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2012年1月 5日 (木)

【昭和プロレス】アブドーラ・ザ・ブッチャー引退/日本マット史上最も有名な外人レスラー

プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが1月2日、現役引退を表明しました。
http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/news/20120103spn00m050016000c.html

Butcher_001
さすがにブッチャー、ネットのニュースサイトでも多く情報が流れました。
もっともかなりの人が、「まだ現役だったのか!」と驚いたでしょうけど。

ブッチャーは今回、全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに出場すべく来日しましたが、
コンディションの不良により欠場を決定、
1月2日の後楽園ホール大会ではセコンドのような形で試合に参加し、
その後に近々の引退を宣言したとのことです。


アブドーラ・ザ・ブッチャー
ブッチャーは1941年1月11日生まれなので、まもなく71歳。
初来日は1970年ですから、もう40年以上前です。
実は以前は1936年生まれといわれていたこともあったのですが、
近年、本人がIDカードを公開して、41年生まれを実証したようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは日本マット史上最も知名度の高い外国人レスラーだったと思います。
とはいっても、日本で本格的にプロレスが行われるようになってから60年近く経っています。
誰が一番有名か、人気があったか、比較するのも難しいですが、しかし…。

ザ・デストロイヤー、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
もっと古い時代から知っている方ならフレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、
名前が挙げればキリがありませんが、一般的な知名度・認知度ではブッチャーが一番かと思います。

今回はそんな、“スーダンの黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの超入門編。
ブッチャーがいかにして屈指の人気レスラーとなったか、その道程に関わる基礎知識です。


日本プロレスから全日本プロレスへ
ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木が二大エースとして並び立っていた時代です。
当時のブッチャーは無名とはいわないまでも、アメリカでトップレスラーだとは言い難く、
さほど期待はされていなかったようですが、いきなりの大暴れを繰り広げ、
馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦する活躍をしました。

私は当時の試合は観ていませんが、この扱いは来日前から決まっていたのか、
来日後の試合ぶりにより抜擢されたのか、興味深いところです。

その後、ブッチャーは日本プロレスに二度参加、
1972年12月より馬場が日本プロレスから独立して設立した全日本プロレスの常連となります。
全日本プロレスにはアメリカから一流のレスラーが多く来日しましたが、
ブッチャーは彼らに負けることなく、看板レスラー、ドル箱外人の地位を確立していきます。

ブッチャーは反則三昧の凶悪ヒール、流血の悪役ファイターです。
その意味では人気といってもいわゆるヒール人気、嫌われてなんぼのように思えますが、
実は凶悪レスラーとしての全盛期から、会場にブッチャーコールが巻き起こるベビーフェイス的な人気もありました。

なぜでしょうか?
ひとつは、よく見るとどことなく愛嬌のある憎めない風貌。
そしてもうひとつ、ブッチャーは相手を凶器攻撃で血まみれにしますが、
それ以上に自分も血だるまになる、やられ上手なところがありました。
だから、馬場やジャンボ鶴田のような大型日本勢との戦いでは、コールを受けることも多かったのです。

1976年春、ブッチャーはリーグ戦形式で行われるチャンピオンカーニバルの決勝で、
馬場を反則勝ちながら下し、優勝を手にします。
日本プロレスのワールドリーグ戦以来、日本マットでは春にリーグ戦あるいはトーナメントが、
年間屈指のビッグイベントとして開催されるのが伝統でした。

その歴史の中で、早くに日本プロレスから分かれた国際プロレスでは外人が優勝したことがありましたが、
主流ともいうべき日本プロレス、新日本プロレス、そして全日本プロレスでは、外人レスラーの優勝は初めてのことでした。
もちろん、これは全日本においてそういうマッチメークがされたということなので、
いかに当時のブッチャーの評価が高かったがかわかります。

その後、1979年のカーニバルでは鶴田をフォールして完全優勝。
他にもPWFヘビー級、UNヘビー級、USヘビー級、インターナショナルタッグと、
全日本プロレスの主要タイトルを片端から獲得していきました。
まさに全日本を支える看板外人してのポジションを確立していきます。


ファンクスとの死闘
しかし、ブッチャーの真骨頂は馬場や鶴田ら日本勢との対決だけではなく、
他の外国人レスラーとの死闘にありました。
その中でも最も伝説的なのが、やはり凶悪ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークとタッグを組んで闘った、
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのファンク兄弟、ザ・ファンクスとの血の抗争でした。

ザ・ファンクス
ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク、共に米マットの頂点であるNWA世界ヘビー級王座に君臨した
超大物兄弟コンビ、テキサスの荒馬チーム。
そのファンクスと、ブッチャー&シークの史上最凶悪コンビが激突したのは、
1977年暮れのオープン・タッグリーグ戦でした。

それから2年後、1979年の第2回世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でのファンクスと試合、
ブッチャーとシークの同士討ちからの壮絶な仲間割れまで、長く語り継がれるこの闘いは続きました。

といっても、この2年間で4人が日本に顔を揃えて争ったのはほんの数週間に過ぎません。
ひとつには、ブッチャー以外の3人はアメリカでプロモーターやブッカーなども行っており、
そうそう長期間、日本滞在できないという事情もありました。
にも関わらず強烈な印象を残した、濃密な抗争でした。

このファンクスとの抗争が代表的ですが、ブッチャーはそれ以外にも、
日本陣営入りしたザ・デストロイヤーをはじめ、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラス、
ワフー・マクダニエル、仲間割れしたザ・シーク、そして外人側として全日本に参加していた大木金太郎と、
次々と抗争を展開して、人気を高めてきたのです。

1979年8月26日に開催された伝説のプロレスオールスター戦では、
新日本プロレスのトップヒール、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと史上最狂悪タッグを結成、
一夜限りの復活を果たした馬場&猪木のBI砲と闘いました。


高まるブッチャー人気
血まみれのリングの一方で人気は高まり、一般メディアに取り上げられることも増えていきます。
1979年、講談社『週刊少年マガジン』にブッチャーを模したキャラクター「ボッチャー」が活躍する
ギャグ漫画『愛しのボッチャー』(河口仁氏作)が連載開始、ブッチャー人気に拍車をかけます。

翌1980年にはサントリーの清涼飲料水「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演。
このCMにはかなり力が入っていたようで、結構な話題になりました。
ただ、これにはちょっと笑えないオチがついてしまいました。
このCMは続き物で、春編、夏編、秋(冬?)編が放映予定だった筈なのですが、
夏編のオンエア中に共演したモデルが大麻所持で逮捕され打ち切り、秋(冬?)編はお蔵入りとなってしまいました。
スチールで見た秋(冬?)編のブッチャーは白のタキシード姿だったかと思います。残念でした。

*CMの映像です。春編と夏編。後はもう少し後にやった別のCMです




新日本プロレスへ

1981年春、日本マットに衝撃が走ります。
ブッチャーが電撃的に新日本プロレスへ移籍するのです。
これを契機に新日本と全日本はレスラーの引き抜き合戦を開始、プロレス界は混乱に陥ります。

さて、ブッチャーにとってこの移籍は失敗だったとの見方が一般的です。
もちろん私もそう思います。全日本であれほど輝いていたブッチャーは新日本で急激に色褪せていきます。

この件の評価は難しいところです。
ブッチャーは移籍時40歳、年々肥大化して動きは鈍くなっていました。
スピードに上回る新日本への、あの時点での移籍は無謀だった面もあります。

しかし、新日本の使い方もおかしかった。
上に散々書いたように、全日本でのブッチャーはシングル・タッグのリーグ戦にはほぼフル参加で、
次々と新しい抗争相手と出会い、人気を高めてきました。
しかし、新日本に登場していた4年間、遂に一度もリーグ戦に参加することはありませんでした。
そもそも、新日本が提唱したIWGPへの参戦が移籍理由だったのに、これにまったく絡ませなかったのです。
この件については色々な事情も語られていますが、これではブッチャーが生きません。
他にもおかしな扱い、マッチメークはありましたが。


再び全日本へ
1987年暮れ、ブッチャーは因縁深い世界最強タッグに参加、全日本プロレスへの復帰を果たします。
新日本への移籍から6年半、そしてその新日本への最後の登場から2年近くが経ち、
ブッチャーも既に46歳、さてどこまでやるかと思ったのですが、見事に復活を果たします。

翌1988年に行われたブルーザー・ブロディの追悼興行ではスタン・ハンセンとメインを闘いました。
オールスター戦以来のタイガー・ジェット・シンとのタッグも実現。
1990年に行われた馬場の30周年記念試合では遂に馬場とタッグを結成、
アンドレ・ザジャイアント&スタン・ハンセン組と闘います。仲間割れしてしまいますが。
その後は馬場と共にメインからは退き、ややコミカルな試合で中盤を沸かせました。

1996年には再び全日本を離れますが、馬場没後の2001年に復帰、
21世紀になっても時々日本に顔を見せていました。

あの体型ですし、あまり無理はしてほしくないとも思います。
引退は仕方ないでしょう。
賛否両論ある人ですが、なんといっても日本プロレス界の功労者です。
最後に良い舞台が用意されることを望みます。

※追記:3月20日の両国国技館大会で引退式が行われるとの話もありましたが、実現しなかったようです。

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