【美術】高村光太郎『乙女の像』11/26『美の巨人たち』より/十和田の大自然に立つ理想の智恵子像
11月26日放送のテレビ東京系『美の巨人たち』のテーマ作品は、
高村光太郎の彫刻『乙女の像』でした。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/111126/index.html
十和田湖畔、手を合わせて向かい合う二人の乙女の裸像です。
高村光太郎(1883年(明治16年)3月13日-1956年(昭和31年)4月2日)
戦前の彫刻・芸術界の風雲児。
そして、精神を病んで亡くなった最愛の妻、智恵子への愛を綴った
詩集『智恵子抄』の作者として、詩人としても高名です。
今回は光太郎と智恵子の一代記、大河ドラマといった趣きの番組でした。
以下、番組の内容に沿って振り返ります。
光太郎は明治彫刻界の大御所・高村光雲の息子として生まれます。
父が教授をしていた東京美術学校彫刻科を卒業するとニューヨーク、ロンドン、パリへと留学。
新しい彫刻の旗手ロダンにも出会います。
帰国後、新しい芸術を日本に紹介しようと試みましたが、受け入れられず挫折も経験します。
失意の日々に出会ったのが、女流画家であった長沼智恵子でした。
智恵子は光太郎の最大の理解者に、そして永遠の伴侶となりました。
光太郎の芸術にも磨きがかかりました。
けれども、夫の才能を前に智恵子の創作活動は行き詰まり、更に実家が破産。
智恵子は体調を、そして精神のバランスを崩していきます。
発病7年目の1938年、智恵子は亡くなりました。
『智恵子抄』の発表は1941年。
精神を病んだ智恵子が檸檬を齧って一瞬正気に戻る描写が印象的な『レモン哀歌』など、
戦時下ながら人々に大いなる感動を与えました。
しかし戦局は悪化。
1945年、東京大空襲でアトリエも作品も智恵子との思い出の品も失った光太郎は、
岩手花巻の宮澤賢治の遺族の元に身を寄せます。
光太郎は賢治の生前、詩集や童話集の発表に尽力した縁があったのです。
やがて終戦、しかし光太郎は東京に戻らず、更に辺鄙な岩手の山村に移り住みます。
それから7年間、光太郎は彫刻刀を握らず、静かに亡き智恵子と向き合って過ごします。
その生活は穏やかで、独立独歩を楽しんでいるように見えたともいいます。
しかし、最後に智恵子の姿を彫刻として残したいとの強まっていきました。
1950年、十和田の国立公園指定15周年を記念してモニュメントが制作されることになり、
光太郎に白羽の矢が立てられました。
光太郎は十和田の自然の中をじっくりと歩きます。
裸像の制作許可を得た光太郎は「智恵子をつくります」と宣言したのです。
『乙女の像』は1953年に完成、十和田の圧倒的な大自然を背景に今も健在です。
しかしその乙女の姿は病弱で華奢だった智恵子のとは違い、豊満で逞しく思えます。
それは、光太郎の理想の智恵子像だったのかも知れません。
なぜ乙女は二人なのか?
番組ではなぜ二体の像が向き合っているのかについても言及しました。
ひとつは、智恵子の「芸術と狂気」を表しているとの見方。
これは少しわかり難いように感じました。
もうひとつは二体であることにより、大自然と調和・呼応しているとの見方。
こちらの方がわかり易いかもしれません。
二体の像の間から美しい湖が、
そして「東京には空が無い」と言った智恵子に見せるかのように青い空が広がっています。
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