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2011年12月21日 (水)

【昭和プロレス】上田馬之助死去/史上最高の日本人ヒール(悪役)レスラー

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元プロレスラー上田馬之助さん(うえだ うまのすけ 本名上田裕司 1940年6月20日生まれ)が
本日、2011年12月21日に亡くなりました。71歳。思いがけない訃報でした。


上田馬之助は日本プロレス史上最高の悪役(ヒール)レスラーでした。

日本勢=善玉(ベビーフェイス)
外人勢=悪役(ヒール)
これが定番だった時代、日本人ヒールとして活躍したパイオニアです。

今回は追悼の意を込めて、上田馬之助さんのレスラー人生を、
まさに彼がヒールとして頂点にあった時代に、熱心なプロレスファンであった一人として、
本当に簡潔にではありますが、振り返って記述させてもらいます、


相撲からプロレスへ
上田さんは大相撲出身。1958年5月場所が初土俵です。
入門したのは追手風部屋ですが、間垣親方の独立に伴い間垣部屋に移籍します。
しかし、相撲では目が出ず廃業。最高位は序二段19枚目でした。
記録上の廃業は1961年1月場所限りですが、実際の出場は1960年9月場所まで。
1960年中に実質的に力道山率いる日本プロレスに入門していたようです。

この1960年、春にはジャイアント馬場とアントニオ猪木が日本プロレスに入門しています。
上田さんはたいたいこの二人の半年後輩ということになると思います。
馬場さんは1938年生まれ、猪木さんは1943年生まれなので、
年齢的には上田さんはこの二人の間くらいという関係です。

若手時代の上田さんは実力あるが地味、といった存在でした。
昭和の時代、プロレスラーは日本で前座として研鑚を積んだ後、海外武者修業に出るのが通例でした。
海外で、いわば“ハク”を付けて帰ってきて、トップレスラーの仲間入りをするのです。
上田さんも1966年に渡米し、ヒールとして活躍します。
ただし、日本人はアメリカマットではヒールのことが多いので、
これをもって上田さんが日本人悪役のパイオニアというわけではありません。

1970年に長いアメリカ遠征から帰国、そこそこに売り出されますが、
やはり馬場、猪木、坂口征二らに比べれば地味で、ブレイクできませんでした。

1971年暮れ、日本プロレスを激震が襲いました。
猪木さんがクーデターを企てたとして除名されてしまいます。
上田さんはこの時、猪木さんの計画を日プロ幹部(もしくは馬場さん)に注進したとされています。
真相は不明な部分もあります。詳しくはWikipediaでも参照してください。
ただ、皮肉にもここでの猪木さんとの因縁が、後にヒールとしてプラスに働いた面もあります。

明けて1972年、除名された猪木さんは新日本プロレスを設立、
次いで馬場さんも独立して全日本プロレスを設立します。
日本プロレスに残った上田さんは翌1973年3月、
大木金太郎さんと組んで権威あるインターナショナル・タッグ王座を獲得します。
しかし、馬場と猪木を失い、最後は坂口さんも離脱した日本プロレスは
まもなく活動停止に追い込まれました。

上田さんは他の日プロの残党同様に全日本プロレスに入団しますが、恵まれた待遇とはいえず、
ほどなく脱退して再びアメリカに渡り、ヒールとして南部中心に活躍します。


トップヒールの誕生
1976年、上田さんはアメリカから全日本の馬場、新日本の猪木、
そしてもうひとつの団体である国際プロレスのエース、ラッシャー木村への挑戦を表明します。
その中で唯一、木村さんが挑戦に応じたため、国際プロレスに参戦しました。

国際プロレスの社長である吉原功氏は上田さんの若手時代のコーチでもありました。
私はこの挑戦表明は吉原氏と上田さんによるアングルではなかったかと思っています。
ただ、この件についてはもう少し深読みしたような見方もあるようですが。

この時、上田さんは地味なイメージを払拭する意味もあったと思いますが、
前髪を金髪に染め、「まだら狼」として登場しました。
悪逆の限りを尽くすヒール、狂乱の一匹狼、上田馬之助の誕生です。
凶悪ファイトで木村さんからIWA世界ヘビー級王座を奪取します。


新日本へ/シンとの邂逅
一躍注目を集めた上田さんですが、すぐに矛先を国際プロレスから新日本プロレスに換えます。
この流れの真相はよくわからない面もあるのですが、
いずれにしろ、特に過去の因縁のない木村さんより、
日プロ末期の因縁のある猪木さん、坂口さんと絡んだ方が、
ヒールとしての上田さんの存在価値も増すのは間違いありません。

新日本の会場に乱入しての挑発行為の末、1977年1月から正式に参戦します。
この時、上田さんには大きな出会いがありました。
新日マットにおいて最凶のヒールとして君臨してきたタイガー・ジェット・シンです。

シンにとっても、ややマンネリ気味なってきた時期だったので良い出会いでした。
早速、坂口&ストロング小林組から北米タッグ王座を奪取、
永く日本マットを血で染め続ける凶悪コンビ、シン&上田の誕生です。
単独でも、1978年2月には因縁深い猪木さんと伝説の釘板デスマッチも闘いました。

上田さんは「まだら狼」と後々まで呼ばれていましたが、
前髪だけを染めた「まだら狼」の時代は実は短く、
新日本登場後まもなくから髪全体を金髪に染めた「金髪の狼」「金狼」となります。
金髪と竹刀をトレードマークに世間的な注目も集め、一般メディアにも登場するようになりました。

「家族が嫌がらせを受けた」「飲食店で入店拒否にあった」
当時の嫌われ方はよく語られる通りですが、
一方で悪に徹する一匹狼はピカレスクヒーロー的な人気も集めるようになりました。
また、ヒロ・マツダ、マサ斎藤らフリーの日本人レスラー達が集まった狼軍団も話題を呼びました。

一方、1979年には、かつて微妙な別れ方をした国際プロレスにも新日本と併行して出場、
国際プロレスへの恩返しは果たしたと言っていいかと思います。

当時の上田さんは外人レスラーと同じ扱いなので、毎シリーズ必ず参加するわけではありません。
かといって、外人レスラーのように、参加の場合に必ず告知させるとも限りませんでした。
私は、上田さんが登場するのかしないのか、いつもヤキモキしていたものです。

ただ、ヒール人気は高いのですが、新日本での戦績は少しずつ悪くなっていきます。
これはつまりそういうマッチメークをされたということですが、
かませ犬的な役回りも見られるようになりました。


全日本プロレスへ
1981年、新日本と全日本で外人レスラーの引き抜き戦争が勃発、
7月に相棒のシンが全日に電撃移籍します。
上田さんはその後に一度新日に参加したので、残留するのかと思いましたが、
秋には全日本に移籍、シンとのコンビを復活させました。

色々見方はあるようですが、私はこれは良かったと思っています。
停滞気味だった戦績も回復し、シンとはインターナショナル・タッグ王座も獲得します。
元々馬場さんとも因縁があり、シングルでも伝説的な激闘を繰り広げました。


再び新日本へ
その後、1980年代半ばには再び新日本プロレスに戻ります。
その頃になると時代も変わり、日本勢対外人勢という構図も既に崩れ、
団体内での日本勢同士の対決が主流にさえなりつつありました。
もはや、日本人ヒールというだけでは売りになり難くなっていました。

上田さん自身も40代半ば、厳しい年齢ではありました。
それでも、逆に猪木をフォローする形で、前田日明らと闘うなど、
元祖シューターとしての実力を示しました。
更に、シンとのコンビを復活する機会もあり、ヒール上田のバリューはまだ健在でした。


事故~その後
1996年3月、55歳になっていた上田さんはインディーのプロレス団体に参加、
移動中の東北自動車道で不慮の交通事故に遭遇してしまいます。
以来、半身不随の生活となりました。
それでもプロレスラーとして、トップヒールとして、そのポリシーを守ってこられました。

今年、2011年は日本テレビの24時間テレビにも出演、
今夏発売されたプロレスのDVD『悪逆無道!極悪ヒール烈伝 DVD-BOX』にも、
流智美氏によるインタビューが収録されるなど、健在ぶりをアピールしていたのですが…。


本当に波乱の人生を送った人でした。
プロレスラーとしては、まさにひとつの道を極め尽くした人だと思います。
金髪の一匹狼、史上最凶・最高の悪役、
昭和プロレスファンにとって、永遠不朽の存在です。

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コメント

勉強になりました。T・J・シンはあの年はあのシリーズに来て…上田さんはその時いたかな?と、反芻しました。
上田さんは大宮スケートセンターで乱入した時に、すぐそばにいたのですが、やはり凄味がありました。 謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。

横並びは避ける性格故に、こちらにお邪魔いたしましたよ。

アルゼンチン・ズマさん

こんばんは。コメントありがとうございます。
先にシンの来日が発表されて、上田さんは出るのかなと気を揉んだことなど思い出しました。
悲しいですけど、最近発売されたDVDにもよく登場しているので、懐かしく観戦しています。

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