【プロレス】竹内宏介氏死去/ゴング誌編集長 名解説者 昭和プロレスの伝道師
プロレス記者で元ゴング誌編集長、プロレス評論家、
そしてテレビのプロレス中継の解説者として活躍された、
竹内宏介さんが、2012年5月3日腸閉塞のため亡くなりました。65歳。
http://miruhon.net/news/2012/05/post_886.html
私見ですが。マスコミ系のプロレス解説者として竹内氏は、菊池孝氏と並び双璧でした。
闘病中と聞いていましたが、早すぎる訃報です。謹んで哀悼の意を表します。
竹内宏介
(たけうち こうすけ、1947年1月6日-2012年5月3日 65歳没)
竹内さんは1965年にベースボール・マガジン社に入社、『プロレス&ボクシング』誌に携わります。
その後、信じ難い話ですが、若干19歳で『プロレス&ボクシング』編集長に就任。
しかし、1968年に日本スポーツ出版社に移籍、プロレス・ボクシング専門誌『月刊ゴング』を創刊します。
当時21歳、この頃の詳しい事情は知る由もないてすが、よほど有能だったのでしょう。
そうとしか考えられません。
月刊ゴングは1980年代に週刊ゴングとなり、プロレス専門誌として長く親しまれました。
プロレス中継解説者
竹内さんは記者・編集長として活躍する一方、
1974年に放送開始された東京12チャンネル(現テレビ東京)の
国際プロレス中継(国際プロレスアワー)に解説者として出演します。
その後、テレビ朝日の新日本プロレス中継(ワールドプロレスリング)を経て、
日本テレビの全日本プロレス中継に登場します。
昭和プロレス三団体の中継に出演したことになります。
ただ、新日本への出演は短期間だったと思います。
DVDで僅かに確認できますが、メインが東京スポーツの櫻井康雄氏で、セミレギュラーだったのでしょう。
1979年春頃まで、出演していたようで、山本小鉄がセミリタイヤして解説中心になると同時に、
身を引いて全日本に専念したのでないかと思います。
やはり全日本の解説者のイメージが強いですね。
1978-79年頃から、平成時代の1992年まで、東京スポーツの山田隆氏、
プロレス評論家の田鶴浜弘氏、そして全日本の社長であるジャイアント馬場らと共に
解説を務めました。
前述のように私は、竹内さんはプロレス解説者として一番だったと思います。
おしゃべりも上手く、歯切れよくてわかり易く、情報も正確でした。
ミル・マスカラスのファンで、詳しいことがアピールされてましたが、
とにかくプロレス全般の知識が、広く深く正確でした。
解説者、編集長を退いた後もプロレス評論家、またプロデューサー的にも活動され、
DVD-BOX『伝説の国際プロレス 1969-1974』(2005年12月)
『不滅の国際プロレス1974-1981』(2007年3月)の監修 も務めました。
竹内さんは特典映像にも出演しています。
『1974-1981』では同じ国際プロレス中継の解説者だった東京スポーツの門馬忠雄氏、
プロレス評論家の菊池孝氏との共演でしたが、
竹内氏は自ら「昭和プロレスの伝道師」を名乗られていました。
本当に、当時60歳くらいでしたから、まだまだ長く活躍してほしかったですが、
まもなく病いに倒れられ、闘病生活を続けられてきたのだと思います。
編集長としてトップに立ったのが早かったから、長く一線で活躍されてるのにまだ若かったのですね。
昭和プロレスファンにとっては、大袈裟ではなく、かけがえのない人でした。
この方が病いに倒れ、早く亡くなられたのは、本当に残念です。
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