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2010年10月

2010年10月 9日 (土)

仮面ライダー誕生超入門/藤岡弘氏の怪我と、1号・2号ライダー/本郷猛と一文字隼人

仮面ライダー
Kamen01
ウルトラマンと並び、現在も継続する、日本の人気ヒーローシリーズ。
第1作『仮面ライダー』の放映開始が1971年ですので、来年生誕40周年になります。

以前、『ウルトラマン』誕生時のエピソードについて書きましたが、
『仮面ライダー』は開始早々、『ウルトラマン』より遥かに厳しい困難に直面しました。
主演の藤岡弘氏(現在の芸名は「藤岡弘、」)が事故で重傷を負ったのです。
これは割と有名な話で、“秘話”と呼ぶほどでもないのですが、
今回はこの件を中心とした『仮面ライダー』誕生の超概略です。

『仮面ライダー』
1971年(昭和46年)4月3日~1973年(昭和48年)2月10日放映 全98話

『仮面ライダー』は東映により、ニュータイプのヒーローとして企画されました。
原作はSF漫画の巨匠石森章太郎氏(後に石ノ森章太郎と改名)ですが、
元々『仮面ライダー』という漫画があったわけでなく、テレビ化を前提に企画された、いわゆるメディアミックスです。

主演に決定したのは、藤岡弘氏。
藤岡氏は松竹映画のニューフェイス、つまりスター候補生としてデビュー、
主演級の役柄もあったのですが、映画産業事態が衰退期だったこともあり、
大きな活躍は出来ず、この当時の知名度は高くはありませんでした。
そんな時に『仮面ライダー』の主役「本郷猛」に決まり、勇躍撮影に臨んだのです。

『仮面ライダー』基本設定
本郷猛は青年科学者でオートレーサー。優秀な頭脳と運動能力の持ち主である。
その本郷を世界征服を企む悪の秘密結社ショッカーが拉致した。
改造人間として世界征服の尖兵にしようとしたのだ。
しかし、肉体の改造が終わり、脳手術を受ける寸前で本郷は脱出。
本郷は正義の仮面ライダーとして、ショッカーとの闘いを開始した。


さて、放送開始を直前に控え、撮影は第9.10話まで進んでいました。
その撮影中に藤岡氏がバイクで転倒し、左大腿部を複雑骨折の重傷を負ってしまうのです。
(事故は第1話の放送より後との説もありましたが、近刊の出版物でも藤岡氏は病院のベッドで第1話を観たとの記述があります。
日付は3月30日、4月1日、初回放送当日の4月3日など、資料により諸説あり。)

撮影に当たっては、藤岡氏自身も過激なアクションに取り組んでいたようです。
仮面ライダーの着ぐるみでのアクションもやっていたとのこと。
これはすべてのシーンではなく、スタントも併用されていたようですが。
問題の転倒した場面はライダー姿ではなく、本郷猛としてのシーンでした。


さて、藤岡氏の負傷は大変重く、撮影復帰のメドは立たない状況でした。
そこで当面、藤岡氏抜きで撮影が続行される事になりました。

第9.10話は前後編で途中まで撮影は進んでいたのでなんとか完成させました。
音声は後で収録する、いわゆるアフレコだったようですが、これは声優さんが務めたそうです。

では、藤岡氏不在でクランクインする第11話以降はどうしたか?
変身後のライダーはスタントの人がやればいいので問題ありません。
後は他の俳優よって話を進める合間に、以前撮影された本郷の映像を差し込んだのです。

例えばこんな感じです。

怪事件発生後、本郷の仲間達の会話。
「あれ、本郷はいないの?」
「もうとっくに飛び出していったよ!」
画面が切り替わってバイクで疾走する本郷の姿(これは以前の回で撮影された映像)
そこに「この事件はショッカーの仕業に違いない!」といった本郷の独白が流れる。(これは声優さんによるアフレコ)


病室にカメラを持ち込み、藤岡氏のアップのみ撮影する案も、別の作品で実績がある為、
検討したようですが、断念されました。


このように苦心の撮影で13話まで撮り終えますが、藤岡氏の回復の見込みは立たず、
代役・代演を検討せざるを得なくなります。
そうなると、まず考えられるのは二通りです。

①本郷猛を別の俳優に演じさせる。
②本郷は死んだ事とし、別の俳優による別キャラクターを登場させ主役とする。

どちらを選ぶにしろ、藤岡氏が回復しても、復帰は難しくなります。
スタッフにはなんとか藤岡氏の復帰の道を残したいという思いがあったようです。
もっとも、それ以前の問題として、②は子ども向け番組として相応しくないと面もありました。

そこで、スタッフが選んだのは、②のバリエーション案です。
元々ショッカーは世界征服を企んでいる設定なのだから、外国でも活動している筈です。
「本郷猛は外国に渡ってショッカーと闘い、日本は別キャラに任せる。」というストーリーにしたのです。
これなら藤岡氏が回復すれば復帰も可能です。

仮面ライダー2号登場

Kamen02
新ヒーロー登場に関わる劇中での説明は以下の通りです。
ショッカーはカメラマンで優れた格闘能力を持つ一文字隼人を拉致し、
第2の仮面ライダーに改造するが、脳手術を受ける前に本郷ライダーに救出された。
そして、一文字は仮面ライダー2号としてショッカーと闘う決意をする。
本郷はその一文字に日本を託し、ショッカーと闘う為ヨーロッパに渡った。


この展開については一文字の口から語られるだけで、実際にはほとんど描かれていません。
2号が登場したので、便宜上本郷ライダーは1号という事になりました。

一文字隼人に配役されたのは佐々木剛(たけし)氏。
佐々木氏は主演スターとまではいえませんが、主にテレビドラマの分野で
売れっ子といえる俳優でした。
佐々木氏は元々藤岡氏とは面識があり、藤岡氏の回復後の復帰を前提とした出演は
佐々木氏の希望でもありました。


仮面ライダー大ブーム
さて、今と違ってそんな裏事情は一般にはほとんど知られません。
4月に開始された番組ですが、当初はあまり注目されておらず、
視聴率8.1%からのスタートでしたが、除々に数字を上げていました。

しかし、制作側では内容の問題点も指摘されていたました。
元々、本郷は改造されて普通の人間ではなくなってしまったという悲しみを背負って闘うという面があります。
また敵役のショッカーも怪奇色の強い組織として描かれてました。
その為、番組自体、やや暗めでハードな印象が強かったのです。
子ども番組にしては相応しくないのではないかとの声も上がってました。

そこで、2号ライダーの登場が第2クール冒頭の14話(7月3日)という事もあり、
これを機会にドラマのスタイルも一部リニューアルが行われました。
レギュラー陣も一部入替・追加を行い、明るく、少しコミカルなイメージを打ち出したのです。
仮面ライダーの名物となる変身ポーズもこの時に誕生しました。

このイメージチェンジは功を奏しました。
『仮面ライダー』はこの2号ライダーの時代、子ども達に大ブームを巻き起こしたのです。

さて、事故から約半年が経過しました。
藤岡氏の傷も癒えて、復帰方法が探られる事になりました。
しかしまだ藤岡氏も完調ではなく、完全復帰は無理ですし、
そもそも一文字ライダーが大ブームを巻き起こしているのだから、
急な完全交代はあり得ません。
そこで本郷が一時帰国し、一文字と共闘する事にしたのです。

ダブルライダー共演Kamen03
二人の仮面ライダーの共闘、元々大ブームのところに、更に拍車をかける大イベントです。
藤岡氏の怪我に起因する、思わぬ副産物でした。
桜島ロケを敢行したダブルライダー編は1972年1月1日と8日、前後編で放映されました。
元旦はさすがに競合番組も多かった為か、視聴率も今ひとつでしたが、
8日は初の30%越えを果たしました。
当時の子ども達にとってはビッグなお年玉プレゼントとなったのです。

その後、本郷は再び欧州に戻り、しばらく一文字単独の回が続きますが、
3月に再び共闘編が3本放映された後、今度は一文字がメキシコに渡り、
4月から遂に本郷が日本に完全復帰しました。

本郷猛本格復帰 新1号ライダー登場 Kamen04_2
本郷の復帰にあたり、1号ライダーは外観を一部リニューアルしました。
その為、これ以降を「新1号」、これより前を「旧1号」とするようなりました。
(ただ、マスクだけでは1号と2号が区別できなくなってしまいましたが。)

この後、番組は好評のうち約1年、翌1973年2月まで、ショッカーをリニューアルした悪の新組織ゲルショッカーを登場させるなど、新機軸を織り込みながら続きました。
本郷が主役で、一文字が時々一時帰国して登場するという、以前とは逆のパターンとなりました。
最終回でも二人のライダーは共演しています。

そして『仮面ライダー』終了後、後番組として『仮面ライダーV3』がスタートします。51ik0ciykwl__sl500_aa300_
『V3』は『仮面ライダー』の完全な続編で、第1話に本郷と一文字も登場、その後も顔を見せました。
その後シリーズは継続し、現代まで続く長寿シリーズなっていったのです。

以上、藤岡氏の怪我を巡っての『仮面ライダー』誕生概略でした。

詳しい方からすればあれも抜けてる、これも・・という面もあるでしょう。
「変身ポーズの詳細」、「ライダーの外観変更の詳細」、そして個性的な脇役達の事など。
しかし、あれもこれも書くとわけが分からなくなるので、今回はこのあたりにします。

最後にひとつだけ・・・

もし、藤岡氏の怪我による降板がなかったら、ライダーブームは起きなかったか?
ネット上では、起きなかったとする意見も多いようです。
藤岡氏の一時降板に伴う、イメージチェンジがあったから大ブームになったと、
それがなければ、大きな成功には至らなかったという見方です。

これは何を言ってもタラレバ論であり、正しい答えはないのですが、
敢えて私見をいえば、藤岡氏の事故がなくても、ライダーブームは起きていたと思います。
仮に藤岡氏の怪我がなくても、明るいイメージへの路線転換は行われていたでしょう。
たしかにそれは、2号ライダー登場時に行われたほど、明確なものではなかったかも知れません。

しかし、8.2%でスタートした『ライダー』の視聴率は、旧1号編の最終となる第13話では18%まで伸びています。
それを考慮すれば、リニューアルが必要だったかどうかさえ、断定は難しいのです。
そもそも、仮面ライダーが子どもの間で大ブームになった最大の要因はなにか。
それは、それまでの子ども物にはなかった、リアルで本格的な格闘&バイクアクションです。

これが当時の子ども、特に男の子達の心を捉えたです。
東映とすればアクション映画やテレビ『キイハンター』などでの得意分野ですが、
それを子ども物に本格導入して成功したのです。
この魅力は開始時から変わらないのだから、本郷ライダーのままでもブームは起きていたと思います。

評判が良ければシリーズ化するというのも『ウルトラマン』の先例があるのだから、
ライダーもたぶんシリーズ化されていたでしょう。
ただ、現在まで続いたかといえば、歴史が長すぎて検証が難しいですね。

2010年10月 3日 (日)

ゴッホ超入門/「没後120年 ゴッホ展-こうして私はゴッホになった」六本木 国立新美術館/その生涯、理想郷アルル、ジャポニズム

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh 1853年3月30日-1890年7月29日 没年37歳)

Gogh_museum__selfportrait_1887__1_2
2010年は印象派を中心に19世紀フランス絵画をテーマとした展覧会が、日本で多く開催された年でした。
その掉尾を飾るとでもいうべき「没後120年 ゴッホ展-こうして私はゴッホになった」が
東京六本木の国立新美術館において開幕、10月1日より12月20まで、約80日間に渡り開催中です。

フィンセント・ファン・ゴッホは数多い西洋絵画の巨匠の中でも、日本で一・二位を争う知名度を持つ画家でしょう。
今回の展覧会も大きな話題を呼んでいます。
更に年明けには、九州国立博物館、名古屋市美術館も巡回する全国的なイベントでもあります。
九州国立博物館 2011年1月1日-2月13日
名古屋市美術館  2011年2月22日-4月10日


しかし、そのゴッホは生涯も、創作期間も短く、また波乱に富んだ画家でありました。
今回はゴッホの初歩の初歩、超入門編です。

ゴッホの象徴「アルル」
フィンセント・ファン・ゴッホはその晩年、南フランスのアルルに移り住みます。
現在、ゴッホと聞いて私達がイメージするタイプの絵の多くはこのアルル滞在時の1年3ヵ月ほど、
そして、アルルを離れてサン・レミとオーヴェールで過ごし、亡くなるまでの1年3ヵ月ほど、
合わせて僅か2年半ほどの間に描かれたものである、といって過言ではないでしょう。
アルルはゴッホを象徴する地名です。

アルルでの代表作
今回のゴッホ展には展示されませんが、アルル時代の代表作をいくつか紹介します。

ラ・クローの収穫(1988年)Gogh_0019_2南仏の輝くような陽光の元、ゴッホらしい黄色が印象的。

夜のカフェテラス(1988年)Gogh4_2なかなかお洒落なカフェ。明るいテラスと背景の街並、夜空のコントラストが綺麗です。

星降る夜(1988年)Gogh2bbde8daed179f210c0effdbcd920_3今年、同じ国立新美術館で開催された「オルセー美術館展2010『ポスト印象派』」
に出展され、大変な人気を集めました。美しい夜景です。

この他に、高名な『ひまわり』の連作もこのアルルで描かれました。

しかし勿論、ゴッホはアルルで初めて絵を描いたのではありません。

今回の展覧会のタイトルに「こうして私はゴッホになった」とあります。
これは、アルルの時代以降だけではなく、そこに至るまでの軌跡を、
ゴッホに影響を与えた他の画家の作品との比較も含め、掘り下げようというメッセージでしょう。

その短い生涯を本当に簡単に振り返ります。

ゴッホの生涯 超概略
フィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日、オランダの牧師の家に生まれました。
子どもの頃から気難しい面があったようです。
16歳で美術商のグーピル商会に入社します。まず、ビジネスとして絵に関わったのですね。
この商会には、4歳年下の弟テオも兄に遅れて別の支店に入社します。
テオは美術商として、その晩年まで物心両面でゴッホを支える事になります。)

しかし、ゴッホは恋愛トラブルもあって仕事の意欲を失い、1876年、商会を解雇されます。
語学教師などを経て、父と同じ牧師を志したゴッホは伝道士として活動を開始しますが、
1879年にまたも免職となります。
これは、その熱心さ、献身ぶりが仇になったしまった為ともいわれます。

画家に
1880年、27歳のゴッホはこの頃、画家を志します。
独学に加え、従兄弟の画家や美術学校でも学びました。
当時は伝道師時代の経験から、また敬愛する画家ジャン=フランソワ・ミレーの影響から、
農民をテーマとした絵が多く、暗いタッチが特徴で、後の絵とは一見した印象が異なります。
この時期も女性トラブルなどがあったようです。1985年に父が死去。

パリへ
1886年、パリにいた弟テオを頼り、ゴッホもパリに来訪します。
当時のパリは印象派など革新的な画家達が頭角を現し、芸術の都となっていました。
ゴッホも画塾に学び、多くの画家達と交流します。
親しかった画家としてベルナール、ロートレック、シニャック、ゴーギャンらが知られます。
ゴッホの絵も明るく、都会的に変化していきます。
まだ評価はされていませんでしたが、才能も開花しつつあり、交遊も広がっていった・・、
しかし、人付き合いの苦手なゴッホにはパリも安住の地ではなかったようです。

アルルへ
1888年2月、ゴッホは芸術の理想郷を求めて、南仏アルルに旅立ちます。
この地で、ゴッホの才能は花開きます。
上で紹介したような絵が次々と描かれました。
勿論、その才能はまだ世間には認められていません。

ゴッホはアルルを自らの創作の場としてだけでなく、
若い芸術家達が共に制作に励む場にし、画家達の共同体を夢見たのです。
その為、知人の芸術家達をアルルに誘いました。
それに唯一人、ゴーギャンが応じたのです。
後にポール・セザンヌ、ゴッホと並び、ポスト印象派の巨匠と称されるポール・ゴーギャンです。
ゴッホはゴーギャンの到着を待ちわびました。

1888年10月に始まった二人の共同生活、当初は順調でしたがやがて齟齬が生じます。
元々、二人の性格は違いました。
12月、再三の衝突の末、ゴッホは自分の耳を切り落とすという暴挙に出ます。
ゴーギャンは去り、村人からも警戒の目で見られるようになったゴッホの精神は病んでいきます。

サン・レミへ
1889年5月、アルルを離れてサンレミの病院に入り、約1年の療養生活を送ります。
発作に悩まされながら、ここでもゴッホは創作を続けます。
筆致は深化し、印象的な作品を残します。模写にも励みました。
しかし、やがて閉塞的な空間に長く留まる事に、不安を感じるようになっていきます。

最期の日々
1890年5月、自らの退院したゴッホは南仏を離れ、オーヴェール・シュル・オワーズの村に移り住みます。
ここでも意欲的に創作を続け、短期間に70点もの作品を残します。
しかし7月、突然拳銃自殺を図ります。
即死には至らず、自力で下宿に戻りますが、二日後の1890年7月29日、駆けつけた弟テオに看取られて死去しました。
そして、そのゴッホを支え続けたテオも半年後、兄を追うように亡くなりました。

短く、波乱に富んだ生涯でした。
ゴッホの死後、その作品が高い評価を受けるようになるまで、さほど時間はかかりませんでした。
もし自殺を選ばなかったら・・、ファンならずとも思わざる得ません。

ゴッホとジャポニズム
19世紀後半のフランスは万国博の影響で、日本の芸術や工芸品がブームとなっていました。
ゴッホもかなり熱心な日本ファンで、400点もの浮世絵を収集し、それは自らの作風にも反映されています。
そのような作品への敬愛のみならず、日本を芸術の理想郷として捉え、アルルに日本のような芸術家の共同体を創造しようてしたとさえいわれています。
はるか東の国、日本に、ゴッホはどのような理想郷をイメージしたのでしょう。
今回の展覧会には、ゴッホの浮世絵コレクションの一部も展示されています。


「没後120年 ゴッホ展-こうして私はゴッホになった」

今回の展覧会にはゴッホの母国オランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュラー美術館から120点ほどが来日します。
展示作からいくつか紹介します。

『じゃがいもを食べる人々』リトグラフ(1885年)Kartoffelesserf082_supf1661l初期の傑作『じゃがいもを食べる人々』のリトグラフ。ゴッホ自らプレゼント用に制作。

『籠いっぱいのじゃがいも』(1885年)Goghkartoffelkorbf100_lrgklhellそのじゃがいもを描いた静物画。

『灰色のフェルト帽の自画像』(1987年)Gogh_museum__selfportrait_1887__1_3ゴッホは自画像をよく描いた画家です。これはパリ時代の作品。

アルルの寝室(1888年)Gogh_0011ゴッホ自らアルル時代最高の作と称した作品。
今回の展覧会ではこの部屋が再現されています。

『アイリス』(1889年)Vangoghirises_3サン・レミでの退院直前、ひまわりと共によく題材とした花であるアイリス描いた絵。
黄色と紫の対比が印象的。
この年の9月にアンデパンタン展に出品され、好評を得たという。
ゴッホ没後の事でした。


国立新美術館
東京展の会場である六本木にある国立新美術館は2007年1月開館の比較的新しい美術館。
作品を所蔵せず、企画展や貸会場を専門とする美術館です。
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国立新美術館公式サイト
http://www.nact.jp/ 
展覧会公式サイト
http://www.gogh-ten.jp/tokyo/ 


mixi
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=25686164&from=navi

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