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2014年3月

2014年3月31日 (月)

【ドラマ】『相棒12』終了 視聴率は前期より1%UPの17.4% /4月には劇場版Ⅲ公開

テレビ朝日系人気ドラマシリーズの第12シーズンとなる『相棒12』。
3月19日放送の第19話「プロテクト」をもって終了しました。
しかし、今期は4月に映画版第三弾となる
『相棒 -劇場版III- 巨大密室! 特命係 絶海の孤島へ』の公開を控えており、
まだ完全に終わったという気はしません。


さて、“三代目相棒”甲斐享役の成宮寛貴さん就任二期目となる、
「シーズン12」の平均視聴率は17.4%
今期は「シーズン6」以来の一度も20%越えなしとなりましたが、
最終話を含む三度の長時間スペシャルがいずれも19%台後半を記録、
前期の17.3%を僅かながら上回り、
過去12シーズン中でも第4位の、充分合格点といえる数字でした。

平均20.4%を記録した「シーズン9」にはだいぶ及びませんが、
この期は前後のシーズンに比べても比べても図抜けており、例外的で、
今期も国民的ドラマの面目をしっかり保ったというところでしょう。


「シーズン12」も全19話を12人の脚本家が執筆しており、
バラエティに富んだ内容でした。
総じて、水谷豊さん演じる杉下右京と、カイトこと甲斐亨の親密ぶりが目立ったように思います。
過去の相棒、初代の亀山薫(寺脇康文)、二代目の神戸尊(及川光博)と比べて、
右京はカイトに対しては、あまりシニカルな物言いをしないからでしょう。

これは、基本的に左遷の形で特命係に来た亀山や神戸と違い、
カイトは右京自身がスカウトしたという設定の違いがあるので、当然といえば当然です。
右京とカイトの意見や見解がぴったり合うようなシーンも、
過去の相棒達の時と比べると、多いようにも感じました。

そんな右京とカイトを、シャーロック・ホームズとワトソン(ワトスン)医師に
例えたエピソードもありましたね。

ただ、ホームズとワトソンの関係は、
ホームズの常人離れした洞察力や発想を、
常識人のワトソンとの対比で引き立たせる、という面があるので、
その点では、カイトよりも亀山や神戸との方が、ホームズ&ワトソンに近いのですが。
また、右京とカイトが別行動を取る展開も多かったですね。


さて「シーズン13」は・・・、
その前に劇場版3ですね。

実は、広義における『相棒』シリーズの劇場版は過去に4本あるのですが、
そのうちの2本はスピンオフ作品なので、正編としての劇場版は3本目です。
公開は4月26日の予定。


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相棒 -劇場版III- 巨大密室! 特命係 絶海の孤島へ
公開 2014年4月26日
出演者 水谷豊 成宮寛貴 伊原剛志 釈由美子 及川光博 石坂浩二
監督 和泉聖治
脚本 輿水泰弘
音楽 池頼広
配給 東映
製作 相棒-劇場版III-」パートナーズ(テレビ朝日、東映、トライサム、小学館、朝日放送、メ~テレ、木下グループ、北海道テレビ放送、広島ホームテレビ、九州朝日放送、トップコート)
http://www.aibou-movie.jp/


Old Fashioned Club  月野景史

2014年3月26日 (水)

【昭和プロレス】『Gスピリッツ Vol.31』は旗揚げ60周年記念 日本プロレス特集

今日、3月26日発売されたプロレスムック『Gスピリッツ』 Vol.31のテーマは、
「旗揚げ60周年記念特集 日本プロレス」です。

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キャッチとして「最強にして最狂のプロレス団体がここにある!」
なんとも過激な煽りがここにあります。

そして、今回はあのアントニオ猪木の10ページに及ぶインタビューが掲載されています。
しかし、敢えてそれを巻頭に持ってこず、
表紙でも、猪木の名を一番上にはしていますが、特に大きく扱ってはいない。
ここらは、Gスピリッツらしい、といえるのかどうか・・・。

では、何が巻頭に来ているか?
京谷泰弘氏のインタビュー記事です。

京谷泰弘氏は日本プロレス中継を放送した日本テレビのプロデューサー。
1954年の最初の放送からスタッフとして携わり、
1957年にはプロデューサーに就任しています。

この1952年は日プロ中継のレギュラー放送の始まった年ですから、
まさに最初期から日テレ側の責任者だった人です。
失礼ながら、こんなキャリアの人が、ご健在というのも驚きです。
いったい何歳なのか?
百歳越え??

京谷氏は1930年生まれとのことで、今年84歳。
ということは、プロデューサーになったのが27歳。
今の感覚だと、随分若いですね。

京谷氏の記事は14ページにわたります。
このキャリアな人だから、大変貴重な証言だし、おもしろいです。
裏事情にも随分精通しているようです。

興味深かったのはジャイアント馬場と猪木についての発言。
このポジションにいた人ですから、
日テレとの関係に殉じた馬場を良く言って当然のように思えますが、
圧倒的に猪木に対して高評価でした。


さて、巻頭から外れた猪木のインタビューのテーマは「“若獅子”の青春時代」。
渡米修業に出る前、1960年4月の入門から、196312月の力道山死去まで、
3年半に絞っての証言で、なかなかおもしろいです。
そして、猪木はちょっと意外な事を語ったようです。


「馬場や猪木ら若手レスラーは、力道山から猛烈な特訓でしごかれ、鍛えられた。」
多くの人達が抱いているイメージだと思います。

おそらく、そのイメージを前提しての質問でしょうが、
人形町の道場で、力道山は猪木ら若手レスラーを指導することはあったか?
との問いに対する猪木の答えは「ないですね」!
きっぱり否定されてしまいました。

これはちょっと驚きました。
もちろん、力道山が毎日道場に詰めて、若手を指導とていたとは思っていませんでしたが、
まったくなかったとは、さすがに意外でした。

ただ、これは人形町に道場があった頃の話なので、
渋谷のリキ・スポーツパレスが完成し(1961年7月)、道場も移った後は別なのかも知れません。
でも、だとしたら、猪木もそう言いそうなものです。
記事から受ける印象では、人形町か渋谷かは問わず、
道場で力道山からしごかれた記憶は一切ない、と言ってるように感じます。

これが末期の国際プロレスのように、本社は高田馬場、道場は大宮というような環境だと、
社長や幹部クラスのレスラーが行くことはあまりない、というのもわかりますが、
特に渋谷のリキ・パレスには日プロ本社、試合会場、道場のみならず、
力道山経営の娯楽施設も複数入っていたと聞きます。
その環境なら、力道山がしばしば顔を出していたとしても、おかしくないように思えますが。


また、よくいわれる、力道山が他者に席を外させた密室状態の場所で、
馬場と猪木と大木の3人に、徹底的にガチのスパーリングをさせたことがある、
との説についても、「知らない」と一蹴されています。

たしかに猪木は、「力道山が自分たち若手を直接指導したことはない」と言っているのだから、
こんなこともなかったということになります。

ちなみに、馬場はリキ・スポーツパレスが完成する直前くらいのタイミングで渡米しており、
戻って来た時はメインエベンターの扱いです。
しかもまたすぐに再渡米してしまい、次の帰国は力道山の死後、その時は猪木が渡米中ですから、
もしこのスパーリングの話が本当なら、馬場の帰国後の事とは考え難く、
馬場と猪木の入門から、馬場の渡米(=パレスの完成)までの
1年ちょっとの間ということになるかと思います・・・が、果たして、スパーリングは真実なのでしょうか。


話は変わって、猪木の記事では、マンモス鈴木のついての証言も貴重です。
同誌では毎号、国際プロレス関係者の証言が掲載されていますが、
鈴木についての言及は極めて少ないので。

猪木によると、鈴木は面倒見がよく、かわいがってもらったとのこと。
これは、国際プロレス末期に専門誌に鈴木自身が書いていたコラムから、
私が受けた印象とピッタリ重なるので、嬉しく感じました。
またも、レスリングは弱かったが、
ボクシングをやっていたので殴り合いに強かったとのこと。


日プロ特集は他に、

「北沢幹之×グレート小鹿  闘論――なぜ俺たちは対立することになったのか?」
「門馬忠雄 至近距離から見た豊登~BI時代」


どちらも大変おもしろいですが、
旗揚げ60周年記念特集と銘打っている割には、
ちょっとボリュームが少ないようにも感じました。
といっても、証言出来る人は限られており、贅沢はいえませんが。

国際プロレス特集はマイティ井上が登場。
前号のファンクスに続き、今号ではハ―リ―・レイスと、
日本とも関わり深い、米マットの超大物も登場しています。


全内容は以下の通り。
-------------------------------------
G SPIRITS Vol.31
旗揚げ60周年記念特集 日本プロレス

■京谷泰弘
水面下で消滅した「力道山vs木村政彦の再戦」と「豊登vsカンガルー大晦日決戦」

■アントニオ猪木
“若獅子”の青春時代

■北沢幹之×グレート小鹿
闘論――なぜ俺たちは対立することになったのか?

■門馬忠雄
至近距離から見た豊登~BI時代

<スペシャルインタビュー>
■ハーリー・レイス
元NWA世界チャンピオンの帝王学

■ロイ・ウッド
ウィガンからのメッセージ

<英国軽量級レジェンド対談>
■ジョニー・セイント×クン・フー
追想――土曜午後の英国プロレス

<連載>
■グレート東郷 「銭ゲバ」と罵られた男の戦前・戦後史
【最終回】潰されたドリー・ファンク・ジュニアvsシャチ横内のNWA世界戦

■ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
―ロス登場から初来日までの1033日―
【最終回】AWAでストロング小林と激突

■アリーバ・メヒコ
ブラックマン&ホワイトマン
白黒忍者コンビが30年ぶりに再会!
【前編】“早熟の天才児”アルベルト・ムニョスの快進撃

■ドクトル・ルチャのミニ講座
アルベルト・ムニョスが巻いたナショナル・ウェルター級王座
このベルトは初代か、それとも2代目か!?

■実録・国際プロレス
【第21回】マイティ井上

■発売日 2014年3月26日
■出版社 辰巳出版
https://bemss.jp/g-spirits/cont111_003_013.php?kmws=vn06hhrsg67k6bpkojiobhp403

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Old Fashioned Club  月野景史

2014年3月21日 (金)

ミュージックステーション 春の名曲ランキング60/『春一番』が入ってないとは・・・。

今日、3月21日に放送された、『ミュージックステーション』
「春の3時間スペシャル! 卒業・桜…10000人が選んだ春の名曲ランキング」

サブタイトル通り、10代から60代まで1万人のアンケートによるランキングとのこと。
このような企画の場合、比較的新しい歌が中心になるのは仕方ないのですが、
それでも、アイドルソングを含め、昭和の歌もそれなりに入ってました。

しかし、まさかのこの歌が、60位以内にランク入りしていませんでした。


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キャンディーズ『春一番』(1976年3月1日発売)

まあ、入らなかったものは仕方ないです。
同感の方は、こちらで↓堪能してください。

【音楽】『春一番』 キャンディーズ/春のスタンダードナンバー 永遠の名曲
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-7bc8.html


それにしても意外でした。
「春」といえば、この歌だと思うのですが・・・。
タイトルに「春」とあるのだから、選び易い面もあるし、まさか、ベスト60に入らないとは。
キャンディーズでは、『微笑がえし』は入っていましたが。

歌詞に「もうすぐ春ですね」とあるので、まだ春の歌ではない、
なんて変な理屈で外されたわけではないですよね。


Old Fashioned Club  月野景史

2014年3月17日 (月)

【訃報】宇津井健氏死去/『ザ・ガードマン』映画スターからTVドラマの大スターへ

俳優の宇津井健さんが、3月14日に死去しました。82歳。
また昭和の名優が亡くなりました。
http://mainichi.jp/select/news/20140315k0000m040105000c.html

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宇津井 健
(うつい けん、1931年10月24日 - 2014年3月14日)

東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。

宇津井さんは、戦後の日本映画黄金期の主演スターであり、
その後、テレビドラマの時代になり、映画時代以上の大スターとなった人です。
これは、宇津井さんの年代で、特に現代劇中心の俳優としては、比較的珍しい例です。


新東宝の映画スター

大学在学中の1952年(昭和27年)に俳優座養成所に第4期生として入団。
1953年に新東宝映画『思春の泉』で映画初主演を飾り、
翌1954年に新東宝に入社、若手主演スターとして活躍します。

ただ、この昭和20年代半ばから30年代後半までの日本映画黄金期には
各社が大量の劇場用映画を制作していました。
その中で、宇津井さんは大スターといえるかまでは、やや微妙なポジションでした。

それは宇津井氏が所属していた新東宝映画の事情にもよります。
戦後発足したこの会社は、当初はともかく、次第にエログロのB級路線を強めていきました。
そして、映画人気にも陰りが見え出した1961年、
まだ各社は多くの映画を作っていましたが、新東宝は倒産してしまいます。

所属俳優達は各社に分散します。
丹波哲郎、天知茂、菅原文太、若山富三郎、高島忠夫、
倒産より前に他社に移籍していた人もいますが、
結構ビッグネームが所属していたのです。

宇津井さんは大映に移籍します。
主役から脇役までこなす中、映画はいよいよ斜陽を迎え、
テレビドラマの時代がせまってきました。


テレビドラマの大スターへ
昭和40年代、いよいよ本格的なテレビドラマの時代を迎えます。
新しいメディアには新しいスター達が登場する中、
昭和30年代の映画スター達は、無論TVでも主役を張る人もいましたが、
多くは脇役に回り、消えていった人達も少なくはありません。
その昭和40年(1965年)、宇津井さんはこのドラマに出会います。

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『ザ・ガードマン』
(初期のみ『東京警備指令 ザ・ガードマン』)
1965年4月9日 - 1971年12月24日(全350回)
制作 大映テレビ室、TBS


延べ6年9ヶ月に渡り放送され、最高視聴率40.5%。
日本テレビ史を代表する人気ドラマ。

「ザ・カードマンとは、警備と保障を業務にし、大都会に渦巻く犯罪に敢然と立ち向かう、勇敢な男たちの物語である」
「昼は人々の生活を守り、夜は人々の眠りを安らぐ。自由と責任の名において、日夜活躍する名もなき男たち…。
それは、ザ・ガードマン」
(オープニングナレーションより)


勇壮なテーマ曲のオープニングも人気でした。

事件捜査物ドラマですが、主人公達は民間の警備業「東京パトロール」の社員。
ですから、刑事ドラマとも、探偵ドラマとも言い難いですね。

宇津井さんはこのドラマで、個性溢れるメンバー達を統率し、
自らも果敢に行動するポジティブなリーダー、
高倉隊長(キャップ)を演じ、いわば「お茶の間の顔」となりました。
温厚で優しく、頼りがいがあり、根は熱血漢、そんなイメージが定着しました。

私はこの『ザ・カードマン』と、後発の以下2本、
『キイハンター』(1968年-1973年 東映 TBS)、
『プレイガール』(1969年-1974年 東映 東京12チャンネル)

昭和40年代の非刑事物の捜査ドラマベスト3と位置付けています。
『キイハンター』は国際警察なので、民間ではないですが。
高度成長期のパワーと、70年安保後の混迷、冷戦時代の世界情勢、
時代を色濃く反映したドラマ達でした。


『ザ・ガードマン』以降
その後の宇津井さんは、山口百恵さんと主に父親役で共演した「赤い」シリーズや
1988年から1995年まで7シリーズ制作された『さすらい刑事 旅情編』などにも出演、
やはり、テレビを中心に安定した活動を続け、
老境に差し掛かった2000年以降も、よく顔を見かけました。


ちょっと珍しい映像です。


番組終了から20年近く経った1990年、メンバーが再結集した
サントリーウイスキーソーダのCMです。
もう1本あります。


どちらが先だったか、ちょっと定かではありません。

「ウイスキーソーダ」、今でいう「ハイボール」ですね。
といっても、「ハイボール」は古くからの呼び方で、この1990年当時は死語に近かったのですが。



宇津井さんは2006年4月より人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』第8シリーズで、
藤岡琢也氏に代わり、岡倉大吉を演じました。

亡くなる間際まで現役でしたね。
謹んで哀悼の意を表します。


Old Fashioned Club  月野景史

2014年3月 4日 (火)

【昭和プロレス】ビル・ロビンソン死去/国際、新日、全日。日本で大きな足跡を残した英国人レスラー

元プロレスラーのビル・ロビンソンが亡くなりました。75歳。
http://mainichi.jp/sports/news/20140305k0000m050041000c.html

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ビル・ロビンソン
(Bill Robinson、1938年9月18日 - 2014年3月3日)
イギリス・マンチェスター出身。通称「人間風車」



日本マットと欧州プロレス界

ビル・ロビンソンはヨーロッパマットのスターとして来日し、
日本でも大成功したプロレスラーの草分けです。

日本のプロレスはアメリカ及びカナダの北米大陸との強い結び付きの元、発展してきました。
力道山の作った日本プロレスは、アメリカから来日した悪役レスラーが、
日本人レスラーと闘うのが基本スタイルでした。
日系の悪役レスラーとして有名なグレート東郷が、招聘窓口になっていました。

その一方、欧州のプロレス界とはほとんど縁がありませんでした。
日本プロレスには欧州出身のレスラーも登場していますが、
それらの人達は活動の拠点をアメリカに移した後、そこからのルートで来日したものだったのです。


国際プロレスに初来日

1967年、日本プロレスから独立した国際プロレスが旗揚げされます。
この団体も当初は北米ルートで外人レスラーを招聘していましたが、
テレビ中継開始まもない時期に、ブッカーとのトラブルでそのルートを断たれてしまいます。

そこで、窮余の作で、これまで縁の薄かった欧州ルートに活路を求めたのです。
そのような経緯で、1968年4月、ロビンソンは初来日を果たしました。

15歳でイギリスの名門ビリー・ライレー・ジムに入門したロビンソンは、
英国マットを中心に欧州各国からインドや中東、さらには南米まで活躍の場を広げ、
1965年にヨーロピアン・ヘビー級王座、1967年にはブリティッシュ・ヘビー級王座を獲得、
初来日は30歳になる年で、欧州マットのエースともいえる存在でした。

若き英国紳士といった佇まい、フェアなファイトスタイル、華麗なテクニック、
そして美しくも痛烈な必殺技、ダブルアームスープレックス、
ロビンソンは外国人でありながら正義のヒーローとなります。
そして、日本サイドのエースとして、しばらく日本に滞在しました。
これも画期的なことでした。

同年に開催されたリーグ戦、IWAワールドシリーズで優勝し、
初代IWA世界ヘビー級王者に認定。翌年も連覇。
日本プロレスのワールドリーグ戦では日本勢以外が優勝した事はなかったので、
これもエポックメイキングでした。

その後、拠点をアメリカに移しますが、1974年まで常連の看板外国人レスラーとして、
国際プロレスへの参加を続けました。
同団体所属のレスラー達の壁となる共に、
カール・ゴッチやバーン・ガニアといった大物レスラーとの正統派対決でもファンを魅了しました。


新日本から全日本へ
そして1975年に新日本プロレスに登場。
12月11日に蔵前国技館でアントニオ猪木挑戦したNWF世界ヘビー級選手権試合は、
日本マット史上屈指の、正統派スタイルの名勝負として語り継がれています。
しかし、レスラーとしての新日登場はこの一度のみで、猪木とも最初で最後の対戦となりました。

翌1976年には全日本プロレスに移籍してジャイアント馬場との対戦が実現。
その後も全日本の常連として主にジャンボ鶴田の好敵手として闘う一方、
ファンクスやアブドーラ・ザ・ブッチャー、ニック・ボックウインクルなど、
他の大物外国人レスラーとの試合も話題も集めました。

しかし78年には40歳、足や腰に負傷を抱え、さすがに動きには衰えも見え始め、
ダブルアームスープレックスもかつての切れは失いました。
1985年が全日本への最後の登場となり、その年限りで米国でも引退しています。


引退後
その後も日本マットとの関わりは続きます。
1990年には猪木のレスラー生活30周年記念イベントに来日した後、
1992年にUWFインターナショナルに来日、
ニック・ボックウィンクルとエキシビション・マッチを行います。
その後も同団体のトレーナーとなり、またタイトルマッチのウィットネスとして度々来日。

UWFインター解散後の1999年よりUWFスネークピットジャパンのヘッドコーチに就任。
以降2008年まで、東京の高円寺に定住して後進の指導・育成に携わりました。
後年、長く日本に住んでいたのですね。
テレビなどで取り上げられたこともありました。


これぞ正統派といった綺麗な(時に綺麗過ぎる)試合スタイル
ダブルアームスープレックスやワンハンドバックブリーカーといった
見栄えのする大技を持つ一方、
シュートにも強く、マット界でポリスマン的な役割を果たしてきたともいわれます。

ニュースに書かれている「人間風車」とはやや大仰なニックネームですが、
ダブルアームスープレックスのイメージを表現したものです。

日本とも大変縁の深かった名レスラーの訃報でした。
謹んで哀悼の意を表します。

Old Fashioned Club  月野景史


以下、毎日新聞JPより転載
http://mainichi.jp/sports/news/20140305k0000m050041000c.html
☆☆☆
プロレス:「人間風車」ビル・ロビンソンさんが死去
毎日新聞 2014年03月04日 18時53分(最終更新 03月04日 18時57分)

「人間風車」の異名で知られ、日本でも人気があった往年の名プロレスラー、ビル・ロビンソンさんが3日、米国アーカンソー州で死去した。新日本プロレスが発表した。75歳だった。

ロビンソンさんは1938年、英国生まれ。68年に国際プロレスに招かれて来日し、ニックネームの由来となったダブルアームスープレックスやワンハンドバックブリーカーなど、多彩な技で「善玉」として人気となり、それまで「悪役」が主だった外国人プロレスラーの役割を変えた。

70年代中盤からは、新日本プロレスや全日本プロレスに活動の場を移し、アントニオ猪木さんやジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さんとも戦いを繰り広げた。
引退後の99年から約10年にわたって東京・高円寺に住み、若手レスラーの指導に当たった。
★★★

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