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2015年4月29日 (水)

■訃報【昭和プロレス】阿修羅原死去/国際プロレス時代 1979年の阿修羅原

2015年428日、元プロレスラーの阿修羅原が亡くなりました。68歳。

アメリカからは、20世紀プロレス史の大立者の1人、バーン・ガニアの訃報も伝えられましたが、
ここは原について書かせていただきます。



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阿修羅・原
 
(あしゅら はら 本名:原進 194718 - 2015428日 没年齢 68歳)
諫早農業高校在学中からラグビー選手として頭角を現し、
東洋大学を経て社会人では近鉄に所属、1970年に日本代表に選出されました。

1976
年には日本人として史上初めて世界選抜メンバーに選出。
日本を代表するラガーマンとして活躍しました。

197711月に国際プロレスに入門。
既に30歳、遅い転向でしたが、アスリートとしての実績に加えて容姿もよかった原を、
国際プロレスは大々的にプッシュします。
(ただ、当時の国際は既にマイナー感が強く、さほど話題にもなりませんでしたが。)


1978629日の大阪府立体育館に寺西勇とのエキジビションマッチで正式にデビュー。
 
(その前に、試験的に覆面を被って出場していたといわれます。)
デビュー後すぐに約半年間の海外修業を経て、791月より国内本格デビュー。
同年5月にはWWUジュニアヘビー級王座を獲得。その後、海外再修業を経てヘビー級転向。

しかし、国際プロレスは1981年夏に活動を停止。
原は全日本プロレスに移籍し、天龍源一郎と遭遇します。
当時の全日は何度目かになる天龍の再売り出しを図っており、
キャリアに被る面もある原とは相性がいいと見たのか、移籍第1戦でシングル対決、
続く年末の最強タッグではコンビを結成して出場しています。

その後の、特に天龍との“龍原砲”としての活躍、そして波乱に満ちたプロレス人生はよく知られています。
何度かのプロレス界からの離脱・復帰を経て、1994年に引退し、故郷の長崎に戻りました。
当時47歳でしたが、この時点で満身創痍というイメージであり、その後の復帰はありませんでした。
最近は体がたいぶよくないことが伝えられていました。


さて、駆け足で原のキャリアを追ってみました。
原が真価を発揮したのは、全日本プロレス以降、
それも1987年より天龍と共に「天龍同盟」を結成、
龍原砲として革命に突き進んだ時代が
クライマックスというのが一般的な評価かと思います。

それに抗うわけではないですが、私は本格的に国内デビューした1979年の印象が強いのです。
ですので、ここから後は国際プロレス時代に絞って書かせてもらいます。


1979年の阿修羅原
カナダ、ヨーロッパを転戦した海外修業より帰国した原は、1979年の新春シリーズより国内の試合に本格参戦。
エース級の外人レスラーとも戦って善戦する一方、
5月には欧州から来た軽量級の正統派レスラー、
ミレ・ツルノに勝ってWWU世界ジュニアヘビー級王座を獲得。デビュー1年足らずでタイトルホルダーとなります。

夏には初来日だったあのダイナマイト・キッドの挑戦を受け、2度の防衛を果たしました。
タイトル戦は引き分けでしたが、ノンタイトル・ノ―TVのシングル戦でキッドにフォール勝ちしています。


秋には特別レフェリーとして11年ぶりに国際に来日し、
原とネルソン・ロイヤルやマーク・ロコ(後のブラックタイガー)との
タイトル戦を裁いたル―・テーズが、原を天才と呼びました。

あくまで、デビュー1年そこそこのキャリアの割りにはという前提付きですが、

決して過剰なリップサービスということもなかったと思います。
その感想は、近年発売されたDVDで再見しても変わりません。


01

当時の原は後年の姿と比べてだいぶスリムで、いかにもトップアスリートといったバネのある印象。
グランドレスリングも俊敏にこなし、ドロップキックや、Wアームス―プレックスなど、
後年のイメージには合わない技も切れよく決めてました。
特に原ならではの当時の得意技を二つ紹介します。

当時の必殺技はバックフリップ。
Photo_3


エアプレーンスピンの要領で相手を抱え上げ、弾みをつけて後を倒れ込む技です。
アニマル浜口が先に使っていたと誤解している人もいるようですが、
浜口は元々エアプレーンスピンが得意技
でしたが、回転した後で横に投げ落とすスタイルで、
パックフリップに繫げるようになったのは、原がこの技を使い始めたのより後の事です。
原の場合は回転はせず、倒れ込んだ勢いそのままに後転し、フォールに入るム―プが特徴でした。
浜口と差別化していたともいえます。

これはパワフルな技で、後年の原のイメージとそぐわないことはなく、使い続けてもよかったように思えますが、
全日移籍以降、TVマッチで一度見た記憶はありますが、ほとんど使わなかったかと思います。


もうひとつの得意技はラグビータックル。
実際のラグビーのタックルのように組みつくのではなく、体当たりで突き飛ばすスタイルでした。
この技は国際プロレス末期にはもう使っていなかったと思います。

これは、いつまでもラグビーを引きずり過ぎるのを避けて封印したのでしょう。
天龍が初期の天龍チョップ(相撲の突っ張りそのまま)を封印したの同じかも知れません。

※この他に、二度目の海外遠征から帰国した81年春からは
二大新必殺技として、雪崩式ブレンバスターとコーナー二段目から飛ぶネックブリーカーを披露しています。


その後の国際プロレスでの阿修羅原

さて、短いキャリアながら王者となり、大いに輝いていた1979年の原ですが、
この年の暮れ頃からでしょうか、やや動きが鈍くなったように感じていました。


1980
年が明けても状況は改善せず、素人目にもスランプ状態に映りました。
そのまま、春に年齢は原よりだいぶ下ながら、プロレスのキャリアでは大幅に上回る
剛竜馬、藤波辰巳と連続で対戦し、不本意な内容に終わりました。

海外再修業が発表されるもなかなか実現せず、1981年が明けてやっと渡米、
短期間で帰国し、ヘビー級として再デビュー、マイティ井上とタッグ王座を獲得するも、
既に国際は東京12チャンネルの定期放送を打ち切られており、終焉も間近という状態でした。

その後全日本プロレスで、色々ありながらも花を咲かせたのですから、いいプロレス人生だったかとも思いますが、
国際プロレスがもう少し存続していたらどうだったか、などと考える時もあります。

謹んで追悼の辞を記させていただきました。

 

Old Fashioned Club  月野景史

 





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