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2011年8月 2日 (火)

【日本史】豊臣秀次/大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で注目の高まった悲劇の関白を巡る様々な見解

NHKの大河ドラマ『江~姫たちの戦国』、斬新な歴史解釈(?)で賛否両論のようです。

前々回の放送では関白豊臣秀次の切腹による最期が主題でした。
秀次はヒロイン江の二番目の夫、豊臣秀勝の実兄に当たる為、丹念に描かれました。
今回はこの色々と話題の多い大河ドラマについて考察しようというのではなく、
豊臣秀次についてです。

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今回の放送を見て「あれ?」と思った方もいるかも知れません。
秀次は罪のない人を試し切りにするなどの残酷行為で、「殺生関白」などと呼ばれていたのではないでしょうか。
『江』では、秀次はそんなことはしなかったし、そのような嫌疑をかけられることすらなかったですね。
禁漁区域での狩猟や、昼間から泥酔しているような描写はありましたが、
あくまで謀叛の嫌疑をかけられての処刑でした。しかもまったくの無実の。

秀次の嗜好殺人とでもいうべき残虐行為については、そのような事実はなかったばかりか、
リアルタイムではそのような嫌疑すらかけられてはおらず、
後世になっての創作・捏造との見方もあるようです。
結果的にそうなっただけかも知れませんが、『江』ではその見方を採ったのですね。

もちろん、その見解で統一されたわけでもなく、ネット上でも激しい議論が見られます。
私も浅学ですので、この問題についての自分の判断は保留します。
ただ、全般としては、従来悪い面ばかりが語られてきた秀次について、
近年は見直す傾向にあるようです。
秀次の能力や人格について、好意的に書かれている資料が結構残っているのですね。


豊臣秀次(1568年-1595年)
秀次は秀吉の実姉の長男です。
秀吉の身内の子なのだから、元々高い身分ではありません。
秀吉の出世に合わせて、二人の弟と共に取り立てられていきました。
『江』では弟は秀勝しか登場しませんでしたが、その下に秀保という弟がいました。
秀保は秀吉の弟である大納言秀長の養子になりましたが、秀次と同じ年に不可解な死を遂げています。

武将としての秀次は、小牧・長久手の戦いでの大失態が有名で、
その為に凡庸との評価が定着した面があるのですが、それ以降はまずまずの武勲を立てています。
そもそも小牧・長久手の時はまだ16歳なので、責任を問うのは無理もあります。

治世の面でも、城主となった近江八幡での善政の記録があります。
古典への造詣が深い教養人として知られ、古書等の保護・研究への評価は高く、
といって文芸だけでもなく、武芸もそれなりだったようです。
突出しているわけでもないけど、非の打ちどころのない人物のように思えますね。

最期を迎える事情はよく知られている通りです。
待望の長男鶴松を失った秀吉より譲られて、23歳で関白に就任します。
しかしその後で拾(後の秀頼)が生まれ立場が怪しくなります。
謀叛や乱行の嫌疑がまったくの捏造なのか、追い詰められていく中でそのようなこともあったのか、
識者の見解もまだ分かれるようです。

ただ、秀次の処刑についてはかなり異例な面が多いと思います。
『江』でも最後は頭を剃って僧侶の姿でしたが、実際最初は出家を命じられます。
出家をした段階で、本来死刑はない筈です。
寿命がつきるまで寺で隠棲するのが常ですが、秀次はその後ですぐ切腹を命じられます。
更に、現在の感覚だと、死刑なら切腹も斬首も同じように思えますが、
切腹はそれなりに名誉を認められた死に方で、本来は首を晒されることはありません。
晒されるのは斬首や磔などの場合です。

しかし、秀次の首は三条河原にさらされます。
そしてその三条河原で、秀次の子ども、正室、側室、侍女ら40名近くが処刑されます。
もちろん、これ以外にも多くの家臣が死罪となっています。
なにやら刑がどんどんエスカレートしていく印象があります。

この秀次事件は豊臣政権に大きな禍根を残したとされます。
そこまでは今回は言及しません。


しかし、ひとつだけ付け加えます。
今回の『江』では、秀吉に命じられた石田三成がすべて筋書きを書いたように描かれていました。
これは別に『江』のオリジナルではなく、以前からある見方だと思います。
一方で、三成は最後まで秀次の助命に尽くしたという正反対の説もあるのです。
これも真相はわかりませんが、ひとつ興味深い話があります。

秀次の家臣に若江八人衆と呼ばれる人達がいました。
元々は秀吉が選任したといわれ、秀次をよく補佐し数々の武勲に貢献しました。
秀次の死後、彼ら8人のうち6人は三成に仕えました。

もし三成が姦計の首謀者なら、彼らにとって三成は主君の仇です。
逆に最後まで助命に尽くしてくれたのが事実なら恩人ですね。
三成に仕えたということは、恩に報いる為だとの見方も出来ます。
しかし、食い扶持の為だから仇だのなんだの言ってられなかっただろう、とも考えられますね。
これもわかりません。

ただ、彼ら6人のうち4人は関ヶ原の合戦で三成軍として奮戦の末、討死しています。
もし、食い扶持の為に仇の家臣になったのだったら、
自軍が危うくなったら、三成など見捨ててとっとと逃げ出していた…、ようにも思えますね。

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