大女優として活躍しました。
1962年、42歳の年の稲垣浩監督・東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』を最後に、
映画界・芸能界から完全に引退し、公の場に一切出ることはありませんでした。
例えば、山口百恵さんも引退後は公の場には出ず。伝説の大スターといえるでしょう。
しかし、彼女は多くの映画・ドラマに出ていますが、22歳で引退していますので、
「大女優」とまではいえないでしょう。
原さんは15歳での映画初出演、16歳での国際映画出演でスターとなって後、
戦前、戦中、戦後の混乱期から、1950年代の映画黄金期を通して、
1962年、42歳での引退まで25年以上、数々の名作・ヒット作に出演し、多くの賞にも輝き、
大スター・大女優として活躍しました。
そして、突然の引退後は一切表には出ませんでした。
いわゆるフェイドアウトではなく、すっぱりと身を引いたのです。これも大きな特徴です。
これだけトップとしてのキャリアを積み重ねて、これだけ綺麗な引退。
他に例はないでしょう。
だからこそ唯一無二、伝説の大スター、大女優であるのです。
多くの名監督の作品に出演
原節子さんといえば小津安二郎監督作品の印象が強いですね。
小津監督といえば松竹映画です。
しかし、原さんはキャリアの早い時期に日活から東宝に移り、
戦後は早くにフリ―となりますが、活動の拠点は末期まで東宝でした。
当然、小津作品にばかり出ていたわけではありません。
出演作も最も多いのは山本薩夫監督の7本で、6本の小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正各氏が続きます。
小津監督作品以外の代表作だと、それもたくさんありますが、やはり今井正監督の『青い山脈』でょうか。
映画史に輝く、文芸・青春映画の代表作として、戦後を象徴する作品です。
黒澤明監督では、なんといっても『わが青春に悔なし』でしょう。
黒澤作品は本作を挟んで計3本ありますが、『生きる』『七人の侍』など、
黒澤監督が東宝に復帰して以降の代表作とは縁がありませんでした。
『相棒』
さて、このブログなので『相棒』から話題をひとつ。
『相棒』シリーズには、明らかに原節子さんをイメージした作品があります。
『相棒season5』第19話「殺人シネマ」
サブタイトルは原さんのオマージュ作に相応しいとは思えませんが、
引退後、一切公の場に出なかった大女優が、ある殺人事件について、
なぜかテレビのインタビューに応え、雄弁に語る。その理由は? という展開。
女優役を東宝映画の後輩で、共演作もある星由里子さんが演じました。
往年の映画監督、女優、スタッフ、作品への厚い敬意が籠められた作品でした。
昭和の大女優に、謹んで哀悼の意を表します。
Old Fashioned Club 月野景史
以下、日刊スポーツcomより引用
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1571283.html
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原節子さん亡くなっていた95歳肺炎…姿消し53年
[2015年11月26日6時59分]
「東京物語」「青い山脈」などで知られる昭和を代表する女優、原節子(はら・せつこ)さん(本名・会田昌江=あいだ・まさえ)が9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で亡くなっていたことが25日、分かった。95歳だった。葬儀は近親者による密葬で行った。「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、コンビを組んだ小津安二郎監督が亡くなった後、女優を引退。公の場に姿を見せない“隠遁(いんとん)生活”を送っていた。
42歳で女優を引退後、半世紀以上も表舞台から姿を消していた原さんが静かに永遠の眠りについていた。近所に住む親族によると、8月半ばに神奈川県鎌倉市内の自宅で倒れ、親戚に付き添われて病院に行き、肺炎と診断されて入院。退院することなく、そのまま亡くなったという。
原さんは近年、足は弱っていたが、つえを持たずに歩き、1人暮らしを続けていたという。外出機会は少なく、親戚が買い物をしていた。甥(おい)が買った食材で自炊していることなどが昨年12月に一部で伝えられた。
原さんは女優志願ではなかった。横浜高等女学校中退後、姉光代さんの夫、熊谷久虎監督の勧めで映画界に入った。1935年(昭10)に「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビュー。役名「お節っちゃん」から芸名を原節子とした。
日本人離れした大きな瞳と、彫りの深い顔立ちで人気を集め、戦後は黒沢明監督の46年「わが青春に悔なし」で主人公を熱演。今井正監督の49年「青い山脈」に主演し、主題歌とともに映画も大ヒットした。
原さんの人生を大きく変えたのは小津監督との出会いだった。49年「晩春」で初めてコンビを組んだ。「東京物語」では上京した老夫婦を気遣う嫁を好演し、世界的巨匠となった小津監督の代表作となった。その後の「麦秋」「秋日和」などにも出演し、誠実でしとやかな日本女性というイメージを印象づけた。恩師のような存在だった小津監督作品には6本に出演。親密ぶりから結婚のうわさも立ったが、監督と女優として互いにリスペクトする関係を続けていた。
小津監督のほか、木下恵介監督や成瀬巳喜男監督ら多くの名監督と組んで、日本映画の黄金期を築いた。イングリッド・バーグマンを目標にしていると話していたこともあった。
63年12月に小津監督が死去すると、女優業への意欲を急速に失ったといわれ、その後、映画に出演することはなかった。最後に公の場に姿を見せたのは、62年11月、都内で行われた映画「忠臣蔵」の公開記念パーティーだった。「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、引退後は映画人やファンと交流を一切絶ち、鎌倉市内で静かな生活を送っていた。小津監督とともに、生涯独身を貫いた。公の場に姿を見せず、スクリーンのイメージを保ち続けた。
◆原節子(はら・せつこ)1920年(大9)6月17日、神奈川県生まれ。日本映画の黄金時代を体現し「永遠の処女」と呼ばれた。出演映画は46年「わが青春に悔なし」(黒沢明監督)、47年「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督)、49年「お嬢さん乾杯」(木下恵介監督)、49年「青い山脈」(今井正監督)、51年「めし」(成瀬巳喜男監督)、53年「東京物語」(小津安二郎監督)など。63年に女優を引退。
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